6クール目に入ったコラム31回目は武田信玄。
並行して信玄と謙信の経営術についての本を書いている。
信玄と謙信は共に戦国の雄として名高いが、経営手腕は大きく異なる。
信玄は合議を重んじ家臣の意見をよく聞き、謙信は全く聞かない。
これは領国の拡大についての信条の違いから来る。
信玄は国衆をひとりひとり傘下に収めることで大きくなった。
各地域に腹心を派遣していわば支社長とし国衆を「武田化」していった。
武田化とは武田会社の経営方針に従うことである。
よって重臣との意識合わせに気を配った。
対して謙信は広大な越後を統一することがついにできず、常に地方領主の離反に悩み続けた。
謙信は戦に強いことを常時家臣にデモする必要があった。
そして家中の統一に精神的支柱を必要とし転がり込んだ関東管領の座をそれに利用し、室町幕府将軍の権威も利用した。
例えると信玄はブランドも仕入れも経営方法も同じ直営コンビニ、謙信は看板こそ上杉印ではあるが個々が勝手に仕入れと値付けをするフランチャイズ経営である。
そして両雄の経済基盤もまた対照的、信玄は農業が基幹産業、謙信は商業が基幹産業である。
直江津からあがる現金収入は謙信の重要な軍資金であった。
信玄は海を持たずに甲斐信濃、西上野という山国を制していき、駿河今川家を滅ぼしてようやく海に出た。
しかし時既に遅かった。
信玄は経営者としては当代一だっただろう。
信長が怖れたのも無理もない。
信玄は三方ヶ原で家康を粉砕、海を左手に見つつ東海道を西へ向かった。
西三河でその進撃が停止、病に斃れた。
最後に海をみたというあたりをオチにした。