扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

歴史コラム #24 海の社の鎧

2016年03月31日 | エッセイ:海の想い出

コラム24回目は大山祇神社。

2011年5月に四国に行った際、しまなみ海道を通って参詣した。

この神社に行く目的は国宝の具足をみることが一番。

 

念願をかなえて大変うれしかった。

予想通りに見事な鎧兜の数々をながめるといろいろ妄想が膨らむ。

義経と頼朝の甲冑が同じ部屋にあったり、名だたる武将のものがケースにずらりと鎮座している様は昼間だからいいが夜になれば持ち主が亡霊となってブツブツ言い出すのではないか。

鶴姫のものという傑作もおもしろい。

腰の辺りがきゅっとしぼられていて見るからに豊満な女性用。

鶴姫とは神社の大祝の娘、父から武芸を教わり大内水軍と堂々と戦い、敵将を討ち取ったという。

史実がどうかは定かではないようだが、これはもう鶴姫の所用とするしかない。

猛将鶴姫は鎧を脱げば意外にあでやかなできさくな娘だったのだろうなどと妄想話を書いてみた。

 

 


京都遍路 #12 西国十一番 深雪山醍醐寺

2016年03月23日 | 御遍路・札所

次の目標、十一番醍醐寺は泉涌寺を東に山を降りていった先にある。

山を越えていけばおよそ8kmくらいだから歩いて行けないこともない。

遍路の順番からいけば、十番が宇治の三室戸寺、十二番が大津の正法寺であるから遍路道は東山の東側を北上し、三井寺まで行って逢坂の関を越えて京に戻り、今熊野に到ることになる。

今日、今熊野から醍醐寺に公共交通機関で行くには結構大変でバスを乗り継がねばならない。

急ぐ度でもないのだが、地下鉄で行くことにし、東大路を北上して地下鉄東山駅で東西線に乗り醍醐駅下車で歩く。

昼飯がまだだったので、たまたま見つけた餃子の王将ですませた。

 

醍醐寺には2007年の4月7日に詣でている。

9年前になるが随分駅前の開発が進んでいるように思われる。

前回は上醍醐の諸堂を見にいったのだが、結構な山道で苦労した。

2008年8月に落雷によって上醍醐の准胝観音堂が焼失する前のことである。

本尊も御堂と運命を共にしたのだが失われたのが御堂ひとつだったのは不幸中の幸いだった。

本来、上醍醐を御参りしての遍路だとは思うのであるが、往復2時間以上の登山をやる時間がない。

納経は下醍醐の観音堂で受け付けている。

 

下醍醐は三宝院や五重塔で有名であり、それらは急ぎ足にして霊宝館をみる時間を残しておく。

霊宝館には上醍醐の薬師堂から降ろした薬師如来坐像が公開されていた。

私はここの五大明王像が好きで、特に水牛に乗った大威徳明王に会うのが楽しみだった。

 

霊宝館の桜は特に有名だが、さすがに満開とはいかなかった。

京都の西国遍路はこれで終了。

山科まで地下鉄で出てJRに乗り換え、在来線を乗り継いで実家に帰った。

 

   

 

    

 

 

 


京都遍路 #11 西国十五番 新那智山今熊野観音寺

2016年03月23日 | 御遍路・札所

今熊野観音は空海ゆかりの霊場で本尊は空海作の十一面観音である。

熊野とは紀州熊野のことで、後白河法皇など熊野を熱烈に信仰した天皇や朝廷に保護された。

京に新しく熊野霊場を設けたから「いまくまの」なのである。

東山三十六峰は今熊野のもう少し先の伏見稲荷のあたりで終わる。

御所辺りからいえば、山尽きなんとするあたりに鎮座するのもなるほどと思われる。

 

当寺には泉涌寺道を上ってきて分かれ道を左に行く。

右に行くと泉涌寺である。

泉涌寺には昔行ったことがあって、楊貴妃観音像などを見た。

参道が下り坂になっているところが特徴だった。

 

今熊野観音は初参詣になる。

境内は広く高低差もあり、往時の権勢を彷彿させる。

納経などしている最中、法螺貝がぼうぼうと鳴り響いた。

現代の修験者が吹いているのであろう。

 

 

御詠歌

 「昔より 立つとも知らぬ 今熊野 ほとけの誓い あらたなりけり」


京都遍路 #10 丈六戒光寺

2016年03月23日 | 仏閣・仏像・神社

泉涌寺道を上っていく途中に丈六戒光寺なる泉涌寺の塔頭がある。

後堀河天皇勅願所として安卓2年(1228)、猪熊八条に建立され、正保2年(1645)に後水尾天皇の発願によりこの地に引っ越してきたという。

 

ここも初見、今日は見逃しのお寺神社に立ち寄っている。

寄ってみる気になったのは丈六(5.4m)の釈迦如来像が公開されているのを立て看板でみたからである。

山門をくぐると右手に本堂があり、上がっていくと丈六の立像がお迎えしてくれる。

外からみた感じでは想像の付かないような巨像で運慶湛慶親子の合作ということらしい。

この像は「身代わりのお釈迦様」として名高いらしい。

後水尾天皇は後陽成天皇の皇子である。

信長を京に招いた正親町天皇、その長男で本能寺の変の際に信忠とともに二条御所にいた誠仁親王が皇位につくことなく薨去されると、親王の子、後陽成天皇が即位した。

後陽成天皇は秀吉の天下と共にあった天皇で、江戸開幕の時まで皇位にあった。

後陽成天皇の第三皇子が後水尾天皇である。

この時代の天皇は、朝廷が経済的な破綻状態から天下人の保護によって復活してくる過程にあり、キングメイカーでありつつ、その意向によって行動を左右され続けた。

家康は武家の対抗勢力が豊臣家以外になくなると、朝廷の統制に乗り出し、孫の和子を入内させようと工作した。

つまり後水尾天皇の中宮として送り、男子を産ませて皇位につけようとした。

さすれば秀忠は天皇の外戚となる。

この試みはなかなか実現せず、元和6年(1620)ようやく実現した。

後水尾天皇と和子の間に女子が生まれ、待望の男子が生まれたものの夭逝し、徳川の野望はかすんだ。

そして天皇が和子との間に生まれた女子、明正天皇に譲位したことでその野望は水泡となった。

和子入内や皇位継承の件で、藤堂高虎にしばしば恫喝されたのが後水尾天皇である。

そういう胃が痛くなる生涯を送られた後水尾天皇は東宮の時、刺客を放たれた際、釈迦如来が身代わりとなって身を守ったという逸話が残るのがここの丈六像である。

このことを感謝して今日の戒光寺がここにある。

 

目の前に拝むお釈迦様は色彩がよく残り、帝の身代わりとなった証拠という首の辺りの赤い血の色も認められる。

その他、戒光寺には新選組を脱退して油小路に散った御陵衛士の墓所がある。

そちらは事前申込みがいるようで見に行けない。

 

京都にはこういった歴史の小ネタを振り返るいい場所がそこかしこにある。

 

泉涌寺の入口、戒光寺はこの先にある


京都遍路 #9 今熊野あたり

2016年03月23日 | 来た道

泉涌寺、今熊野の辺りは私がかつて住んでいた地域であり、懐かしい。

 

大学に入学した最初は、京大の近く、医学部の西の裏あたりに下宿した。

そこからひとつ引っ越してさらに引っ越したのが今熊野日吉町だった。

昔の住所を引っ張り出してこないとどこに住んでいたかはわからないが、細い筋を通って入っていった鉄筋のアパートの1階だった。

何故、そんな大学に通いにくい下宿に行ったかというと、入学したハナから学校には全く行かなくなってしまったことと、実家に帰るのに京都駅まで歩いて行けるため便利だったこと、城陽市で家庭教師を初めて南方面に行くのに便利だったことなど考えたのだと思うが、すぐまた上賀茂に引っ越してしまうのだから対した了見でもなかったのだろう。

その頃、将軍塚あたりで単車で事故をし、左足がギプス固定となった状態で退院した私はその足で近所のバイク屋に原チャリを買いに行き、即納してもらったラッタッタに松葉杖をくくりつけて三十三間堂の隣の病院まで通った。

ふたつ隣には京大のアイスホッケー部の某君がおり、二階に原田さんという陽気な京大生がいた。だから学校の近くに住む人ばかりでもなかったといえる。

原田さんの部屋にはたまに遊びに行ったように思うが、ビートルズのことをいろいろ教えてもらった記憶がある。

京都というのは随分蒸し暑いところで、夏はべったりと風が吹かず空気が動かないので心神が溶ける。

そんな環境で扇風機ひとつで過ごしたのだから、人間便利でなければ何とかなるものともいえる。

 

この下宿で思い出すのは、大家の奥さんのことである。

毎月、決まった日に現金で下宿代(1万円〜2万円くらいか)を隣の大家さんに持っていく。

大家さんは品のいい女性で権高く、事務的なこと以外はしゃべらず世間話もしなかった。

この家には妙齢の娘がふたりいたのだが、たまに出くわすと奥さんが「悪い虫がつく」とばかりに隠そうとするのがおもしろかった。

私が京都人にあまりいい印象がないこと、お金が有り余っても京都の洛内に住もうなどとは決して考えないだろうことはこの奥さんのイメージや、何軒か行った家庭教師先の奥さんのイメージが裏にある。

 

当時は風呂などついていないから銭湯に行く。

歩いて行ったのだろうが、どこに通ったのか全く思い出せない。

飯はJRの線路沿いに定食屋があって、そこに通ったことは覚えている。

かすかな記憶を頼りにのぞいてみたが何もなかった。

まあ、30年も前のことなので店主も現役ではいられないのかもしれない。

 

京都は奥さんがいけずだったこととは別の面があり、我々の頃は少なくとも「学生さんの町」として貧乏学生にはやさしい町だったように思う。

今どうなっているのかわからないが、どんどん洗練されて表面上はきれいになり、便利になっていく京都を歩くと「こういう町ではなかったのになあ」と思うことしきりである。

自分がいけずなのかもしれないが、「京都ブランド」なるものがまがいものでいかに住みにくいかは2時間くらいの講演ができる。

だから京都に憧れるお嬢さん奥さんが「どこどこに行ってきた」などとおはしゃぎになるとつい、チャチャを入れてしまうため、この頃は京都話には口を挟まず、じっとしていることにしている。

 


京都遍路 #8 下御霊神社 

2016年03月23日 | 仏閣・仏像・神社

革堂のひとつ来たのブロックが下御霊神社。

革堂と同じようなうなぎの寝床である。

こちらも初参詣。

 

御霊神社は上下あって、上御霊神社は北区の今出川と北大路の間にある。

下の神社は豊臣秀吉の寺社区画整理の一環で現在の場所に移転してきた。

 

この神社の祭神は怨霊であることが特徴。

社伝では貞観5年(863)、神泉苑で御霊会が行われた際の御霊六座に二座加えた八座を祀ったのが創始という。

御霊には早良親王、藤原広嗣、橘逸勢がいる。

決して広くはない境内には末社がいくつかあり、中に山崎闇斎を祀った祠があった。

 

この後、東山の今熊野観音に向かうために丸太町通りをバスで東大路まで行き、乗り換えて泉涌寺道まで行った。

 


京都遍路 #7 西国十九番 革堂行願寺

2016年03月23日 | 御遍路・札所

市役所の西側の通りである寺町通りを北に行くと骨董店など小さなお店が並ぶ。

囲碁の本因坊発祥の地もこの通り沿いである。

一保堂というお茶の老舗を過ぎて次の次のブロックが革堂の表門。

お店がうなぎの寝床のような奥に深い形をしているように、お寺も通り沿いは実につつましく、見過ごしてしまいそうである。

実際、私はこのお寺のことを西国三十三所を発願するまで知らなかった。

 

革堂行願寺の開創は行円という。

行円がまだ俗人だった時、狩りをして鹿を射、その鹿が死ぬ間際に子鹿を産んだのを見て親を殺したことを悔いた。

出家して開いたのが行願寺である。

革堂の元々は丸太町通りを北へ行った一条小川にあり移転してこの地へきた。

 

行円は鹿の革を身にまとったことから「革の聖」と呼ばれ、行願寺が革堂(こうどう)さんになった。

鹿の革といえば空也上人も鹿の革袋を提げ、鹿角の杖を持っている。

そちらも違った鹿ゆかりのモノである。

次の二十番札所は西京区の善峰寺になるため、順序を溯って十五番の今熊野観音に詣でることにする。

 

 


京都遍路 #6 本能寺のこと

2016年03月23日 | 来た道

次の札所、革堂に行く前に本能寺に参詣してみることにした。

今では本能寺は烏丸御池の交差点の西にあるが、信長が消えた時の本能寺は一筋南、烏丸通と堀川通の間にあった。

私は若い頃、妙にオリジナルにこだわる悪い癖があって、「本能寺は焼けて移転しているのだからあまり価値はない」などと思っていたのだと思う。繁華街にあって山門をくぐるまでのドラマがないことも興味薄の原因だったろう。

あれだけ河原町やら寺町やらを通っていたのに本能寺に参詣しようと思ったことが一度もなかった。

 

本能寺は法華宗の寺院で市中の一等地にあって相当大きな境内を持っている。

寺町通りに表門があり、まっすぐ東へ向かうと西向きに大きな本堂がある。

本堂脇に織田信長の墓があり拝殿がついている。

周知の通り、信長は骨一つ残さず消滅したため、遺骨は入っていない。

代わりに信長佩用の太刀が納められているらしい。

 

信長の発想は戦国人だった素性からすれば極めてユニークである。

以前、信長に関する本を執筆していて気づいたのだが信長には城に対する執着がない。

信長が清洲-小牧山-岐阜-安土と本城を移動させていったことはよく指摘されていることなのだが、信長にとって城は要塞でも居住空間でもなく、「オフィス」だったと考えたい。

つまり、経営規模が大きくなって商圏が広がれば本社を移転させるのであり、城がオフィスなだけに凝るポイントが違ってくる。

旧本社跡地は部下に任せ、自身は新たな事業領域を考えてプランを練り、進め、成功すれば本社を形にする。

 

京に城を築かなかったのは京にオフィスを構える必然性を感じなかったのであろう。

石山本願寺を強制移転させることに成功し、西国制覇がみえてきた時に次の本社候補地は大坂なのである。

京に投資するのはムダと考えた。

それでも京に滞在する機会はある。

信長は京滞在中の定宿を本能寺に指定した。

寺にしてはまあまあの要害だったのであろう。

とはいえ、明智の精鋭に攻められ、部下数十人では護れるものではない。

彼の感覚では無駄遣いにしかならないが、城など造っておいた方がよかったなあということになる。あるいは息子信忠と一緒にいれば・・・

 

ちょっと調べてみたら、本能寺と信長のゆかりは鉄砲だったなどという説がある。

権勢盛んな本能寺は遠く種子島や堺に信者がいて、鉄砲や弾薬の調達に有利な立場にあり、信長との友好関係に大いに寄与したらしい。

 

本能寺には個人的に「ゆかり」がある。

京都大学に合格し、晴れて京都暮らしを始めた私は入学早々、アルバイトでもやってみるかと発願し、斡旋所で職を探し、「本能寺会館」なる場所の求人を見つけた。

どんな仕事かも考えずに「本能寺」のブランドだけで嬉々として面接に行き、即座に仕事を始めた。

仕事というのは本能寺会館なる宿泊宴会施設から出る食器、皿洗いである。もちろん機械で洗うのだがすき焼き鍋などは手仕事である。

この職場のリーダーは京大生の前田さんという人で妙に陽気だった。

他に同志社の人、立命館の人もいたような気がする。

出勤は会館横の階段を下りて地下からだったから玄関から入ったことなどない。

このバイトは1年やらなかったと思う。

塾の講師や家庭教師といった割の良いアルバイトがみつかったからだが、御池通を単車で通る度に「みんな元気かなあ」と思っていた。

私のバイト先は構えなど当時のままである気がする。

社会経験のはじめが本能寺だったことを懐かしく思い出した。

 

信長公廟

 

かつての本能寺会館、今は「文化」がついた


京都遍路 #5 西国十八番 紫雲山頂法寺六角堂

2016年03月23日 | 御遍路・札所

市バスで五条通を西へ行き、烏丸五条で下車、地下鉄に乗り換えて烏丸御池で下車。

南へ2ブロック行って東へ曲がると六角堂に出る。

 

六角堂は2回目だと思う。

オフィス街のビルに埋まっている小さな御堂である。

その名の通り、六角形の平面をしている建物に向拝がついた形をしている。

この寺は聖徳太子ゆかりの寺で、物部守屋との決戦に勝利した太子は「勝った暁には四天王寺を建立しましょう」という如意輪観音との約束をかなえるたえの材木を求めてやって来た。

泉のほとりの多良の木に如意輪観音像をかけておいたらどうしても枝から離れず、どうしたものかと思っていたらその夜、観音様が夢に立ち、「この場所で衆生を救いたい」という。

太子は紫雲たなびく霊木を使ってこの六角堂を建てて如意輪観音を安置した。

 

時は下って建仁元年(1201)、親鸞が叡山を下りて六角堂に百日参籠し、如意輪観音に導かれて法然と出会い、また煩悩おさまらぬ親鸞に如意輪観音が現れ「女犯の夢告」をする。

まあ浄土真宗の重要教義誕生の瞬間といってもいい。

 

他に、太子が沐浴したという池のほとりの坊、池坊の坊さんが生花を供えていたことから発展したことで「いけばな発祥の地」とされ、池坊と密接な関係がある。

 

納経をすませてしばし鳩を眺めながら休憩。


京都遍路 #4 京のういろう 

2016年03月23日 | ご当地グルメ・土産・名産品

六波羅蜜寺から五条通りのバス停に出ようと歩いている時、「ういろ」の看板が気になった。

愛知県出身の私にとってういろうは特別なものではないのだが、京都のういろうというのは恥ずかしながら気にしたことがない。

五建外良屋」という屋号のお店はここが本社工場ということらしい。

創業は安政2年(1855)というからペリー来航の騒ぎ収まらぬ頃である。

2本ばかり買い込んで道々のおやつとして重宝した。

 


京都遍路 #3 西国十七番 補陀洛山 六波羅蜜寺

2016年03月23日 | 御遍路・札所

珍皇寺の門前、松原通を次の角で南へ曲がったところが六波羅蜜寺、十七番札所である。

この寺は何回か行ったことがある。

仏像が目当てだった。

 

以前の記憶からすれば随分、境内が綺麗になった。

寺の開創は天暦5年(951)、空也上人の手による。

空也というお方は醍醐天皇の御子で修業した後、尾張国分寺で出家した。

踊念仏を始め、庶民と共に歩いたため「市の聖」と称された。

空也は社会インフラの整備に熱心で、各地で道路や橋を造ったりした。

この筋の先人としては行基や空海らがいる。

宗教者が庶民のためのインフラ整備に活躍したという事情は日本独特のものではなかろうか。

政府主導よりもはるかに効率的に労働力や資金を調達しえたのであろう。

 

今日は納経に来たのであるから本堂に座ってみた。

御朱印をいただいてから懐かしささえ感じる仏像をみる。

 

以前、来た時の記事にも書いたかもしれないが、宝物庫の中の仏像で好きなのが地蔵菩薩立像。平安時代の作で国の重文。

ここは実在の人物を模した像が豊富で、空也上人や平清盛、運慶湛慶などの姿形は初めてみた高校生の頃から脳裏に刻み込まれた。

 

本尊は辰年のみ御開帳ということだから、次は2024年、私は何と還暦である。

その年まで生きていられないかもしれないが、お礼参りに来たいと思う。

 


京都遍路 #2 六道の辻

2016年03月23日 | 仏閣・仏像・神社

清水坂を降りていき、松原通を西へ。

この道は通ったことがなく、左手に「よーじや」を見つけ、土産でも買うかと入ってみた。

定番のあぶらとり紙に加え、男性用のふきとりシートなどを買った。

 

東大路を越えて松原通をずんずん行くと右手に珍皇寺があった。

「おおこれは御参りせねば」と思い立って参詣。

 

六道珍皇寺は京の冥界としてその筋の好事家には有名なスポット。

いつか行こう行こうと思ってつい後回しになっていた。

六道の辻に立つ。

六道とは仏教の輪廻転生する世界のことで天道から地獄道まで6つあることから六道という。

その入口が六道の辻ということになるが、平安の頃、このあたりは鳥辺野という火葬場で死者が旅立つ場所だったことからその名がついた。

創建は延暦年間といい、空海が開いたともその弟子が開いたともいう。

現在は臨済宗建仁寺派に属する。

この寺は小野篁との関係によって名高く、地域住民の信仰が篤いともいえる。

 

小野篁は私が好きな人物でコラムにも取り上げたことがある。

一族から小野妹子が出たように朝廷の外交分野で活躍した。

834年、藤原常嗣を正使とする遣唐施設の副使に任ぜられた篁は、出航後、風に恵まれず失敗を続けた。

三度目の挑戦にあたり、藤原常嗣が自分の船を篁の船と交換せよと強要し、これに怒った篁は乗船を拒否、あてつけの歌を詠んで罰せられ、隠岐に流された。

この時詠んだ歌がいい。

「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣り舟」

 

配流されて悄然と船出したと揶揄されるのがいやだったのだろう。

この歌、和歌の世界では「もう会えない愛しい人に元気で発ったよと伝えておくれ」という軟弱な気持ちと解釈されてもいるが、篁の人生を重ねてみれば、

「おいこらそこの猟師よ、堂々と出て行った俺の姿を役人どもに報告しとけ、あほんだら」

との心と考えたいのである。

 

さて、篁は朝廷の役人という役目の他に、裏の顔を持っていたといい、昼は朝廷に出仕し、夜は六道の辻から魔界に入って閻魔大王に奉仕したという。

その魔界への通勤路の入口が珍皇寺の境内にある井戸だった。

篁の地獄での仕事のひとつが紫式部の弁護。

エロい作品を書いた紫式部が地獄に落ちるところを擁護したという。

この両名、同時代に生きていない。

紫式部は篁死後、百年以上後の人物なのである。

篁が地獄専門職になった後、大灼熱地獄に落ちてきた女史を救ったことになろうか。

たぶん、紫式部の愛読者がよからぬ噂が立ったのを哀しみ篁が救ったという伝説をこしらえたのだと思われる。

 

さて、現代の六道の辻はふつうの住宅街の中にあって魔界の入口らしさは全くない。

件の井戸は境内の奥にあって非公開、わずかに覗ける程度である。

 

六道の入口という機能は現代にも生きている。

お盆が来ると京の人は、ここから故人が還ってくると考えてる。

高野槙を持って珍皇寺に行き、「迎え鐘」をついて故人の霊(おしょらいさん)をお迎えし槇の葉にお移しして家に還ってもらい、五山の送り火であの世に送り出すのである。

 

本堂や井戸など特別公開される時期もあるようだが今日は誰一人いない。

呼び鈴を押してお寺の人に来てもらい、御朱印をお願いした。

私のような小野篁好きは結構いるものらしく、「篁グッズ」がいろいろあった。

ついフィギュアを買ってしまった。

 

帰りがけに迎え鐘を撞かせてもらった。

この鐘は紐を外から引っ張って撞くのである。

時期が違い人でもないが、親父殿や昔飼っていたネコ、この前死んだ小梅などゆかりの霊に「忘れてないね」と思ってもらえればいいなあと思ったりした。

 

  


京都遍路 #1 西国十六番 音羽山清水寺

2016年03月23日 | 御遍路・札所

ホテルの自動販売機で京都市交通局の市バス地下鉄一日乗車券を購入。

ホテルの南の角が河原町五条、今日は京都市内の遍路寺を巡る。

 
 
まず、清水寺。
時刻は8時を過ぎた。
まだ観光客もまばらで清々しい。
 
清水寺の初見は中学校の修学旅行だと思う。
以後、京都に住むようになってからも度々訪れた。
東山の散策をやるときは銀閣寺に始まり清水寺に終わるような感がある。
大学生の時、古都税問題なるものがあってえらい騒ぎになったような記憶がある。
 
前回の参詣は数年前の年末特別拝観だったと記憶しているが、風邪を引いてホテルで寝込むという痛恨事になった。
 
さて、屈指の名刹にしては閑散とした境内を抜けて納経に行く。
仁王門や三重塔は丹塗りが美しい。
清水寺もそうだが京都の神社仏閣に久しぶりに詣でてみると、随分綺麗になっていることに驚く。
30年前の私の感覚では京都の寺などは「古ぼけて寂びた」イメージなのだが、今見るとどこも埃っぽさがなく、境内もずいぶん整理整頓されていることに多少違和感を感じる。
それはたぶん、21世紀に入って外国人観光客が爆発的に増えたからであろう。
ハングルや簡体字の看板などかつてはなかったし、観光客にとって京都は優しい町ではなかったように思う。
 
清水の舞台から奥の院に廻り、子安塔まで行くと、塔が赤々と光っている。
近年、修復が完了したとのことである。
 
納経をすませて次の六波羅蜜寺まで歩いて行こうと思う。
 
    
 
御詠歌
 「松風や 音羽の滝の 清水を むすぶ心は 涼しかるらん」
 

春の京都

2016年03月22日 | ご当地グルメ・土産・名産品

松阪で出版の打合せがあり出かけた。

珍しく近鉄電車で行った。

翌日、どこかで1泊し西国遍路でもしてみようかと思ったのである。

候補はいろいろある。

順番を優先するなら和歌山の二番紀三井寺方面、あるいは奈良の岡寺あたり。

近鉄奈良まで行って南円堂。

などと思案しながらとりあえず電車に乗ってしまった。

中川駅でなんば方面に乗り換え、ゆるゆる動きながら宿を探した。

すると奈良など予算や立地で難ありばかりなので、たまたま京都でいい宿があったので決めてしまった。

 

京都駅に着いたら18:00。

腹ごしらえを先にしてしまえと定番コースの新福菜館。

 

歩いて河原町五条上ルの京都リッチホテル


沖縄グスク巡り 4日目 #1 沖縄県立博物館

2016年03月05日 | 取材・旅行記

沖縄最終日。

ホテルで朝食後、荷物を預けて沖縄県立博物館に歩いて行く。

 

今日は予報が雨とのことだが、今のところ降ってはいない。

博物館は開館前だったので屋外展示施設をしばし見学。

沖縄の伝統的な民家が再現されていた。

赤瓦を漆喰で留めた屋根の正面にシーサー。

シーサーは沖縄の魔除けであるが、神社の狛犬とは同源というものの違った経緯で定着したらしい。

最古のシーサーは17世紀、火事除けのために一基おかれたといい、阿吽の対になったのはその後のこととなる。

沖縄では神社仏閣が尚王朝がスタートして以降、時の王によって保護され、建立されていった。

狛犬もセットかと思うが詳しいことは今わからない。波上宮はシーサーの狛犬だったことを思い出す。

 

さて、開館時間となって博物館に入場。

2007年の開館というからまだ新しい。

博物館の前身は戦後すぐの米軍統治下の頃であり、何度か移転しながら収蔵品を増やし、拡張されていったという。

展示は歴史から風俗まで幅広く、わかりやすい。

展示品で目をひいたのは港川人の復元像。

近年、面相を変えたという。

縄文時代の様相は再考証が進んでいてどこからきたかについても様々な説が提示されている。

この顔は南方系の顔にしているようだ。

 

沖縄の歴史、特に思想面については私の知識は乏しい。

これから勉強し直しである。

 

2時間ほどかけて館内を周り、ミュージアムショップで書籍など物色していると窓の外はスコール。

傘を持っていないのでどうしたものかと思ったが、すぐに止んでしまった。

 

ホテルに戻って荷物を受け取り、ゴロゴロとカバンを引き摺って牧志駅からゆいレールで空港に向かった。

予定通りに離陸し沖縄の海が遠ざかっていくのを飽かず眺めた。

今回の旅行を元にコラムを書くのだが、神様とのふれあいを織り込みたいなどと考えているうちに羽田に着いた。

3泊4日の沖縄の旅は間違いなく最高の旅のひとつとなった。