扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

歴史コラム #18 徳川三代と船

2015年03月31日 | エッセイ:海の想い出

18回目のコラムのテーマは徳川家の御用船。

このテーマを思いついたのは名古屋港で海王丸を見たこと。

全長約100mの優雅な姿を眺めているうちに船のスケール感を考え出した。

戦艦三笠は130mでこれの3割増し、大和は全長263mであるからこれの2.6倍。

帝国海軍の軍艦でいうと一等駆逐艦が同サイズである。

それを思うと大和がいかにでかいかよくわかる。

 

コラムで戦艦話をする訳にもいかないので昔の船のサイズを少し勉強した。

江戸時代の日本最大の船は当然、将軍家が持っていた。

「安宅丸」といい全長は62mと想定されている。

戦国水軍の船しかみたことのない当時の人にとって「山のような」圧倒的な存在感だったのだろう。

あまりに巨大なため、200人で漕いでものろのろとしか進まず、実戦では役に立たない代物であり、城の天守と同じ目的、すなわち威厳を示すためにのみ建造された。

発注者は将軍家光、この人は父秀忠へのコンプレックスを「大きいものを持つ」という信念に変化させた。

天守しかり東照宮しかり。

海上に安宅丸を浮かべて憂さを晴らした。

 

江戸時代の人々は海王丸や横浜の日本丸の大きさで「たまげた」。

大きさとは権力のシンボルである。

船でいえば今世界最大の船たちはもはや軍艦ではない。

米国海軍の空母が300m超、しかし豪華客船すら空母よりも大きく、資源を運ぶ輸送船は400m級がゴロゴロしトップは500mになりなんとしているらしい。

昔の人はささやかだったなあというのは愚かなことで、巨大建造物はピラミッドしかり万里の長城しかり古墳しかり。

古代の人々のスケール感はさらにすごい。

 

 


山を降りた松平 -安祥城址公園-

2015年03月29日 | 城・城址・古戦場

帰省中、中学校の同級生と会うことにした。

この原田君、歴史が好きということで城跡など回っているらしい。

早速、「織田信長の本」を進呈がてらどこかに行こうと相談。

 

彼の自宅の近くにある安祥城址を見に行くことにした。

城址は現在、安城市歴史博物館が建っている。

城は中世の武家館といった方がわかりやすく、ほんのわずかの丘に曲輪があり周囲に堀を巡らせてある。

本丸に今は大乗寺というお寺がある。

 

 

歴史館をしばし見物してから次は本證寺へ。

浄土真宗の寺院でかつて家康を悩ませた三河一向一揆の拠点となった。

境内は水堀で囲まれ隅に櫓が建っているのがそれらしい。

 

 

 

 

安城は我が故郷の隣町である。

岡崎の高校へ通う際、矢作川を渡るとやおら大平原が拡がり、地平の向こうに鈴鹿山系が裾までみえた。

大穀倉地帯であり尾張三河の繁栄の一翼でもあった。

歴史の視点でいうと松平郷から興った徳川氏は濃尾平野の東の端へ降りてきた。

司馬遼太郎さんはこれを「徳川の祖が平野に降りれば米が食えると土豪を誘った」というように解釈していた。

 

安城と岡崎の一部を得た三代信光がその本望通りに平地を本拠とした後は山を背にして西へ向かい、尾張の織田と抗争した。

7代清康が中興し、8代広忠、家康と続く。

その舞台が安城であり、我が故郷あたりで、久しぶりに走り回ってみると私の少年時代とさほど風景は変わるものではなく田畑があるか工場があるかであり、近代風になっているのみであり、空が相変わらず広い。

 

徳川家には安城譜代という一群があり歴史博物館の解説によれば「酒井」「石川」「大久保」「本多」「鳥居」「平岩」「渡辺」「内藤」をいう。

その後、徳川譜代衆は山中譜代、岡崎譜代を加え総称が三河譜代である。

もちろん安城譜代が最も古く誇りを持った。

徳川譜代の家を並べてみると戦国武将よりもむしろ同級生の顔を思い出してしまうのが可笑しい。

徳川の歴史はどうも辛気くさく人々の性格なども司馬さんが作品にしているように陰険にみえてしまう。

これは三河者の私などからすれば「正しい」。

三河者は疑い深く人を信用せずよそ者に心をひらかない。

また質素倹約を信条とするのはいまだにそうでありこれは美点なのではないかと思う。

三河譜代もその後の譜代衆も江戸に行って出世し、日本全国に散らばって大名となった。

それでも地元の三河者は相変わらず辛気くさく、その割には懐は豊かで呑気に暮らしている。

江戸の住民になった私からみれば実にうらやましい。

 

原田君と安城名物北京飯店の「北京飯」を食いながらそんなことを考えた。

 

 

 

 


美濃の名刹 -虎渓山永保寺-

2015年03月28日 | 仏閣・仏像・神社

昨日から実家に滞在している。

 

天気も良いので出発。

可児の中古車店に掘り出し物を見に行くついでに虎渓山永保寺へ。

場所は岐阜県多治見市虎渓山町。

臨済宗南禅寺派。

正和2年(1313)、美濃守護土岐頼貞はかねてより親交のあった夢窓疎石を招いた。

礎石は多治見に入って中国廬山に似た山に当寺を開いた。

1313年といえば鎌倉末期、幕府の行く末が曇ってくる時期である。

礎石は滞在4年、後に甲斐に恵林寺を開くことになる。

 

永保寺は初見である。

地元でありながら見逃していた名刹といえ、不覚といえるだろう。

駐車場は少し離れたところにあり、中央本線を渡って境内に入っていく。

 

禅寺は入山すると途端に空気が変わるのがおもしろい。

永保寺には国宝がふたつ、観音堂と開山堂。

観音堂を見に行くとちょうど結婚式をやっていてにぎやかである。

遠慮して外からながめていると檜皮葺で軒の反りが強く唐様で鎌倉の建築を思い出させる。

土岐川を引き込んだ池に橋が架かり優雅な風景となっている。

 

観音堂の左側には梵音岩があり頂上に千体地蔵が祀られている。

 

境内から少し歩くと龍浮淵。

 

観音堂に戻ってみると結婚式の一団が去って静寂に。

 

御朱印をもらいにいったらそちらに新婚さんも移動、盛大に菓子撒きをやっている。

我々の世代では必ずやっていた行事であるがまだ続いているようだ。

御朱印は「水月橋」と書いてある。

 

世俗を離れて清々しい気分になった後、可児の中古車店にBMWのE39-530iを見に行く。

珍しいアルピンホワイトの低走行極上車。

永らく探している仕様なので相当気持ちが動いたがひとまず退散。

(後日談:持っているE36M3の委託販売が不調でグズグズしている間に売れてしまった。残念)

 

 


坂東三十三観音遍路 5日目 −武蔵、十三番金龍山浅草寺(浅草観音)−

2015年03月26日 | 御遍路・札所

都心に用事があったのをいいことに浅草寺に納経。


御詠歌「ふかきとが 今よりのちは よもあらじ つみ浅草に まいる身なれば」


これで十四番まで納経をすませたことになる。

十五番からは関東平野の外周を東へ回って行くことになる。

行ったことのない寺院や地域ばかりなので巡礼の他にも楽しみである。


坂東三十三観音遍路 4日目 −武蔵、十二番華林山慈恩寺(慈恩寺観音)−

2015年03月25日 | 御遍路・札所

遍路4日目は武蔵岩付の慈恩寺

M3Bが委託販売に出ずっぱりなのでお供は今日もS4。

慈恩寺は天台宗、本尊は千手観音。

本堂を盛大に整備中である。

平地に建つこぢんまりとしたお寺であるが由緒は正しく岩付城の太田資正の庇護を受けて栄えたという。

江戸時代は日光社参の際に将軍が立ち寄ることもあった。

ちょっと驚くのが三蔵法師のこと。

旧日本軍が南京でかの三蔵法師玄奘の遺骨を発見、南京政府から日本仏教界に分骨されて当寺に招来、戦後逆に台湾へ分骨され、昭和55年には藥師寺に分骨されている。

寺は見た目によらぬものと感心。

御詠歌「慈恩寺へ 詣る我が身も たのもしや うかぶ夏島を 見るにつけても」

 

 

次の札所、十四番は浅草浅草寺。

クルマで行くと面倒なので後日にし、近くの中古車店にポルシェを見に行く。

10数年前の911が300万くらい。

これを安いとみるか高いとみるか。

 

もう1箇所、江戸川区の店でアルピナB10を見物。

 

 

 


坂東三十三観音遍路 3日目 −武蔵、九番・十一番・十番−

2015年03月23日 | 御遍路・札所

坂東三十三観音巡礼3日目。

今日は埼玉県比企三山に向かう。

お供はS4。

 

最初は九番慈光寺。住所は比企郡ときがわ町。

比企とは鎌倉御家人の重鎮比企一族の本貫であろうか。

宗派は天台宗、本尊十一面観音。

結構な山の中にあり山門をくぐると本堂。

本堂から少し登っていくと観音堂。

 

 

秘仏の十一面観音が安置される観音堂には頭上に白馬が納められている。

何でも左甚五郎の作といい、夜な夜な田畑を荒らすので村人が怒って捕まえ奉納してしまったという。

 

 

写経館があり国宝の法華経写経の複製があった。

結構な広さの境内である。

御堂の装飾もなかなか立派で宝物館も見応えがあった。

 

御詠歌「聞くからに 大慈大悲の 慈光寺 誓いも共に 深きいわどの」


次は十一番岩殿山安楽寺(吉見観音)に納経。

慈光寺から東へ20kmほどの距離。

比企郡吉見町、真言宗智山派で本尊は聖観音。
行基菩薩が観音像を彫って岩窟に納めたのが起源という。
源頼朝の弟範頼が幼少期に身を隠していたともいう。
天文6年(1537)、北条氏が松山城を攻めた際に全伽藍が焼失した。
城主は扇谷上杉朝定で河越城が落城したためこの地に逃れた。
天文14年に再起を図って反北条氏を糾合して河越城奪還を期すが野戦で大敗、朝定は討死。
扇谷上杉家は滅亡する。
 
 
 
 
 
 

こちらの三重塔は寛永年間に築かれた。

 

納経所は民家風で玄関で犬が番をしていた。

といえどもやる気がない。

 

犬をかまった後に十番厳殿山正法寺(岩殿観音)に納経。

東松山市岩殿、真言宗智山派で本尊は千手観音。

 

仁王門が迎えてくれる。

 

 

このあたりは比企丘陵の最高地点らしく、坂上田村麻呂が物見をしたという伝承がある。

鐘楼からの眺めもいい。

 

今日は3つ納経で終了。

花粉症が最近ひどくズルズルでつらい一日でもあった。

 

 


坂東三十三観音遍路 2日目 −相模、十四番瑞王山弘明寺(弘明寺観音)−

2015年03月17日 | 御遍路・札所

本日最後の納経、十四番弘明寺(横浜市南区)に向かう。

高野山真言宗、本尊は十一面観音。

 

神奈川県の札所は九箇所あり、すでに八つ納経したことになるが、十三番浅草浅草寺の後に十四番があり、十五番白岩観音(群馬県高崎市)に向かう。

つまり浅草から一度南下してから北上する順番となっている。

 

弘明寺は京浜急行の弘明寺駅が最寄で駅から商店街になっているため駐車場を探すのに少々とまどった。

駐車場は坂を登ったところにあるが駅からやってくると山門をくぐって石段を上ってくることになる。

小高い丘の上に立地している。

 

今日一日で五箇所に納経。

これで神奈川県の札所が終了。

次は順番に戻って九番から武蔵の札所巡礼を始めようと思う。

 

御詠歌「ありがたや ちかひの海を かたむけて そそぐめぐみに さむるほのやみ」


坂東三十三観音遍路 2日目 −相模、六番飯上山長谷寺(飯山観音)−

2015年03月17日 | 御遍路・札所

続いて六番長谷寺(厚木市飯山)に向かう。

高野山真言宗、本尊は十一面観音。

昼前に到着、山が近く山門から登っていく。

 

 

 


境内からは相模国が一望できる。

五番七番八番は市街地の立地なので風景に乏しいがこちらはいい眺めである。

 

御詠歌「飯山寺 建ちそめしより つきせぬは いりあいひびく 松風の音」




坂東三十三観音遍路 2日目 −相模、七番金目山光明寺(金目観音)−

2015年03月17日 | 御遍路・札所

六番飯山観音の前に七番金目観音(平塚市南金目)に納経。

 

関東平野の西の端、平塚市の西にある。

この場所であるが、五番六番七番の巡に納経しようとすると一度通り過ぎてから戻ることになる。

昔の交通事情など勘案しても不思議ではある。

 

門前から西をみると富士山が頭を出している。


御詠歌「なにごとも いまはかなひの 観世音 二世安楽と たれか祈らむ」


坂東三十三観音遍路 2日目 −相模、五番飯泉山勝福寺(飯泉観音)−

2015年03月17日 | 御遍路・札所

朝から坂東三十三観音遍路。

S4で五番勝福寺へ。

9時前に到着。

快晴で気持ちがいい。

 

勝福寺は真言宗、本尊は十一面観音。

 

勝福寺は二宮尊徳ゆかりらしく、立派な銅像が鎮座。

 


御詠歌「かなはねば たすけたまえと 祈る身の 船に宝を つむはいいづみ」