扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

だるま市の深大寺

2021年03月03日 | 取材・旅行記

ふと思い立って運転免許の条件変更に行った。

歳をとって老眼が進むと近視が矯正されたのか視力が回復した。

遠くが見えるようになって外出時にはメガネ要らずになったのを機に「眼鏡等」の条件を外した。

これまではちょっと車を動かすにもメガネがないと条件違反になったのが裸眼でもよくなる。

私は右目だけ視力が悪く0.1以下、つまり片目だけ1.0以上みえるようになったので片目で検査を受けることになる。

府中の運転免許試験場に自転車で出かけて行ってまず申し込み、しばらく待って検査。

片目の視野検査があるかと思ったらそれはなく、検査官が「あなたは片目しか遠くが見えない、合格は出すが気を抜かないこと」と説教されてしまった。

ともあれこれでメガネなしでも運転可能、免許とってから初めての経験となる。

 

途中、家人から電話があり今日は深大寺の縁日があるという。

深大寺最大の年中行事にもかかわらず今回が初参詣。

帰りに寄ってみると結構な人出、作家者のダルマを買い梵字の目を入れてもらって帰宅。


北関東周遊 #11 HONDAコレクションホール5 帰途につく

2020年11月05日 | 取材・旅行記

予想通りの心の旅になったHONDAコレクションホール訪問。

身も心も満腹になってミュージアムショップを冷やかしてから帰途についた。

 

ツインリンクもてぎのサーキットでは四輪レーサーが走行中。

サーキットは鈴鹿に2輪日本GPを1991年だかに見に行って以来である。

我々がサーキットに通った80年代後半あたりはまだまだ観戦はのどかなものであって観覧席など一部だけで芝生に座ってみていたものだ。

TVでも4k画像で鮮明なスローモーションで人もマシンも仔細に見物できる。

それでも興奮度合いが往時のようではないのは年のせいだけでもないような気がする。

ホンダがレースに挑み、市販マシンにもエッセンスを注入していた70〜90年代は日本が世界一の経済大国に駆け上がった時期と重なっている。

我々団塊の世代の少し下まではその挑戦を間近で体験していたことになる。

何とも粗野で野蛮な時期だったなあと社会が洗練されてしまった2020年の風景と比較すると感慨深い。

 

コレクションホールはどれも魅力的なものではあるがほとんどが90年代までのもの。

ホンダは今、四輪では軽自動車とSUVで経営が成り立つ何とも無粋なメーカーになってしまった感がある。

それは市場の要求の変化と環境対応が急務となっている世情もあろうが、往時のホンダを知るものとしては寂しい。

思い返せばHONDAコレクションホールは本田宗一郎メモリアルホールのようではないか。

 

帰りにどこか名所でも回ろうと思ってみたが、アタマがちんちんになってしまってめげてきた。

チンタラと4号線で帰途についた。

車中、ふと「もう一回バイク乗るかなあ」などと決意する始末。

この旅は人生の終わりかけに差し掛かった私にとって小さな転機となるやもしれぬ。

 

土産はRVF750の小物とホンダ純正トートバッグ。

ウチにはホンダ製品はないのが残念。

 

 


北関東周遊 #2 続日本100名城No.119 杉山城

2020年11月04日 | 取材・旅行記

菅谷館から北へ5kmに杉山城、続日本100名城に指定された。

近年発掘調査が行われて山内扇谷両上杉氏の抗争下で山内上杉氏により築かれたと考えられている。

さらに地元ボランティアの方々によって草刈りなど整備が行き届いており山城愛好家の間で高評価という。

 

駐車場は城山の北側にあって中学校の間を抜けていくと大手口に続く外郭が現れる。

市野川沿いの独立丘陵の尾根を削平して丸ごと要害化されており尾根の頂上が本郭、尾根筋に沿って曲輪が配置され北へ抜けると搦手口に至る。

杉山城の縄張は非常に凝った作りをしており敵兵の進行をいかに妨げいかに横矢を入れるか入念に設計されている。

一見、自然地形にみえるが人工的に深く空堀を設け、切岸を作っている。

 

杉山城の素晴らしい景観は人手によって整備が行き届いているところにある。

土の城にとって一番厄介なのは樹木、雑草。

特に巨木は眺望を損なうだけでなく縄張の妙をわかりにくくする。

その点、杉山城は南側は完全に樹木が伐採され地肌がよくみえる。

これは発掘調査が行われてまもないからと思われるがいつまでも維持していってもらいたい。

三島の山中城と並び中世城郭を学ぶ上でいい教科書といえるだろう。

嵐山町のこのあたりには中世城郭がいくつも築かれ国の史跡として菅谷館、杉山城の他に小倉城、松山城が選定されている。

松山城は北条氏が受け継いで要害化、秀吉の北条征伐時に北からやってきた上杉前田の連合軍によって陥落した。

真田昌幸、信幸親子も参加している。

 

https://www.youtube.com/watch?v=JNYzme-Y75U

 

 

 

 

 


葬儀行き -いなべ-

2019年11月30日 | 取材・旅行記

父方の伯父が亡くなった。

先週実家に帰ったばかりだったがまた帰省。

 

伯父さんは刈谷の出、豪農の長男で独立して会社を興した。

次男が農家を継ぎ、三男の我が親父殿が養子に出た。

いなべ市に工場を営み息子に稼業を継がせて悠々自適の生活を送っていたようだ。

通夜、葬儀と二日間、いなべ市に行った。

高速道路で行くと1時間くらいで着き意外に近い。

いなべ市は養老山系の西側にある谷間の町、わかりやすい例でいえば伊勢街道が関ケ原まで通っている。

先日、関ケ原古戦場に行った時に通っている。

戦場から薩摩の島津隊が撤収していった道である。

 

葬儀というものは親類が一同に会する機会でもある。

親父殿の急死、二番目の伯父さんの死、そしてその上の伯父さんの死と続いている。

これから先、どういう順番であの世にいくのかは神様次第である。


薩摩紀行八日目④ 旅の終わりに

2019年06月01日 | 取材・旅行記

国分駅前から路線バスで鹿児島空港に向かう。

 

途中、バスの窓から山城らしきものがみえた。

姫木城という山城らしい。

 

ものの30分で空港に到着。

空港にある足湯でしばし休息。

 

血糖値が高くなければ買いたい食材などいろいろあるのだが辛抱。

さつま揚げの試食などしていたら小腹がふくれて昼食もパス。

しろくまのぬいぐるみなど買ってラウンジで時間つぶし。

 

ほぼ定時に出発、平穏無事に成田に到着。

途中、富士山やら伊豆半島やらもみえて満足。

 

 

鹿児島空港発

 

 


薩摩紀行七日目⑥ 鹿児島行き

2019年05月30日 | 取材・旅行記

蒲生の里を後にして鹿児島市街をめざして走る。

 

薩摩国と大隅国を考えるとその境界は鹿児島郡までは大隅国、錦江湾は桜島以北は大隅国ということになる。

薩摩の中心は長らく川内であったから西の海と南の海を元にした海洋国であることが想像できる。

対して大隅国の中心は国府があった国分あたりであり肥後から大隅半島へと南北に細長い地形である。

農耕主体の経済を考えるなら大隅の方が豊かだったのかもしれない。

 

重富まで下りてくると海が拡がってくる。

 

途中、竜ヶ水のあたりで休憩。

桜島がすぐそこに夕陽を浴びている。

錦江湾の北の方には姶良や霧島の町がみえる。

 

鹿児島は大隅から薩摩へ錦江湾沿いに行く際に前線となる地域、その境目の城が東福寺城であり清水城だった。

三州を名目上統一した島津貴久は「実質的に」支配するために国衆の統制に取り組んだ。

その前線基地が鹿児島となるのは当然であり、大隅へ日向へと出兵を繰り返した。

こうしてみると近江の国衆抗争が水運を駆使して行われたように錦江湾が琵琶湖のように思えてくる。

 

薩摩半島をほぼ一周した今回の旅、終わったわけではないが期待通りの成果を得たことで少々気が抜けた。

目の前の夕焼け景色がひどく美しかった。

 

宿はベストウェスタンレンブラントホテル鹿児島リゾート。

ここは以前は東急ホテルであり、最初に鹿児島に来たとき泊まったことがある。

交通が不便なところにあるのでまずホテルに荷物を下ろしレンタカーを返すために、鹿児島中央駅に向かう。

ホテルに戻るにはバスを使うしかなく、あちこち回るルートで時間がかかった。

 


薩摩紀行5日目② 阿多の姫、コノハナサクヤヒメ

2019年05月28日 | 取材・旅行記

加世田からさらに北上して万之瀬川を渡ると金峰町。

一帯は坊津のようなリアス式地形と全く違う。

万之瀬川が造った河口の沖積地で山を背負い水が豊富な平地として鹿児島には珍しく農耕に向いていた。

海上交通を利用した交易や漁労にも適していただろう。

縄文時代に人々が定住した栫ノ原遺跡がある。

休憩のために道の駅「きんぽう木花館」に寄ったら隣が「歴史交流館金峰」だった。

立ち寄ってみると割と新しい郷土資料館だった。

エントランスにはシラスで造ったコノハナサクヤヒメが置かれている。

コノハナサクヤヒメはオオヤマヅミの娘でニニギと出会い結婚、ひ孫が神武天皇となる。

一帯を「阿多」といいコノハナサクヤヒメの本名はカムアタツヒメすなわち「阿多の美しい姫」という。

資料館でいろいろ解説を読むといわゆる「隼人」、すなわちヤマト政権にまつろわぬ民には「薩摩隼人」「大隅隼人」そして「阿多隼人」の3つがあった。

阿多隼人の祖は「海幸彦」。

薩摩の伝説解釈を使うなら海幸彦の釣り針をなくした山幸彦は開聞岳の近くで乙姫と出会い竜宮城に行く。

そして野間岬のあたりで金峰山の神の娘と出会い、炎の中で海幸山幸兄弟を産む。

天孫降臨や海幸山幸の神話はヤマト王権が隼人を従属させる話といえようが神話の地をいろいろ想像しながら通って行くのはそれだけで楽しい。

 

道の駅にはコノハナサクヤヒメの銅像が立っており、作者は伊集院の島津義弘公像の作者、中村晋也氏だった。

私的な感想としては「好みの女性」ではないことがちょっと残念。

 

 

 


薩摩紀行四日目⑥ 坊津茫々

2019年05月27日 | 取材・旅行記

枕崎港から西へ向かうと坊津町に入る。

薩摩半島の西南端、ちょっと切れ上がったようなところが坊津町、端っこが野間岬。

枕崎から西に行くとすぐに山間部、坊津に入ったことになる。


旧坊津町は現在、南さつま市に含まれる。

古代、安濃津、博多津と共に三津に数えられた坊津はいくつかの港に分かれている。

坊浦、泊浦、久志浦、秋目浦などの総称が坊津。

坊津秋目浦は鑑真和上が苦難の末に日本にやってきた時、最初に漂着した港である。

坊津に行きたかったのは鑑真上陸地に立ってみたかったからというのが本音。

しかし今日は月曜日で鑑真記念館が休館日である。

まあ途中まで行ってみるかという軽い気で山間部を行く。

 

薩摩半島の南端は見事なリアス式海岸で標高の高いところを走っているのは左側にちらちら顔を出す海の眺めでよくわかる。

リアス式海岸とはすなわち海岸線が崖であるから道路は崖の上を通って行く。

しばらくすると耳取峠の景観ポイント、開聞岳がみえている(タイトル写真)。

峠から一山越えると坊泊。

「←密貿易屋敷」の看板が出ていたので曲がってみたら港に出た。

小さな漁港でここが繁栄して姿を想像しがたい。

海沿いを慎重にみても密貿易屋敷なる建物が見当たらない。

密貿易屋敷は司馬遼太郎氏の「街道をゆく夜話」に出てくる。

司馬さんは坊津が憧れの地で二度訪れたらしい。

屋敷に上げてもらって楽しんだ様子を綴っている。

 

私が看板に反応したのはそんなことを覚えていたからでもあるが二度往復してもみつからない。

クルマを降りてスマホの地図を頼りに歩いてみるがそれらしきものがない。

すると商店のおばあさんが挨拶してくれたので「密貿易屋敷はどこですか?」と聞いてみたら「ほれすぐそこ」と言う。

つまり史跡とはいえ標識も案内もないふつうの民家なのであった。

おばあさんは「さっきは家にいたので見せてもらえ」と言うのだがさすがにやめておいた。

 

密貿易屋敷、当主の先祖は薩摩藩の御用で鰹漁や海運を務めた裏で密貿易に従事していたという。

 

密貿易屋敷の前は船場。

 

さて謎が解けたところで県道に戻るとすぐ先が「坊津歴史資料センター輝津館」。

閉館時間が迫っているので明日また来ることにして展望台に行ってみた。

湾内と景勝「双剣石」が見晴らせる。

一見して風よけに最適な良港である。

また山々が他の平地、集落から港を隔絶させているから船で行く方が楽で安全。

海賊行動や密貿易の根拠地として最適だったのだろう。

 

 

さて一息ついたところだが、日没は19:30とこの時期はまだまだ明るい。

もう少し先に行ってみる。

坊浦の先が久志浦、ここからは北上していくことになる。

つまり海岸は南北方向に沿っていく。

つまり夕陽の名所となるわけである。

岬ひとつこえると秋目浦。

ついにここまで来た。

 

鑑真和上上陸地には記念碑と和上の石像がある。

 

天平勝宝5年(753)12月20日に和上が日本の地を踏んだ。

記念館は閉館しているがここからの眺めもいい。

これで夕陽など沈みかけていればまあ泣けるのは疑いなし。

訪れる人もなくぼんやりと沖を眺め和上を載せた船がやってくる様を想像したりした。

 

坊津にはいろいろ有名人がやってきた。

フランシスコ・ザビエルが滞在し、伊能忠敬も3日いた。

そして我が師(というのも変だが)ショーン・コネリーも「YOU ONLY LIVE TWICE」のロケでやってきた。

そしてロケ地に記念碑が立っている。

 

 

アルベルト・ブロッコリーとコネリー、丹波哲郎のサインが彫られ、デザインもいい。

映画では漁師町に潜入したボンドが土地の女性を妻として身を隠し、スペクターのアジトを奇襲する拠点となった。

これもボンドをみて育った身には泣きそうな場所である。

 

来た道を戻って宿に到着。

雨が降り出してきた。

枕崎観光ホテル岩戸という立派な名前であるが日帰り温泉併設のちょっと古いホテル。

それでも窓から海がみえ、温泉もよかった。

 


薩摩紀行四日目④ 枕崎への道道

2019年05月27日 | 取材・旅行記

知覧へ来たなら特攻平和会館と武家屋敷群に行くべきであろう。

しかしこのふたつは前回来た時に時間をかけてみたので今日は遠慮する。

 

今晩の宿は枕崎にとってある。

午後はのんびり海岸沿いの名所など見て回ろうと思う。

知覧から南へ海岸線まで下りていくと「釜蓋神社」という古社がある。

正式には「射楯兵主(いたてつわものぬし)神社」といいスサノオを祀っている。

現在では海に突き出た岩場に拝殿が建っている。

この神社は釜の蓋をアタマに載せて落とさないように参れれば厄除けになるといい、これをやりたいがために人々がやってくるという。

私が神社のことを知ったのもマスメディアからである。

釜蓋参りのいわれとして、天智天皇がこの地を訪れた際、もてなすために米を炊いていたところ突風で蓋が飛んで落ちたところが神社のあるところという。

参詣してみるといかにも軽薄で何とも幻滅してしまったが、強風吹く自然環境で社を形にし続けるのは大変なのかもしれない。

釜蓋神社の砂浜から

 

釜蓋神社から西へ30分ほど行くと枕崎港。

港の西に火之神公園があるので行ってみた。

海沿いの周遊道を歩いて行くと海中に岩が突出している。

「立神岩」といい、漁業の守神なのだという。

東には開聞岳もみえており自然に抱かれるような港が枕崎である。

時間はまだ16時前。

明日は天気が悪いようなので坊津まで行ってみようと思い立つ。

 

 

 

 


薩摩紀行三日目③ 指宿へ −JR指宿枕崎線−

2019年05月26日 | 取材・旅行記

伊集院から鹿児島駅に戻り、ホテルで荷物を受け取ってもう一度鹿児島駅。

そして今度は鹿児島中央駅から指宿線に乗って南下する。

平川駅を過ぎたあたりでやおら海沿いの風景が拡がり天気がいいこともあって実に気持ちがいい。

向かいに座っていたひとり旅の外国人の顔もほころんでいる。

JRの車窓から

ここでちょっとしたミス。

伊集院まではJR東日本のSUICAで入退場できたので油断してSUICAで入ってしまった。

ところがICカードで退場できるのは途中の駅までで指宿は範囲外とのこと。

駅で支払証明をもらって後日精算することに。

 

さて指宿は二度目である。

前回は種子島に行った折、復路で指宿港で高速船を降り、知覧城にでも行こうと思い指宿に宿をとった。

民宿に素泊まりし、例の砂蒸し温泉に行ったところまではよかったが、夕食に適した店が見つからずに困った。

おまけに翌朝はゲリラ豪雨でJRが止まってしまい難儀した。

結局、知覧には行けたのだが雨の影響で知覧城には行けなかった。

そんな思い出と共に指宿に到着。

今日はまずホテルに向かう。

 

 

 

 


薩摩国紀行 二日目① -磯方面-

2019年05月25日 | 取材・旅行記

二日目はホテルから磯方面に行く。

公共交通機関で行くとどうやらコミュニティバスの便があるようだが、ぐるっと市街地を回ってから行くようで時間がかかりそうである。

いっそ歩いて行くかとぶらぶら出発。

JR鹿児島駅を過ぎて海岸の方に行くと石橋記念公園。

石造りのアーチ橋が見事。

 

その向こうに祇園之洲公園、ここは薩摩藩の台場があり薩英戦争を戦った。

 

 

文久3年7月2日薩摩船を英国艦隊が拿捕したことをきっかけに砲戦が始まる。

かのアームストロング砲の威力により磯の集成館が焼失、城下も燃えた。

英国側の損害も大きく旗艦ユーリアラス号の艦長を失った。

英国艦隊は桜島が眼前の錦江湾が最もせばまったところでおっぱじめたことになるが、水平射撃に近い砲戦だったのではないか。

砲の性能からいえばアウトレンジから一方的に撃ち込んだ方がよさそうなものである。

要するに「なめきっていた」のであろう。

薩摩も英国も相手に驚き、維新の歯車がここからひとつ回り出す。

こうした臨場感を肌身で感じるのは現地取材の醍醐味といえよう。

 

祇園之洲公園の一角にフランシスコ・ザビエル上陸記念碑がある。

薩摩人ヤジローの案内で薩摩国にやってきたザビエルはこの地から上陸、伊集院にて島津本家当主島津貴久に会ったという。

 

バイパスを海岸に沿って磯方面に歩いて行く。

今日も快晴で桜島が美しい。

 

考えてみれば薩英戦争では薩摩藩士は桜島を借景に大砲をぶっ放していたことになる。

左側の丘は東福寺城跡であり島津家が鹿児島入りした際に詰の城としたところ。

なるほど鹿児島の平地への入口にあたり最初の防衛戦を行うところといえる。

この城を抜けるとほどなく磯に到着。

集成館に行く前に薩摩切子の工場を見学。

隣の異人館がスターバックスになっていた。

 

 

尚古集成館には別館の方から入った。

ここは島津家が所蔵する家宝、史料を管理している施設博物館である。

島津家所蔵品は古文書などは東大にある他、肖像画などはこちらにある。

受付で資料書籍を売っていたので購入、本館の方では扱っていないとのこと。

集成館は 二度目であるから簡単に見て回って鶴嶺(つるがね)神社に参詣。

明治2年創建のこちらは歴代島津家当主と家族を祀っている。

 

続いて磯御殿「仙巌園」に入場。二度目である。

今日は御殿の中にも入場。

桜島を借景とした庭が実に見事であった。

日本有数の別荘といえよう。 

 

昼になったので園内の売店でさつま揚げ。

 

園内の猫神社にも参詣。

お札をいただいておいた。

 

集成館の南に鹿児島紡績所技師館。

英国から招聘した技師の宿舎として使われた洋館。

国の重文であり世界遺産のひとつ。

 

ボランティアガイドの人と少々話をした。

先日NHKの「ブラタモリ」で鹿児島を特集した際、水力発電の水路跡に突然人並みが押し寄せたとのこと。

昼飯を仙巌園の出店のさつま揚げですませたのみで再び歩き出す。

かなりのダイエット効果が見込めそうである。

 

 

 


薩摩国紀行 一日目 -鹿児島入り-

2019年05月24日 | 取材・旅行記

教育財団で出している「歴史で紐解くシリーズ」三弾目が鹿児島をテーマとすることになった。

戦国島津や幕末島津のことは類書が多くあり、娯楽コンテンツも豊富。

真田一族も同様といえるが、こうした「手垢がついた素材」はむずかしい。

愛情が深いほど先入観に外れる情報を拒む。それが正しいかどうかではなく信じたいかどうかの方が重要だ。

そんなことに悩んでいても仕方ないので現地取材をまずしてみようと思う。

真田同様、現地に行くと必ず何かしらの発見はある。

予定を組んでみると意外に時間がかかり1週間いても大隅半島や都城の方には行けそうにない。

一県でかように悩むのは他例がなかろう。

 

鹿児島には二度行った。

一度目は2010年の3月、100名城巡りの時。

二度目は種子島見物に出かけた2016年10月。

 

鹿児島への便はスカイマークの7:45羽田発、9:35鹿児島着。

航空機は種子島旅以来である。

今日は天気がいいので下界がよくみえる。

左側の席なので富士山はみえないものの三浦半島から浜名湖がよくみえた。

 

 

空港に着いてバスで鹿児島中央駅へ。

まずはホテルに荷物を預けて身軽になり、黎明館すなわち鹿児島城に歩いて行く。

途中、私学校跡の弾痕を見て鹿児島城に到着。

 

堀は一面蓮が生い茂っている。

鬼門の方角の石垣が隅欠きされているのに気づいた。

 

城外の一角に薩摩義士碑があった。

これは江戸時代、幕府の命によりお手伝普請として木曽三川の治水工事に従事、難工事の末にやり遂げたものの経費がかさんだことを悔いて自刃した藩士達を供養している。

ちょうど明日は毎年開かれている供養祭とのこと。

 

 

大手門(御楼門)を復元中とのことで北門から本丸に入る。

黎明館は本丸にある。

今日はここの学芸員の方にお会いすることになっており、約束の時間まで展示品を見て回る。

展示品、解説は優秀で特に私が今回テーマの柱にしている古代、中世の鹿児島県の有様がよくわかる。

中世山城の傑作品志布志城、江戸期の外城制度下の出水麓のディオラマがおもしろい。

 

 

 

出水のディオラマに感心していると学芸員の方から携帯電話に着信。

お迎えに来ていただき事務所でご指導を受ける。

その後、県立図書館に行き資料を探す。

概ね目的を達して本日の予定終了。

 

後はホテルに戻るだけなので天文館までぶらぶら歩いて行き鹿児島ラーメンの老舗「こむらさき」で早い夕食。

糖尿病認定されたばかりの身には禁制品といえるが結構歩いたこともあり、まあいいとする。

 

ホテルに帰ってもまだ陽が高く隣のスーパーで水やら食材やらを調達。

桜島がよく見え、長旅にも気合いが入ろうものである。

 

 


NEXCO中日本新東名高速道路見学会

2018年11月27日 | 取材・旅行記

JAFからの情報で高速道路の見学会があることを知り応募してみた。

結構人気があるらしく補欠ということだったが後日連絡が来て当選。

 

集合場所はJR横浜駅。

バスが迎えに来て出発。

トンネル工事現場で説明会と内部見学。

巨大な重機を間近でみられて満足。

道の駅など立ち寄って大山阿夫利神社参道の名物湯どうふの昼食。

おもしろかった。


真田三代の足跡 一日目 #2 −真田の墓参り−

2018年09月19日 | 取材・旅行記

真田の里は四阿山から流れる神川沿いに拡がった扇状地で千曲川へ合流する出口に砥石城。

大きな平野になると上田である。

このネコの額といえる狭い地域が真田郷。

ところが戦略的には要衝といえ、北東へ進めば鳥居峠を越えて上州へ。

北西に進めば地蔵峠を越えて川中島。

千曲川沿いに北上して善光寺平に大軍を進めようとすると真田を取り込まないと横撃される。

実にいやらしい里といえる。

この狭い一帯に真田一族の痕跡があちこちにある。

里を東から見おろす山城が真田本城。

里の向こうに砥石城がそびえる様は以前書いた

 

信綱寺は真田本城の西にある。

少々迷った末に発見。

「真田丸」も終わり、平日ということもあってか訪れる人はいない。

 

 

信綱寺は曹洞宗の禅寺、信綱の弟、昌幸が家督を継いだ後、位牌所として整備した。

門前に立派な楼門があり、石段を上っていくと本堂。

禅寺らしく掃除が行き届いている清々しい境内である。

 

 

境内には信綱ゆかりの遺品などあるのだが、事前連絡が必要で見逃した。

長篠で討死した信綱の首ははるばる家臣が持ち帰ってきたという。

 

御朱印は本堂から書き置きをもらうようでこれも失念。

目的が墓参だったので疎かにした。

信綱と次弟昌輝の墓は境内を出て少し山を登ったところにあった。

信綱、昌輝兄弟と信綱の正室の墓。

 

信綱寺の傍らには「歴史の丘」なる公園があり真田が参加した戦役祈念碑と一族の花押のレリーフが並んでいる。

信綱昌輝兄弟は印象が薄い。

幸綱生前から家督を受け継いでおり当主として真田の民政にも尽力したはずだが、武田家が大いに勃興した激動の時代、真田郷に復帰した幸綱、独立を果たした昌幸の間にあって、武田の客将として戦場を駆け回っていた実戦部隊を率いた兄弟は表舞台に立たせにくいのかもしれない。

何とか真田の二代目の有様を表現してみたいと決意する。

 

次は山家神社

御神体は四阿山(あずまやさん)でそもそもは地域の産土神という。

延喜式にも記載された古社である。

真田昌幸は山家神社への信仰篤く、関ヶ原の戦いの余波、第二次上田合戦の際に全焼したが上田領を継いだ信之によって再建された。

この地は上田城からみて鬼門の方角にあたるため、上田城を継いだ仙石氏、松平氏も当神社を保護し参詣したという。

真田の里にある山家神社は里宮で奥の院は四阿山にあるらしい。

 

 

境内には真田神社が別にある。

唯一の真田家公認の神社だという。

 

日が陰ってくる中、最後に長谷寺。

山家神社の脇を上っていく。

山門の代わりであろうか、石造りのアーチがある。

近代的にもみえるが創建当時のものらしい。

 

 

こちらには真田幸綱、幸綱夫人の墓がある。

 

 

そもそも長谷寺は武田信虎等に追われて上州に逃れた際、世話になった禅僧に恩義を感じ、真田領を回復したら呼び寄せて開祖にすると約束、その通りに開いた寺が長谷寺という。

このエピソードは大河ドラマ「風林火山」でも取り上げられている。

 

真田の里巡りはこれで終了。

 

今晩の宿は松代なので地蔵峠越えで一気に行った。

この道は路面状態もよく、道幅もまずまず広いので走りやすい。

山間部に信号はひとつもなかったと思う。

 

閉園間近の松代城址にあわてて入り写真を撮った。

以前にも来たことがあるが、整備が着々と進んでいるようだ。

 

 

 

朝から強行軍だったのでヘロヘロになってホテル着。

近所のスーパーで食材他を買い込んでいたのでそれで夕食。

 


オスプレイ実見 −横田基地友好祭2018−

2018年09月16日 | 取材・旅行記

しばらく行っていなかった横田基地のオープンハンガーに出かけた。

 

前日が雨模様だったために今日に来場が集中したのか拝島駅を出たところから早くも大行列。

2時間近く待たされてようやく入場。

ゲートで手荷物検査と身分証明書確認。

 

最初に展示してあるのがPAC2/3、ミサイル迎撃システム。

牽引車の荷台に発射プラットフォームを搭載し、8本発射可能。

いざ目の前にあるとこのような貧相な迎撃システムで大丈夫か心配になってくる。

しかし逆からみると国家予算を傾けて開発した長距離弾道ミサイルもトラックで引っ張れるシステムで落とされるほどはかないともいえようか。

 

 

 

少し進むと軽装甲機動車。

小松製作所制作とある。

装甲は叩いてみるとペタペタと重厚な音がする。

サイズは市販のオフロード車と変わらずコンパクトだが、さすがに重量は5トン越え。

 

今回は航空機の展示が少なく寂しい。

長く配備されている機種ばかりのため軍事機密も緩いのか内部公開されている機体が多い。

 

A10サンダーボルトⅡはバルカン砲の駆動部を間近でのぞけた。

 

 

F16

 

F15

 

F14/15/16/18あたりは湾岸戦争あたりが現役最盛期かと思うが歴代米国戦闘機の中では最も流線型で美しい。

この前世代は空気抵抗を出力で強引に処理しようとし、後世代はステルス性能を高めるため機体が平面を組み合わせた複雑な形状になる。

結果的に最高速度はF15が最も速い。

 

RQ-4 グローバルホーク

無人偵察機、何とも不気味。

 

C-5 ギャラクシー

この機体は機種がパカッと上に開き胴体部分が茶筒のように筒抜けになる。

米軍の航空機、戦闘車両全てを運ぶことができる。

米軍が世界中で戦争できるのもこうしたロジスティックス術のおかげである。

C5の設計がおもしろいのはコックピットは上には開かずその背後には人間が乗れるようになっている。

 

最も人気はやはりCV22-オスプレイ。

 

 

実機を目の前でみると意外に小さいなあという印象。

横田基地には4機配備されたオスプレイ。

横田基地から20kmほどの当家は上空を軍用機がしばしば飛んでいく。

沖縄の人々の苦労からすれば些細な騒音と落下の恐怖ではある。