清水坂を降りていき、松原通を西へ。
この道は通ったことがなく、左手に「よーじや」を見つけ、土産でも買うかと入ってみた。
定番のあぶらとり紙に加え、男性用のふきとりシートなどを買った。
東大路を越えて松原通をずんずん行くと右手に珍皇寺があった。
「おおこれは御参りせねば」と思い立って参詣。
六道珍皇寺は京の冥界としてその筋の好事家には有名なスポット。
いつか行こう行こうと思ってつい後回しになっていた。
六道の辻に立つ。
六道とは仏教の輪廻転生する世界のことで天道から地獄道まで6つあることから六道という。
その入口が六道の辻ということになるが、平安の頃、このあたりは鳥辺野という火葬場で死者が旅立つ場所だったことからその名がついた。
創建は延暦年間といい、空海が開いたともその弟子が開いたともいう。
現在は臨済宗建仁寺派に属する。
この寺は小野篁との関係によって名高く、地域住民の信仰が篤いともいえる。
小野篁は私が好きな人物でコラムにも取り上げたことがある。
一族から小野妹子が出たように朝廷の外交分野で活躍した。
834年、藤原常嗣を正使とする遣唐施設の副使に任ぜられた篁は、出航後、風に恵まれず失敗を続けた。
三度目の挑戦にあたり、藤原常嗣が自分の船を篁の船と交換せよと強要し、これに怒った篁は乗船を拒否、あてつけの歌を詠んで罰せられ、隠岐に流された。
この時詠んだ歌がいい。
「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣り舟」
配流されて悄然と船出したと揶揄されるのがいやだったのだろう。
この歌、和歌の世界では「もう会えない愛しい人に元気で発ったよと伝えておくれ」という軟弱な気持ちと解釈されてもいるが、篁の人生を重ねてみれば、
「おいこらそこの猟師よ、堂々と出て行った俺の姿を役人どもに報告しとけ、あほんだら」
との心と考えたいのである。
さて、篁は朝廷の役人という役目の他に、裏の顔を持っていたといい、昼は朝廷に出仕し、夜は六道の辻から魔界に入って閻魔大王に奉仕したという。
その魔界への通勤路の入口が珍皇寺の境内にある井戸だった。
篁の地獄での仕事のひとつが紫式部の弁護。
エロい作品を書いた紫式部が地獄に落ちるところを擁護したという。
この両名、同時代に生きていない。
紫式部は篁死後、百年以上後の人物なのである。
篁が地獄専門職になった後、大灼熱地獄に落ちてきた女史を救ったことになろうか。
たぶん、紫式部の愛読者がよからぬ噂が立ったのを哀しみ篁が救ったという伝説をこしらえたのだと思われる。
さて、現代の六道の辻はふつうの住宅街の中にあって魔界の入口らしさは全くない。
件の井戸は境内の奥にあって非公開、わずかに覗ける程度である。
六道の入口という機能は現代にも生きている。
お盆が来ると京の人は、ここから故人が還ってくると考えてる。
高野槙を持って珍皇寺に行き、「迎え鐘」をついて故人の霊(おしょらいさん)をお迎えし槇の葉にお移しして家に還ってもらい、五山の送り火であの世に送り出すのである。
本堂や井戸など特別公開される時期もあるようだが今日は誰一人いない。
呼び鈴を押してお寺の人に来てもらい、御朱印をお願いした。
私のような小野篁好きは結構いるものらしく、「篁グッズ」がいろいろあった。
ついフィギュアを買ってしまった。
帰りがけに迎え鐘を撞かせてもらった。
この鐘は紐を外から引っ張って撞くのである。
時期が違い人でもないが、親父殿や昔飼っていたネコ、この前死んだ小梅などゆかりの霊に「忘れてないね」と思ってもらえればいいなあと思ったりした。