扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

久々の帰省

2021年08月07日 | 日常のよしなしごと

法事の帰省、実家に2泊3日でいた他は誰とも会わずどこにも行かなかった。

こういう帰省の仕方は珍しく、感染症蔓延下でならでは。

坂東で暮らしていると懐かしいのが故郷の食物・料理、今回も楽しみにしていたが、豊橋駅構内のきしめん、お稲荷さん付きだけ。

味の方はちょっと残念だった。

 

ところで新幹線は名古屋の会社に勤務していた頃、随分利用した。

当時はエクスプレス予約というサービスが導入された頃、今でいうスマホで座席予約ができて便利になったと喜んでいた。

さすがに20年近く経ってみるとサービスはさらに進化。

スマホで座席を予約してICカードを登録、駅に行って改札を通ると座席指定券が紙で出力される。

要は駅でキップを発券する必要がなくなった。

そんなIT社会化の話は当然として異常なのは客席の空き具合、夏休みお盆直前であるのに全車両ガラガラの状態。

私はこだまのグリーン車早期割引を利用したがその車輌に乗客は数人。

感染症が蔓延する社会の不気味さを肌身に感じた。

普段、家のみで活動していて外出、人混みも嫌いな私はこうしてたまに世間に出ると驚いてしまうが、ふつうの社会人でならばもう慣れっこになっているのかもしれない。

混み合っているはずの駅を行き交う人々は20代までと思われる若者が主流、わずかに出張しているようなビジネスマンが暇そうに歩いているのみ。

60代を超えるようなお年寄りの姿がまあ見えない。

家でオリンピックでも視ているのだろうか。

これまた不気味な現象。

 

 


立地の妙 100名城No.151 吉田城

2021年08月05日 | 日本100名城・続100名城

兄者の初盆ということで「帰ってこい」と御袋様がいう。

東京都は先日、緊急事態宣言が発令されたばかり、お盆の帰省も控えた方がいいと御公儀はいう。

こちらは先日2回目のワクチン接種しているので多少リスクは低かろうがまだ予断を許さない状況でもある。

油断するつもりもないが御袋様に会えるのもそうそうない機会なので行くことにした。

ふつうはクルマで行く以外考えないが、今回は新幹線を利用した。

この御時世、途中で寄り道していくのも気が引け、荷物をたくさん持って行ける以外にクルマで行くメリットはそれほどない。

といってもここ1年以上、歴史関係の取材撮影をしていない。

思いついて豊橋で下車、吉田城の100名城スタンプをもらいに行ってみた。

 

吉田城は豊橋駅から歩いて15分ほど、国道一号線沿いにあって何度も傍を通っている。

国一すなわち旧東海道、吉田城は交通の要衝である。

吉田城の始まりは1505年、牧野古白によるものという。

牧野氏はそもそもは阿波国の住人紀氏の流れ田口氏が平家に属して源氏と一ノ谷で戦い、破れて源氏に寝返ったもののその後刑死、末裔が承久の乱の功で三河国宝飯郡牧野庄の地頭となった。

その後牧野氏は牛窪城を拠点に戦国で頭角を現した。

東三河には渥美半島に勢力を持つ戸田氏が牧野氏と対抗した。

吉田城の前身今橋城を築いた牧野古白は翌年今川氏親の命によって戸田氏に攻められている。

また松平氏が勃興すると家康の祖父清康が今橋城を落としている。

 

ところで三河は東と西に別れており、濃尾平野の東端が西三河、豊橋平野を中心とした東部が東三河である。

私の故郷は西三河、尾張国との境目にあり心理的には尾張に近く岡崎までが行動範囲であった。

豊橋や豊川は別の国のような意識があり日常的に行き来するエリアではなかった。

岡崎の東側はすぐに山地となりひと山越えると東三河、だだっ広い平野の住人からすれば別の国である。

東海道を高速道路で静岡から来ると山地を抜けて岡崎平野に入ると故郷に帰ってきたという気分になる。

戦国の人々にとってもそれは同じ感覚だったことだろう。

 

家康は今川義元の死によって当面の脅威を逃れたがそれは三河の主を失ったことを意味した。

今川の呪縛をとかれ岡崎城を拠点とした家康にとって織田徳川領国を確保するためには東三河の国人を統制する必要がある。

一向一揆の苦境を脱した家康は衰微する今川家を危ぶんだ戸田牧野の帰服を受けて三河国主となった。

そしていよいよ遠州浜松をうかがうことになる。

牧野氏が家康に服したのは永禄9年(1566)の頃というから家康は織田信長と同盟状態、上方は三好三人衆が暴れて混乱していた頃のことである。

徳川譜代家臣という意味では遅い部類といえようが、両氏はなかなかの厚遇を受けて戸田氏は信州松本を領し牧野氏は長岡藩主となった。

 

吉田城は現在、豊橋公園となって整備が進み、かつての水堀は埋められて往時の面影はなくなってしまった。

三の丸には市役所が建ち、美術博物館も三の丸域内にある。

こうした城跡は歩いてみてもおもしろくない。

よって酷暑の頃ということもあって市役所の展望ロビーから遠望するのみにした。

陽が少し落ちてきたとはいうものの歩くと暑い。

ふうふうと市役所にたどり着くとエレベータで最上階へ。

ここからの眺めはたいへんいいもので蛇行する豊川のほとりに築かれた用地選定の妙がうかがえる。

遠くには三河湾や遠州灘がみえており、北をみれば豊川の上流に長篠方面、武田軍が遠征してきた方面である。

ここを押さえれば東海道の防衛はもちろん、浜松からの侵入者への備え、信州からやってくる武田勢への援軍も容易、海上交通をも握ることができる。

 

肝心の城跡、縄張は残念ながら深い樹木に覆われた公園がみえるのみで実に残念。

ほぼ唯一の遺構、鉄櫓は最上階の屋根が少し見通せるだけ。

それでも豊橋の町とはこういうものかと今さらながら体感できたことは地元の地勢を知る上で参考になった。