久能山を下りて駿府に行ってみる。
教科書で学んだ登呂遺跡は駿府にあった。
弥生時代にここが繁栄していたということは自然のままに暮らすとき、暮らしやすかったということだろう。
駿府は海が近くまた山の幸にも恵まれた平地である。
そして何より富士山を眺めるのにも絶好の立地。
住みやすいという条件は古代も現代も同じ事。
現在の登呂遺跡は住宅街に囲まれている。
登呂遺跡は昭和18年、敗色が濃くなった頃に軍需工場建設工事で発見された。
弥生時代の遺跡は安倍川の洪水で壊滅したといい中世、近世と埋もれていたことになる。
平成11年から再発掘調査が行われて整備の手が入り博物館もリニューアルしている。
昭和40〜50年代にかけて初等教育を受けた身にとって学校で学んだ情報はすでに古い。
こうした機会に錆びたアタマを磨いてみるのもいい。
清水港の西側、港の風よけになっている山が久能山、山の向こうがかつての駿府。
久能山には国宝を持つ東照宮がある。
このあたりは「日本平」という名を持った富士山をみる景勝地になっていて久能山まで谷を渡るロープウェイが通っている。
家康は駿府で死去し遺言により「仮に」久能山に葬られた。
そして日光に秀忠と家光により空前の御廟が造られ家康の遺骸も運ばれていく。
東照宮は社殿の造りや意匠装飾が似通っている。
日光東照宮とは比べようがないがそれでも極彩色と黒漆の社殿はミニ日光である。
扁額は後水尾天皇の御宸筆、幕府と大いに確執があった天皇である。
家康が死去し東照宮が建てられたのは元和3年。
この後、後水尾は家康の重しがなくなった秀忠と朝廷権威の制御への圧に大いに悩むことになる。
本殿は真南を向いて折らず北東の方向に少し傾いていてその方向に家康の御廟がありさらに先には日光東照宮がある。
御廟は石造りのもの、ここに家康が日光に引っ越す前にしばし休憩していたかと思うと感慨深い。
そしていいものを所蔵しているのもNo.1東照宮の証拠。
家康の遺品に加え、歴代将軍が武具を奉納した。
最後の将軍慶喜は明治維新の後は駿府で暮らし江戸城の所蔵品の一部を持ってきた。
それらは博物館に収められている。
中でも秀逸は貫衆(しだ)具足、関ケ原や大坂の陣で家康が着用した具足のレプリカである。
おもしろいところでは田宮模型のガンプラが奉納されていた。
何でも東照宮造営に携わった各地の名工、職人の中に当地に残った者もいて木工細工など工芸品の振興に貢献したらしい。
その遺産の中に模型、プラモデル作りがあるという。
いいものをみた半日だった。
秋晴れの日に城巡りに出かけた。
滝山城は八王子郊外。
八王子市内から福生へ行く道が多摩川を渡る手前に「滝山城址」の看板が立っていて以前から気になっていた。
北条氏は永禄年間には甲斐武田、越後上杉と三つどもえの抗争を繰り返した。
信玄は小田原城を囲む過程で滝山城を落としにかかったが果たせなかった北条領国の中でも屈指の堅城である。
この方面の守備は北条氏康の三男氏照が担当した。
滝山城は北条勃興以前は大石氏の持ち城、大石氏は関東管領上杉家に仕える国衆だったが河越夜戦で北条家が大勝すると北条に下り氏照を養子として迎え、家督と城を譲った。
信玄侵攻以後、氏照は八王子城を築いて去った。
一説に滝山城はあまりに大きすぎて城兵が足らず、より甲州街道に近い八王子城で防御に有利な縄張をするためだという。
滝山城を駐車場がある多摩川側から眺めてみると一山丸ごと要塞である。
ここは多摩川の河川敷を利用した運動場になっているが往時は多摩川が削った断崖になっていた。
石垣を使わない山城で天然の地形を利用して大堀切りやら桝形虎口やらを大規模に造りだしている。
歩いてみると確かにものすごく大きく、基礎を造った国衆大石氏の経済力を思い知らされる。
北条の武蔵の守りは北に氏邦の鉢形城というこれも巨大な山城があり東海道を抑える山中城、本城小田原との中間に甲州街道から進入する敵に対する八王子城という体制で豊臣の大軍を迎え討つ戦略を取った。
結果的に八王子城は前田・上杉勢により一日で落城するが、それは滝山城であったとしても同様の結果だっただろう。
春日山城を下りると帰るだけ。
上越から調布に帰るルートは上信越自動車道で長野経由高崎に出るルート、中央道に回るルートがある。
安易に楽をせず、謙信の関東討入気分であえて三国峠越えで行く。
今回はE60-525iで来ているがエンジンの調子はいい。
しかし排気量が前クルマよりも少ない分パワー不足は否めない。
真っ暗な田舎道を抜けた三国峠は車線も広く快適なドライブ。
途中、SUBARUのチューニングものにちょっかいをかけられて閉口。
家に着いたら深夜になっていた。
今日は結局、700kmほど走った。
富山城から越後に向かい春日山城をめざす。
国道8号線は海沿いを走る。
越中と越後の国境は妙高山がそびえ大軍の行き来は容易ではない。
その中間に糸魚川、フォッサマグナの海の出口である。
越後国は現在の上越市に国府国分寺があった。
越前から出羽国境まで実に細長い大国だった越は前中後の3分割を行ってもなお越後は細長い。
この地形により越後支配は難儀した。
盤石の国主と思われがちな謙信にしても家臣の離反に悩んだ。
そばの越中方面はまだしも新発田、村上など阿賀野川より北の揚北地方の国衆はよく謀反を起こし、冬の時期には成敗にも出かけられずと謙信を歯がみさせた。
反面、信濃方面は近く、善光寺平には60kmほど、半日かからず駆けつけられた。
春日山城は上越の港町、直江津を見下ろす山の頂上に本丸がある。
城に登る前にまず春日山城ものがたり館で100名城スタンプをもらう。
ここは大河ドラマ「風林火山」放映を機に新設された施設で謙信の生涯を始め、国づくりと武勇伝をわかりやすく解説している。
陽が暮れそうなので城に登る。
途中まではクルマで上がれ、駐車場の上に謙信の銅像。
勾配はそれほど急でもないが、山頂までの途中途中に曲輪が段々と続いている。
千貫門跡-直江屋敷跡-毘沙門堂-本丸と登っていく。
陽がもう沈んでしまったので本丸の向こう、景勝屋敷の方には行けなかった。
それにしても堅固な山城であることは実感できるがここに住んで豪雪の時期など辛くはなかっただろうかと余計な心配をした。
高岡から東へ行き、神通川を超えたところが富山城址。
模擬天守がいかにもらしくみえるが天守台のみが江戸期もの。
富山城は越中の真ん中にあり室町時代には守護畠山氏領国ながら神保氏と椎名氏が東西を分割して守護代を務めた。
越後長尾氏が謙信の父の代から侵攻を始めると越中一向宗を巻き込んで抗争が続き、謙信の父為景が討ち死にしたりする。
謙信が征西を開始すると神保氏が降伏、能登加賀と進んだ謙信は越前手取川で織田勢を撃破するも謙信が急死。
上杉は混乱して内輪揉めを始めて国力を失う。
織田政権下では佐々成正が富山に入城、その後前田家が豊臣体制下で国主となって利長入府、慶長14年に大火で焼失した富山城から高岡に利長は移った。
寛永16年(1639)、前田利常が次男利次を10万石の支藩富山藩を興させて富山城を修復、幕末まで続いた。
地方中核都市、県庁所在地は庁舎を城のそばに建てることが多く、堀や曲輪は大幅に破壊されて都市に飲み込まれる。
富山城はその例のひとつで戦国の香りがしないのが惜しい。
瑞龍寺のJR高岡駅をはさんだ反対側に高岡城址。
前田利長は加賀百万石を何とか確保したのを機に隠居、富山城に引っ込んだ。
ところが4年後に大火発生、家康に築城を願い出て高岡城を築いた。
高岡は古代越中国の国府があった。
中世の越中は一向宗が勃興、加賀や越後の戦国大名を悩ませており国の重心は海側にあった。
高岡の町は利長の引っ越しから始まるのである。
さて、高岡城跡には昨年6月に来たことがある。
その時は100名城のスタンプ設置場所である郷土資料館が休館していたためスタンプをもらえなかった。
後日、メールを書いてスタンプを送ってもらおうとしたもののナシのつぶて。
再訪となったのである。
前回は夕闇の中の訪城だったため、快晴の中来てみるとまた違った面もちである。
高岡城の縄張は当時前田家に身を寄せていた高山右近によるとされている。
天守があったり石垣が見事な城ではないが水堀で強固に守られた本格的な城で隠居場所としてふさわしくはない。
一国一城令で廃城となってからも加賀前田家の手が入れられて倉庫などに使用されていた。
かつての城域には博物館や動物園などが設置されており城というよりも公園となっているが水堀はよく残っている。
反面、利長銅像など樹木に埋もれてしまったり石垣の保存状況など町のシンボルとしての城としては扱いはよくない。
スタンプをもらって一年越しの目的完了。
八丁道を西へ行くと曹洞宗高岡山瑞龍寺。
山門からして堂々としている。
山門の他、仏殿、法堂が国宝。
この寺は素晴らしい。私見では文句なしに日本一の禅寺であろう。
伽藍配置、掃除の行き届きにも一分の隙も無い。
仏殿の前は石燈籠が点々と並び芝生が蒼蒼としている。
観光客は私の他、ひとりもおらずたまに雲水さんを見かけるのみで異質な空気感に包まれている。
珍しいところではトイレの神様、烏枢沙摩明王像が安置されており、白漆喰で防火処理した大茶堂が付属している。
瑞龍寺の建立は慶長19年(1614)、それから20年かけて伽藍が整備された。
前身は利長が正室の父で前田家を引き立ててくれた織田信長と信忠の供養のために金沢に建てた法円寺、当初は金沢にあり利長隠居後に当地に移転した。
瑞龍は利長の法号から取られた。
この禅寺は前田家の財力を惜しみなく投じ、何のしがらみもなく新設計されており、安土桃山時代の最終期の武家精神を誇示しているような建築である。
前田家3代利常は利家の四男、側室の母から生まれた。
関ケ原の時は6才、利家のことはよく知るまい。
家康は豊臣家の重鎮の後継者に神経を使った。利長謀反の噂を流して牽制する一方、利常に孫を娶らせて外戚とした。
大坂の陣の時には2万を率いて参戦、初陣の利常は真田丸にて大惨敗を喫する。
利常は奇行に事欠かないことで有名。
愉快な人物である。
それにしてもいいものをみた。
E60で初出陣。
実家から越中、越後を回ろうと思う。
早朝に出発、東海北陸道で岐阜県を縦断、南砺市に入る。
まず八丁道にいって前田利長墓所に詣でる。
前田家といえば金沢のイメージがあるが、家祖利家の後を継いだ利長の墓所はここ越中高岡にある。
墓所は武家のものとしては最大級に広い敷地を持っていたといい内堀外堀を持っていた。
八丁道とは利長墓所と菩提寺瑞龍寺の間を結ぶ石畳の道である。
今では学校や住宅街が入り組んでいるため墓所の大きさは実感しかねるがそれでも墓所はたいそう立派である。
前田利長は利家とまつの間に生まれた嫡男。
信長の娘を正室とした。
利家の傍にあって父の出世ぶりを見て育った利長は父が能登の国主となると父から半ば独立した立場となる。
天正13年に佐々成正が家康に加担したことで転封されると越中に移って領主となって内政に務めた。
これが当地と利長のゆかりの始まりといえる。
利家が秀吉の後を追うように没すると父の後を継いで大老となる。
この時利長38才、家康や毛利輝元、上杉景勝と対抗するにはいかにも若く政治面での経験は足りない。
前田家の歴代当主はバランス感覚に優れていた。
信長といかに付き合うかに腐心した父以上に豊臣家と徳川家両者の中でいかに家を保つかは難しかっただろう。
母を人質に出してまで家康に従順であろうとした利長は無事加賀金沢藩の船出に成功した。
利長には男子がおらず、同腹の弟利政がいたが、関ケ原の際に西軍寄りの行動をして政治生命を絶たれた。
利長の後継は異腹の弟、利常に託され、利長は越中に隠居して越中治世に晩年注力した。
よって越中に墓があると思っていいだろう。
利長墓所は利常が瑞龍寺と共に整備した。
利常もまたバランス感覚抜群の名君である。