扶桑往来記

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戦国奥州の男たち 一日目#2 100名城No.31、世渡り上手の新発田城

2011年10月24日 | 日本100名城・続100名城

渋川伊香保ICから関越道に乗り越後へ行く。
今日は新発田城に寄ってから会津に入って泊まる。

越後といえば謙信である。
謙信の本城は春日山城、これは今の上越市にあり、信濃に侵攻して信玄を討つ本道は真っ直ぐ南下する。
今ゆくルートは関東は上州への侵攻ルートであった。
日本海に出る手前が長岡、燕・三条、新潟とゆきその先が新発田である。
新発田まで行ってしまえば真東が米沢、会津は緯度でいうと南になってしまう。
高速を降りるとそろそろ奥州の匂いがしてくる。

新発田城はそうした地勢からみるとおもしろい。
上州、信州、越後と北条・武田・上杉の攻防の地からは離れ、奥州の勢力が南下思想を持っていなかったことから戦国の真空地帯といっていいのかもしれない。

中世の新発田あたりは佐々木源氏の流れ加地氏の幕下新発田氏の勢力圏であったようだが前史ははっきりしていない。
広々とした越後平野にあって伸びやかな歴史であったのかもしれない。
西に長尾氏が興隆する頃、新発田氏の行動が現れてくる。
長尾景虎が関東管領を継ぎ越後の虎と称されるようになったとき、新発田長敦は重んじられいわゆる七手組大将のひとりとなる。
天正6年(1578)謙信が頓死して発生した御館の乱で新発田は景勝についた。
景虎を敗勢に追い込んだ武田勝頼の変節を招いたのが新発田長敦の交渉術という。
ところが上杉を継いだ景勝の戦後論功行賞で長敦には恩賞なく悶々とする中、長敦は死んだ。
後を継いだ重家は「おのれ景勝」と越中まで侵攻してきた織田信長と結ぶ。
いつもながら敵の敵は味方である。
武田を滅ぼした信長の上杉包囲網の一翼を担った新発田氏の安寧もしばしのこと、本能寺の変で信長が死ぬと戦局のターンオーバーである。
秀吉と誼を通じた上杉景勝が盛り返す。
秀吉の敵は天下の敵、景勝は官軍となって北の平定に乗り出してくる。
それでも新発田城は7年もった。
越後の要衝にあり米沢の伊達、会津の蘆名の支援を得て重家はしぶとかった。
新発田氏が滅びるのが天正15年(1587)、そして会津の蒲生氏郷が死に、後に上杉が会津に移ると堀秀治が越後の主となり、新発田城は与力大名溝口秀勝に与えられる。

この溝口秀勝という男は地味ながら世渡り上手である。
信長直臣としてキャリアをスタートし、一度も主君選択のミスなく江戸の新発田藩を興した。
秀勝の「秀」とは秀吉の最も愛した諱であることから寵愛振りがうかがえる。
現在の新発田城は溝口氏が築いたものである。
新発田藩10万石は藩祖秀勝以降、一度も移封されることなく12代で明治を迎えた。
これは珍しい。

新発田城に着いたが入口がよくわからない。
北側に廻ると陸上自衛隊駐屯地の正門があった。
ここは明治維新後すぐに陸軍第十六連隊が駐屯することになった。
これは旧城の行く末として特異なものではないが敗戦後、他の諸城から旧陸軍が続々と撤収した後も新発田城には陸上自衛隊が今も基地を構えている。
おかげで水堀が二重に全周をまわる新発田城の大部分は破壊され、しかも入ることすらできない。
城址で残るのは本丸の半分以下である。

半周して公園の駐車場をみつけた。
水堀が少し残り、新発田城の名物三階櫓がみえている。
天守というにはこぶりであるがここしかない三つの鯱を持つ三階櫓である。
入母屋の端にふたつ、真ん中にもうひとつ強引に棟を設けて入母屋破風をつくり鯱が載る。
何とも不思議な形をしている。
この三階櫓は古資料を入念に考証し木造で復元されながら先の自衛隊との関係で内部には入れない。

水堀沿いに行くと旧二の丸隅櫓を移築した二重櫓、堀にかかる土橋があり渡って表門、くぐると塀で本丸がふたつに分断されている。
あちらが自衛隊の敷地であって軍用車やらが所狭しと置いてある。
元々、城とは軍事拠点であるが近世城郭の中に近代兵器が置いてあるというのは何とも奇妙なものである。

櫓は切込接ぎの石垣が水面から立ち上がり、雪国の城らしく海鼠壁が美しい。
表門は大火の後、享保年間に再見されたもので移築された旧二の丸隅櫓と共に国の重文である。

それにしてもせせこましい城域である。
表門からのぞけば陸自の敷地が広々としている。
城址の復興は市民の熱意によるものであるが、民と軍のせめぎあいといったところであろうか。
こちらからみると例の丁字の屋根はよくみえる。
いかにもムリやりひとつくっつけましたという形で何の用途も効果もなかろう。

さて幕末の新発田藩はどうであったか。
新発田の東隣は会津、米沢である。
南の長岡藩ほどの軍備も精兵も持たなかった新発田藩であるが位置がややこしい。
旧幕府側に立てば会津の出城、新政府側に立てば橋頭堡である。
早々に勤王の志を表明した新発田藩は窮地に立つ。
ご近所様の会津米沢に「たいがいにせよ」と怒られ渋々奥羽越列藩同盟に参加する。
裏では薩長に「脅されては仕方ありませぬ」と二枚舌を使い、ぶらかした。

やっと後詰に黒田清隆の新政府軍が新潟に上陸するとこれを先導して欣喜、以降は新政府軍として庄内を攻める。
何とも見事な処世であろう。

思えば溝口家は尾張の侍であった。
尾張を出て雪国にいること二百数十年、これほど居座った尾張大名は西の前田とここくらいのものではないか。
尾張出身の大名は親藩尾張藩をはじめ真っ先に勤王に転じた。
尾張公慶勝の弟ふたりは苛烈に戊辰戦争を戦う訳だがこれは養子。
三河譜代筆頭の酒井家は質素な庄内城で見事な戦いを演じた。

機を見るに敏な溝口家と西国風の城郭と何とも奇っ怪な三匹の鯱、北国で尾張ものの人生を見たような気がした。
  

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縄張図、水城である

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現存の表門、本来は橋が架かる

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本丸を分断する塀の向こうは自衛隊

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三階櫓
 
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端正な層塔型の最上部は複雑な造型


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1 コメント

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私は北海道の標津町二代目明治13年から戸長を2年間... (安部時夫)
2013-09-12 18:20:27
私は北海道の標津町二代目明治13年から戸長を2年間務めた遠藤勇馬の足跡を求めて居ります、彼は幕末の新発田城城代家老を勤めていたと町の町史に一行記載されているのみで先の事は判りません、明治18年役職を離れ標津で牧場経営を目指して標津に再度現れてホニコイから基線道路までの標津川南岸の土地を借用申請したと有ります。
私は遠藤勇馬の孫、明治36年6月生まれについては少し知っています。
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