扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

柿葺落四月大歌舞伎

2013年04月13日 | 日常のよしなしごと

歌舞伎座の改修工事が終わりこけら落としのイベントに行ってきた。

今度の建物は5代目になるそうだ。

4代目は空襲で焼けた3代目を昭和25年に再建。

そもそも歌舞伎に興味がないのでどこがどう変わったかよくわからないが背面に巨大なオフィスタワーができた。

一度行けばいいような気がする。

 


さいたま探訪 #2 さきたま古墳公園

2013年04月09日 | 街道・史跡

忍城の東2kmがさきたま古墳公園。

ここの見所のひとつは石田三成陣跡。

三成は忍城攻めの際、古墳の頂上を見晴台として利用した。

忍城が水に浸かる様をみていた場所である。

もうひとつは稲荷山古墳、鉄剣が出土した。

 

古墳跡は公園になっている。

現地に埼玉県名発祥の碑なる石碑があった。

さて「埼玉県」のさいたまという地名は元は「さきたま」というらしい。

説明板によれば万葉集に「前玉」「佐吉多万」との表記があるという。

広い地域を「さいたま」、狭い地域を「さきたま」といったようだ。

古墳見物は後のことにして博物館でまず勉強。

出土品などみていく。

太刀やその飾り物、勾玉など国宝が鎮座。

 

鉄剣は国宝実物をみると想像以上の逸品だった。

正式には「金錯銘鉄剣」というようで1968年の出土、全長73.5cm、表に57文字、裏に58文字に金象眼で刻まれている。

ガラスケースに立てられていて「獲加多支鹵大王(ワカタケルノオオキミ)」の文字が鮮やかである。

埴輪などにも感動。

古代人のデザインセンスはすばらしい。

 

公園の中に古墳が「無造作」に並んでいる。

鉄剣が出た稲荷山古墳は前方後円墳で全長120m。

丸墓山古墳は全長105m、高さ18.9mで円墳としては日本一の大きさという。

稲荷山古墳の石室には入ることができた。

埋葬模様が再現されていた。

 

石田三成の陣所からは忍城の模擬天守がみえた。

この公園はたまに遊びに来たいと思ったりした。

 

 


さいたま探訪 #1 忍城

2013年04月09日 | 日本100名城・続100名城

「北条氏の本」をほぼ書き終えたので時間ができた。

今日は行田あたりに行く。

行田は調布からみると蒔田の方向、川越がちょうど中間。

行田にある史跡は忍城、さきたま古墳公園など。

それを見に行く。行田には行ったことがなかった。

まず忍城。

忍城跡は公園になっていて行田市郷土博物館になっている。

少し前和田竜氏の「のぼうの城」という小説が映画化されてヒットした。

忍城といえば豊臣秀吉の北条氏攻めの際に攻防戦が行われ石田三成指揮の別動隊が水攻めを行うも失敗。

ついに落ちなかった城である。

元々、地元国衆の成田氏が築城、利根川と荒川の間にある湿地帯に築かれた。

成田氏は藤原氏、関東管領山内上杉氏の臣となって忍周辺に勢力を拡大した。

戦国時代、北条氏と関東管領の抗争期間にあってはある時は北条方、ある時は上杉方と盟主を変えて生き延びた。

長尾景虎が小田原に討ち入った際、鶴岡八幡宮において関東管領就任式を行った際、下馬するしないで謙信に辱めを受けて遺恨を残したとの逸話の主が成田長泰、その甥で水攻めを指揮したのが長親(のぼうさん)となる。

 

関東に入封した家康は四男松平忠吉を忍に封じ、江戸時代には知恵伊豆松平信綱が忍藩主となったことがある。

10万石クラスの譜代大名が藩主を務め幕末に到る。

天守はなく御三階櫓があった。今は模擬天守が置かれている。

上方風の堂々とした天守を持ちたいという市民の願いはわからぬではないが、実物と大きく違い興ざめといえよう。

城跡は水攻めの頃の面影としては影もなく公園でしかない。