扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

歴史コラム #16 幕末の船の積荷のこと

2014年11月30日 | エッセイ:海の想い出

コラム11回目は山田方谷を主題に。

 

昨年秋から方谷を地域再生の先駆者として取り上げた本を執筆中。

改めて調べてみると方谷という人は地方行政のリーダーとして出色の偉人。

発想力、交渉力もすばらしいが何といっても信条そのもの、情熱が飛び抜けて優れている。

現代にこういう人がいれば地域再生などたちどころに解決するであろう。

 

表題の「積荷」とは方谷が手がけた貿易品のこと。

方谷が生まれた備中松山は山国の小国、農業を主としていては細々と生きて行くのみである。

方谷は地場産業として「鉄」に注目、領内に鉄工場を開き「釘」「備中鍬」を江戸に輸出、大儲けした。

藩で購入した商船「快風丸」は江戸などに商品を運ぶため忙しく往復した。

そこに乗っていたのが新島襄。これも「積荷」。

 

方谷の不幸は上司板倉勝静が幕府の老中だったことである。

この人は方谷を引き上げ全権を与えて改革を共に進めた藩主である。

藩政改革の成功者として幕閣の注目をあびて出世した。

そして最後の将軍慶喜の時、老中筆頭となって強硬な主戦論者となった。

鳥羽伏見でボロ負けし徳川慶喜は会津候桑名候を連れて大阪湾から江戸に逃げた。

この一向に板倉勝静も混ぜられていた。

置き去りにされた松山藩兵は自力で故郷にとぼとぼと帰還、方谷は城を開いてその繁栄の幕を下ろした。

時勢に翻弄された人々、これもまた「積荷」である。

 

 

 


茫々の御嶽神社

2014年11月28日 | 仏閣・仏像・神社

武蔵の山岳信仰の一大拠点、御嶽神社に出かけた。

新青梅街道を西へずんずんと行って山中に分け入りケーブルカー乗り場へ。

ちょうど紅葉が見頃ではあるが曇天なのが惜しい。

御嶽神社の創建はヤマトタケルゆかり。

東征の時、道に迷ったミコトを山犬が救ったといいミコトが神社として鎧を収めた。

武具の蔵というのが「武蔵」の国名の元という。

社殿の造営には坂東に入国した徳川家康の貢献が大きい。

作事は大久保長安。

山犬はオオカミと思われており狛犬など神社の各所にオオカミの意匠が用いられている。

オオカミは大口真神として独立して祀られている。

犬が神様ということでケーブルカーも犬対応、犬連れで堂々と参詣できる神社である。

宝物殿の傍らに畠山重忠の石像、姿形がいい。

宝物殿には武人が寄進した武具など多数。

中でも赤糸威大鎧が国宝、平日は開いていないので見られないのが惜しい。

 

ケーブルカーを降りてからは全てが霧の中。

等伯の松林図のような水墨画の世界である。

ところどころ紅葉が色を主張しているのがもったいないような幽玄の光景である。

天気のいい日に来るとまた違った面もちであろう。


東海道一ノ宮巡礼 #5 駿河国・富士山本宮浅間大社

2014年11月10日 | 諸国一ノ宮

一ノ宮巡礼、本日最後は富士山本宮浅間大社。

到着したら16:00過ぎ、陽が暮れていた。

富士山は昨年、世界遺産に登録された。

富士山を取り巻く、自然や信仰施設丸ごとであり、浅間大社もそのひとつ。

浅間神とは富士山の神様のこと、日本で神話を作り神様に人格を与えて親しみやすくするとき、富士山の神様にはコノハナサクヤヒメをあてた。

姫様と富士山信仰の間には姫がオオヤマヅミの娘であることに加え、ニニギとの間にもうけた子を火の中で出産したとの伝説であろう。

つまり度々大噴火し大災害をもたらす富士山を神を産む所業として寛容しようと思ったのではないか。

そしてこの地が里宮に選ばれたのはこんこんと湧き出す泉があるからだろう。

社殿のうち、本殿・拝殿・楼門などは徳川家康の寄進。

 

今回の一ノ宮巡礼は「尾張〜三河〜遠江〜駿河」と回った。

全て初参詣というのが我ながら驚くところ、昔は仏教寺院の方にばかり目が向いていたように思う。

 

 

 

 


東海道一ノ宮巡礼 #4 遠江国一ノ宮・事任八幡宮

2014年11月10日 | 諸国一ノ宮

遠江の一ノ宮はふたつあるようで小国神社に加え、掛川の事任八幡宮がそれにあたる。

この八幡様は小国神社のにぎわいを見た跡では質素に思えてしまう。

「ことのまま」というのは言葉のままに願いが叶うとの意であるといい、言が事になるとのこと。

祭神は己等乃麻知媛命(ことのまちひめのみこと)といい、アメノコヤネの母。

アメノコヤネは岩戸伝説の時、祝詞を唱え鏡を差し出した神様である。

その縁で言葉の神様ということなのだろう。

社伝によれば坂上田村麻呂が本宮山からこの里宮に遷座したとのこと。

源頼義が石清水八幡宮を勧請してからは八幡宮も併称した。

一ノ宮が八幡様というのは珍しいのではないか。

事任八幡となったのは戦後のことと由緒書きにあった。


東海道一ノ宮巡礼 #3 遠江国一ノ宮・小国神社

2014年11月10日 | 諸国一ノ宮

二俣城址から遠江一ノ宮小国神社へ。

森町の少し山に入ったところにある。

来てみるとたいそう大きな社域である。

創建は6世紀、欽明天皇の世という。

祭神はオオクニヌシ。

武田と徳川の合戦時には家康に味方し、社殿が焼失。

この恩からか徳川の天下のうちは支援が厚かったらしい。

社殿はこけら葺の古風なものであるが命じ19年の再興。

本殿へは鬱蒼とした樹木の中を歩いて行く。

今日は月曜日だというのに参詣者が多い。

交通の便利なところでも祭があるのでもないのにこれは意外。

「小国」というのは出雲大社に対する美称なのだという。

大国と小国ということだろうか。

立派すぎて拍子抜けした参詣だった。

 


東海道一ノ宮巡礼 #2 二俣城

2014年11月10日 | 城・城址・古戦場

遠江国一ノ宮小国神社に行く前に通り道の二俣城へ寄る。

浜松の平野を造った天竜川の上流、平地への出口にあるのが二俣城。

さらに遡上すると飯田、伊那に出る。

交通の要衝であるからここが戦場となったのは武田信玄と徳川家康の激突、三方ヶ原の合戦の前哨戦であった。

信濃から押し寄せた武田勢に対し、城代中根正煕らが奮戦するも天竜川から水を汲む井戸櫓を壊されて開城した。

信玄死後、長篠合戦で大勝した家康は機に乗じて二俣城を攻略、浜松平野の安全を確保した。

二俣城といえば家康嫡男信康が幽閉された地でもある。

信玄と家康、共に嫡男を自刃に追い込む悲劇を招いた。

城跡には天守台が残り、井戸櫓が復元されていた。

 

本田技研の創業者本田宗一郎氏の故郷はこの辺りだそうで記念館があった。


東海道一ノ宮巡礼 #1 三河国・砥鹿神社 

2014年11月10日 | 諸国一ノ宮

実家からの帰りに三河一ノ宮、砥鹿神社に参詣。

三河国住人だった身としては初参詣であるのが恥ずかしい。

砥鹿神社は豊川市にあり本宮山を御神体とした里宮。

有名な豊川稲荷の北東5kmほどのところにある。

三河国府からは10kmほど東にあたる。

三河国は岡崎と豊川の間の山地で東三河、西三河に分かれており、我が実家豊田市は西三河の尾張との国境にある。

よって気分としては尾張の方が馴染みが深く、豊川豊橋は反対方向になるため馴染みが薄い。

実家の近所、知立神社が三河国二宮である。

 

砥鹿神社の祭神はオオナムチ(オオクニヌシ)である。

元の信仰は本宮山の山岳信仰だったようで川を下った当地に里宮が営まれたのが大宝年間。

砥鹿の神が文武天皇の勅使草鹿砥(くさかど)氏の前に老人の姿で現れたという。

草鹿砥(くさかど)氏はそのまま当社の社家となっているそうだ。

元は日下部(くさかべ)氏といい日+砥鹿を逆にして名字にしたようだ。

草壁皇子(文武天皇の父、聖武天皇の祖父)との関係などありそうだ。

三河国は尾張を越えて直接ヤマトとの関係が深かったのかもしれない。

 

本宮山の方にもそのうち行ってみようと思う。

 


名古屋港の海王丸

2014年11月08日 | 日常のよしなしごと

連載を続けているコラムのネタにしようと名古屋港に出かけた。

練習船海王丸が寄港している。

この船は船乗りをめざす若者が乗り込み操船技術他を学ぶために運用されている帆船である。

全長110m、全幅13mほど。

セレモニーとして帆の展開を披露するらしい。

ガーデン埠頭についてみると大賑わい。

帆がたたまれた状態から全展開、若者がわらわらとマストを登っていき手で帆を広げていく。

もはや帆船が活躍する時代ではないが、その分、昔の千石船の乗組員のことなど想像するのにいい。

 

海王丸の大きさは軍鑑でいえば駆逐艦クラス。

戦艦三笠が132mであるから少し大きい。

大航海時代のガレオン船が全長50m前後であるから蒸気機関以前のものからすれば巨大な帆船である。

船のサイズを体感するにはこうした実物を目にするのが一番いい。

船もいいが若者がキビキビと動き回る姿もまたいい。

 

昼飯は栄でユウゼンのあんかけスパ。

 


徳川家菩提寺 -三河大樹寺-

2014年11月07日 | 仏閣・仏像・神社

真清田神社に加えて地元の名刹大樹寺に参詣。

来年は親父殿の三回忌、御文を買い替えたいと御袋様がいうので三河別院に行くことになった。

そのついでということである。

大樹寺は徳川家康の先祖、松平親忠が建立した浄土宗寺院、徳川家の菩提寺として歴代松平氏の墓、歴代将軍の位牌がおかれている。

家康は桶狭間の合戦で今川義元が戦死した際、別動隊として活動しており、岡崎まで撤収し大樹寺に入った。

伝説では追っ手にかかり先祖の墓前で切腹するつもりだったが住職に諭されて戒心した。

つまり大樹寺は徳川家にとって大恩あるお寺だとする。

「厭離穢土欣求浄土」という徳川家の旗印は大樹寺住職の言によるともいう。

徳川将軍の位牌は身長に合わせてあるといい、家康のものは159cm、160cmを越える将軍はいなかったことになる。

多宝塔は天文4年松平清康(家康の祖父)の寄進によるという。

最近知ったことだが家光が大樹寺を拡張し山門を建てる際、山門から総門を通して岡崎城がみえるようにせよと命じたと言い、確かにそのようにみえる。

今でも高さ規制を厳に行っているという。

徳川将軍の位牌など見て回り、親孝行もできた。


尾張国一ノ宮・真清田神社

2014年11月06日 | 諸国一ノ宮

灯台もと暗しとはよく行ったもので地元で行っていない神社仏閣がまだまだある。

実家に行ったときに気にして訪ねるようにしたい。

一ノ宮巡礼もまさにそうで東海道の一ノ宮も未参詣のところばかりである。

今日は尾張一ノ宮真清田神社に参詣。

愛知県民にとって一宮とは一宮市のこと。

大きな町ではあるが行く用事がない。

親戚でもいないと近くにあって遠い街になる。

 

さて真清田神社は名古屋と岐阜の中間にある。

国府は一宮の少し南、稲沢市にあった。近くに尾張大国霊神社はありこちらが総社。

古代の尾張は北側に重心があったことになる。

真清田神社の祭神はアメノホアカリ、丹後籠神社が祀っている。

アメノホアカリは尾張氏の祖神といい、籠神社は海部氏の祖神を祀る。

かつて愛知県出身の総理大臣に海部俊樹氏がおり愛知県出身だったことが思い出される。

真清田神社の隣に服織(はとり)神社、摂社としているが立派な社殿である。

こちらはアメノホアカリの母神ヨロズハタ・トヨアキツシヒメを祭神とし機織の神様である。

機織つながりで七夕祭りが盛大に行われる。

宿題がひとつ片付いた。