扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

歴史コラム #19 海で開く毛利の運

2015年05月31日 | エッセイ:海の想い出

コラムは4年目に突入。

まだまだ継続とのことで書きたいネタを小出しにしつつも書き残しのないような算段が必要。

 

今回は長州のこと、毛利元就の話をメインに。

長州藩は山口県の藩であるが毛利家発祥と全盛期は広島県を主に活動していた。

それも山奥の郡山城が主城で元就はそこから動かなかった。

輝元の代で広島城を新築して山から下りた。

今ひとつ人気のない元就、彼の戦国武将としての面目は「厳島の戦い」である。

この合戦のキモは制海権。

元就は彼一流の謀略で陶晴賢を厳島に引きだした上で村上水軍を味方にし、小早川と協働させて海上封鎖、島に上がったところを奇襲、海への退路を断たれた陶軍を一網打尽にした。

陶は知らず知らずのうちに制海権を獲られていたのである。

 

元就だけでは味気ないので吉田松陰の話と連携。

松陰は海の向こうの国に憧れて暴発、自滅した。

元就は三本の矢を折れないことの象徴とした。

対して松陰の弟子は火矢のごとく発射されて自らを焼いたのである。

 

 

 

 


会津史跡巡り -土津神社から大内宿-

2015年05月21日 | 取材・旅行記

白河から会津に向かう。

4号線を郡山まで行って西へ折れ、猪苗代湖の北に土津神社はある。

土津とは保科正之公の神号、彼が祭神である。

会津藩主となっても正之公は江戸に詰め、将軍綱吉の後見にあたった。

晩年に国元に行った際、この地を自身の墳墓の地と定めた。

領内の古社復興に尽力した正之公は磐椅(いわはし)神社の末社となることを望んだという。

その磐椅神社は土津社の少し西側にある。

もっとも末社たる土津神社の方が比べようもないほど社域も大きい。

 

保科正之の本を書いていて思うのは「藩祖が立派だと残されたものが困る」こと。

正之公はいろいろ詮索し欠点を探そうにも見つからない希有の人ではなかろうか。

死後のことについても整理し指示してから世を去った。

会津藩の皆は正之公の遺志によって縛られ続けてしまった。

 

神社は鳥居をくぐって真っ直ぐに参道が伸び拝殿本殿が並んでいる。

社殿は会津戦争の際、敗走する会津兵が火を放って全焼した。

明治に簡素なものに再建されたようだ。

会津藩が斗南に移封されると土津公の遺骸もはるか青森まで運ばれ、やがて戻ってきた。

 

 

 

境内の東の広場には土津公を讃える大きな石碑が亀の甲羅を台座として建っている。

日本一の大きさの石碑といい、碑文は山崎闇斎による。

このあたりの写真は本に掲載しようと思っている。

 

 

神社の東側を少し登っていくと土津公墓所。

真っ直ぐに並木の中を参道が伸びている。

 

 

 

墓所から見おろすと猪苗代湖の湖面がみえる。

保科正之が当地を気に入ったポイントという。

 

 

撮影を終えて会津若松市街で昼食。

とん亭」で名物ソースかつ丼。

 

 

武家屋敷に寄ってみる。

西郷頼母邸を移築復元したもので家臣の屋敷としては相当に立派である。

 

昔、新選組に凝っていた10代の頃には会津びいきであったと思うが、年を取り歴史を縦横でみるようになってくると幕末維新の解釈も相当に変わった。

200年前の出来事とはいえ、平成の今日につながる流れは濃厚であって暗澹たる気持ちになってしまう。

会津はよく来る場所ではあるがどうも気分が鬱々としてくるのがつらい。

 

今日はこれから大内宿を通って東京に戻る。

大内宿は会津と日光を結ぶ街道の宿場町として設けられ、江戸初期には会津藩が参勤交代で使った。

地理的にみれば奥州街道に出るよりははるかに短距離ですむが、幕府によって参勤交代での使用を禁じられた。

以後は宿場というより山間の集落として歴史を刻み、近代化の影響を受けず残ったため今日歴史的価値を再評価され整備が進んだ。

外国人観光客にも人気のテーマパークである。

訪れてみると確かに江戸社会の原風景を感じられるいい街といえよう。

ここも本に使う写真を撮る。

 

 

 

保科正之公は会津に移封されると高遠のそば職人を連れて行き、会津のそば食が始まったともいう。

大内宿に高遠そばを出す店があった。

ここではネギを箸代わりにし、かじりながら食べる。

 

 

まだ陽は高いが日光に向けて南下、日光を起点にくるりと回ってきた格好である。

一泊二日の取材終了。

 

 


下野一ノ宮・日光二荒山神社

2015年05月20日 | 諸国一ノ宮

納経をすませて近くの二荒山神社中宮祠に参詣。

男体山の麓にある。

祭神はオオナムチ(大国様)とタゴリヒメ(宗像三女神)、その子のアジスキタカネヒコの親子神。

奥宮は男体山頂上にありここから登っていく。

 

 

 

宝物館があり、日本一長いという「祢々切丸」を見物。

刀身の長さ7尺1寸2分。

納経をすませたので今日の残り時間は東照宮とした。

 


家光の威光 -日光東照宮など-

2015年05月20日 | 仏閣・仏像・神社

いろは坂を下っていき輪王寺へ参詣。

ちょうど工事中で三仏堂は足場で覆われている。

代わりに天空回廊なる施設が設けられ修理の様子が上から眺められる。

 

 

お次はいよいよ東照宮。

日光は周知のように家康を祀るために孫の家光によって大開発された。

父の秀忠は家康のように質素倹約の風があった。

その父により設計された東照宮が「地味である」ことを嫌った家光は莫大な予算を投じて再開発。

ために極彩色の社殿が残ることになった。

 

 

 

 

 

陽明門は補修中である。

陽明門の前庭には諸大名などが奉納した灯籠が並ぶ。

名高い伊達政宗の南蛮鉄造りの鉄灯籠もあった。

 

三猿、眠りネコなど定番をみて奥宮の家康墓所まで行った。

家康公の墓参りを終えて宝物館へ。

南蛮胴具足を見物、噂通り試し撃の弾痕が残っておりおもしろい。

 

夕闇迫る中、最後の参拝は大猷院。

家光墓所である。

「院」であるから東照宮と違ってお寺である。

 

 

 

4代将軍家綱の名によって建立されたが、その実、養育係の保科正之の意向が大きいであろう。

境内に保科正之奉納の灯籠がありそれを本に使いたい。

少し探して発見した。

 

これで予定終了。

今日の宿は白河駅前の第一ホテルにとった。

 

明日は保科正之の墓参りである。

 


坂東三十三観音遍路 8日目 −下野、十八番日光山中禅寺−

2015年05月20日 | 御遍路・札所

坂東遍路は栃木県へ。

栃木の遍路寺は4箇所。

ちょうど会津方面に取材に行く予定もあったのでまずメジャーな日光を訪れようと思う。

 

お供は335i、中禅寺へは日光街道の杉並木を抜けていき、いろは坂を越えると華厳の滝、すぐに中禅寺湖に到る。

恥ずかしながら日光は初訪問。

いろは坂を結構なペースで抜けていくと気持ちいい。

今日は晴天なれども霧が深く男体山も湖面もみえないのがもったいない。

 

中禅寺の本尊十一面観音は立木観音といい地面に根を張った桂の木を彫ったものという。

 

 

 


信濃名刹巡礼 #6 高遠城資料館

2015年05月15日 | 日本100名城・続100名城

今日最大の目的は高遠城に行き、資料館の人に話を聞くことにある。

諏訪から高遠へは杖突峠を越えていく。

この道は私のお気に入りの街道である。

理由のひとつが峠の茶屋からの絶景。

今日も見事である。

 

高遠城址公園の中に高遠町歴史博物館がある。

玄関前に保科正之と母の像が設置されていた。

 

館長さんに話をうかがうことができた。

どうやら私のことを歴史好きのひとりだと思っていたらしく最初は軽々に扱われてしまった。

何とか資料入手やゆかりの地などの情報を聞き退散。

 


信濃名刹巡礼 #4 高島城・高遠城

2015年05月15日 | 日本100名城・続100名城

諏訪湖のほとりで起床。

近くの高島城址へ行く。

江戸時代に「浮城」として名高かった。

元々は諏訪湖に面しており島を丸ごと利用して築城されたものの、今では湖面は遠くなっている。

諏訪の領主は戦国時代、諏訪家が務めてきたが信玄の侵攻により腹心の板垣信方が郡代となり上原城を拠点とした。

信方が戦死、諏訪頼重の娘が勝頼を産み、勝頼が長じると伊那高遠に入って一帯を管轄した。

武田が滅亡すると諏訪頼忠、すなわち武田に協力した方の諏訪家の後継が織田北条との間を立ち回って諏訪に復活、しばし領主となった。

徳川家康が関東に移封となると諏訪頼忠も関東に移動、後に秀吉の命で日根野高吉という武将が高島に来た。

彼は7年掛けて浮城を築く。

せっかく心血を注いだ高島城も日根野氏が転封となり諏訪頼忠の長男頼水が諏訪藩主として復帰、以後明治まで諏訪家が藩主を務めた。

高島城は現在、天守や門などが復元されており石垣など立派なものである。

屋根は銅板葺きであるが当寺はこけら葺だったようだ。

 

 


信濃名刹巡礼 #2 上田の国宝

2015年05月14日 | 世界遺産・国宝・重文

善光寺から上田へ回った。

長野県には国宝が7つあり、建造物は5件。

善光寺本堂、松本城天守。

これに加えて未見が「安楽寺八角三重塔」「大宝寺三重塔」「仁科神明宮本殿」の3件。

今日は安楽寺と大宝寺に行く。

 

安楽寺は別所温泉の一角にある。

石段を上っていくと山門、鐘楼があり本堂へ続く。

本堂の裏手に建つのが八角三重塔。

実際には四重塔にみえるが初層は裳階。

八角塔はここだけらしい。

 

安楽寺は鎌倉時代に北条氏の庇護を受けて栄えた。

臨済宗だったようだが、今は曹洞宗らしい。

北条氏滅亡の後は寺勢が衰えてと案内板にあるがなかなかどうして立派な伽藍である。

安楽寺の隣は北向観音。

坂東遍路のお礼参りの寺であるため遍路を終えてから再訪しようと思う。

 

続いて訪れた大法寺は天台宗、こちらも美しく整備された見事な境内で京や奈良の名刹にひけをとらない。

寺宝の十一面観音と普賢菩薩、厨子と須弥壇が国の重文。

真田信繁愛用の茶釜も伝わっている。

信繁の姉村松殿の住まいが近くにあったという。

 

本堂に正対すると左奥に三重塔がみえている。

少し高い位置にあり傍らを上っていくと横から上からながめることができる。

 

 

 

初層が二層三層よりも大きく軒の反りが多いことから雄大優美にみえる。

この塔は「見返りの塔」と呼ばれ何度も振り返って見てしまうのだといい、なるほど立ち去りがたい何ものかがあるように思われる。

 

信州上田の塔ふたつ、いいものをみた。

 


信濃名刹巡礼 #1 善光寺御開帳

2015年05月14日 | 仏閣・仏像・神社

保科正之ゆかりの高遠に取材に行く。

高遠だけなら日帰りで十分だが信州でまだ行ったことのない名刹を回ってみようと一泊することにした。

 

朝、出発してめざすのは善光寺

今年は7年に一度の御開帳の年。

開帳されるのは秘仏本尊のお前立ち。

ふだんは宝庫に安置されているものを出してくる。

本堂前には回向柱が立てられ結縁が可能になる。

 

駐車場にはスムーズに入れ裏門から境内へ入る。

大変な人だかりで本堂へ入る人で大行列。

何とか御参りをすませて境内を一回り。

回向柱にも並んだ。

中には柱に抱きついてしばらく離れないような人もいて信仰の篤さを感じる。

 

 

御開帳記念の品など買って善光寺を辞し、上田方面に向かう。