扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

歴史コラム #31 甲斐の虎、海に続く道

2017年05月31日 | エッセイ:海の想い出

6クール目に入ったコラム31回目は武田信玄。

 

並行して信玄と謙信の経営術についての本を書いている。

信玄と謙信は共に戦国の雄として名高いが、経営手腕は大きく異なる。

信玄は合議を重んじ家臣の意見をよく聞き、謙信は全く聞かない。

これは領国の拡大についての信条の違いから来る。

信玄は国衆をひとりひとり傘下に収めることで大きくなった。

各地域に腹心を派遣していわば支社長とし国衆を「武田化」していった。

武田化とは武田会社の経営方針に従うことである。

よって重臣との意識合わせに気を配った。

対して謙信は広大な越後を統一することがついにできず、常に地方領主の離反に悩み続けた。

謙信は戦に強いことを常時家臣にデモする必要があった。

そして家中の統一に精神的支柱を必要とし転がり込んだ関東管領の座をそれに利用し、室町幕府将軍の権威も利用した。

例えると信玄はブランドも仕入れも経営方法も同じ直営コンビニ、謙信は看板こそ上杉印ではあるが個々が勝手に仕入れと値付けをするフランチャイズ経営である。

 

そして両雄の経済基盤もまた対照的、信玄は農業が基幹産業、謙信は商業が基幹産業である。

直江津からあがる現金収入は謙信の重要な軍資金であった。

信玄は海を持たずに甲斐信濃、西上野という山国を制していき、駿河今川家を滅ぼしてようやく海に出た。

しかし時既に遅かった。

 

信玄は経営者としては当代一だっただろう。

信長が怖れたのも無理もない。

信玄は三方ヶ原で家康を粉砕、海を左手に見つつ東海道を西へ向かった。

西三河でその進撃が停止、病に斃れた。

最後に海をみたというあたりをオチにした。

 


甲斐から駿河へ −久遠寺−

2017年05月19日 | 街道・史跡

信玄のことをまとめる中で、武田家が駆け回った街道でまだ行ったことのない地域を訪れたいと思っている。

今日はその中で甲府から駿府へ至る街道を行ってみることにした。

このみちは富士川沿いに南下し、今日では国道52号線がそれにあたり、途中に身延山久遠寺があるため「みのぶみち」ともいう。

 

甲府盆地まで中央道で一気に行き、甲府盆地に下り、富士川大橋を渡る。

このあたりが平地から山間部に入る入口となる。

 

富士川が太平洋に注ぐ河口部の手前で西の方に向かって山を越えると駿府の町に至る。

信玄はここに江尻城を築いて一族の穴山梅雪を入れ、駿河支配の拠点とした。

穴山氏は元々甲斐の北西部穴山の出で、河内地方、甲斐駿河国境に所領を持ち、下山に館を構えた。

 

身延山は甲斐駿河の中間地点にあり、下山館は少し甲斐よりにある。

見学するほどの史跡は残っていないため一気に久遠寺まで行った。

いうまでもなく久遠寺は日蓮宗の総本山である。

宗教関係の書籍を手がけた割に恥ずかしながら初参詣。

 

本街道から入ったところに立派な総門があり、門前町が坂を登って続いている。

駐車場に行くまでの道々に白装束の参詣者が群れをなして歩いている。

 

日蓮(1222〜1282)は最晩年を身延山で過ごし、自身の願いによりここに葬られた。

私は日蓮宗信者ではないが、日蓮宗が歴史において特に戦国時代に大いに影響を与えた事実に興味を持っている。

真言宗や阿弥陀信仰、禅宗などは教義が哲学的でありわかりやすい一面を持つ。

対して日蓮宗は日蓮個人への崇敬が強く「南無妙法蓮華経」の題目を象徴とする。

堂宇は総本山としての風格がただよい、観光という要素を拒むかのように厳然としている。

信徒たちがそこかしこに集っており自分が門外漢であることを痛感する。

 

御朱印をもらいロープウェイで奥の院に詣でる。

身延山ロープウェイ 

 

高度が増していくと富士山が長者ヶ岳の向こうから顔を出してくる。 

 

奥の院から富士川方面を見おろすと壮観。

武田家が駿河へとそして京をめざして歩いて行った道である。

 

身延山からは淡々と52号を下り富士宮に至る。

ここまで来ると馴染みの深いエリアとなる。

今年前半甲斐に通っているため土地勘がついてきたが、そんな馴染みの地の結節点をゆるゆるとたどっていくことは実に楽しい。

知識と情感の縦横が織り込まれていくのがわかる。


難攻不落の山城 −岩殿城−

2017年05月17日 | 城・城址・古戦場

信玄の本執筆が続いている。

本で使う写真など考えているが、どうしても入れたい被写体がいくつか。

岩殿城と岩櫃城である。

雑誌や映像で何度もみるたび「この城は凄いな」と思っている。

とにかくビジュアル的に難攻不落感が半端ないのがこのふたつ。

日本三大山城は「岩村城」「高取城」「備中松山城」というが城山がもの凄いのは武田ゆかりの二城だと思っている。

 

今日は念願の岩殿城に登城してみたい。

お供は125i、オープンカー日和でもある。

 

甲州街道をいつものように行き、大月駅の手前で北へ折れるとすぐに岩殿城の城山が威容をみせつけてくる。

巨大な岩肌が鏡石のように迫っている。

元々この山は修験道の修行場で城となったのは戦国時代のこと。

郡内を本拠とする小山田氏の持ち城となった。

小山田信茂は武田崩れの際、「岩殿城に落ちるべし」と説き、勝頼を招いて籠城するはずが笹子峠を閉ざして通さず、織田に追われる勝頼一行を袋小路に押し込めたことで悪名高い。

一面、北条領国と接する郡内を戦火から守ったという点では地元に貢献していることにはなる。

戦国時代は一貫して小山田の国だった訳で甲斐盆地の中で信玄公を畏敬する気分と一線を画しているのがおもしろい。

市民会館の駐車場をお借りし、登城口から本丸まで登っていく。

ほぼ登山の様相でこれまで登った山城の中でも一二というつらさ。

つまり攻城する側の視点に発てばこれほど攻めづらい城も珍しい。

城門などは巨石の隙間である。

 

ふうふうと本丸まで登っていくと眺めは壮観極まりない。

曇っているため富士山がみえないのが残念である。

 岩殿城本丸から

勝頼はこの光景をみることかなわなかったことになるが、岩殿城に籠もっていても運命はしれていよう。

 

登城で体力を使い果たしてしまい、今日の取材はここだけで撤収。