扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

歴史コラム #26 首里の岡にて

2016年07月31日 | エッセイ:海の想い出

歴史コラム26回目は前回に続いて沖縄話。

 

琉球王朝は中国の冊封国として栄華を極めた。

その首都が首里、ひときわ大きなグスクがあった。

首里城には90年代はじめと今年の3月と20年の時をおいて二度行った。

前回はまだ守礼門と石垣のみであったが、今や正殿をはじめ整備が進み、内地の城郭にも優るとも劣らぬ威容を誇っていた。

その全ての建物が大戦で失われ一帯が廃墟と化した。

その惨劇がうそのように首里城は再建され、県民の心の拠り所となり多くの観光客を集めている。

沖縄が沖縄県として日本の中央集権体制に組み込まれて140年。

戦後、米国の一部となった沖縄が日本に還ってきたニュースは私も覚えている。

 

沖縄の立地はかつて大陸と日本の中間貿易で栄えたように、日本の先っぽにあることが幸いしていたが、現代ではその中国との軍事的緊張にさらされることとなった。

内地の我々は国際的緊張を国境の人々に肩代わりしてもらい斥候を置くことで成り立っていることを忘れてはならない。

繰り返しになるが沖縄の歴史を振り返るとどうも気が重い。

 

だからこのコラムは泡盛をちびちび飲みながら書いた。

 


泉州紀州参詣 3日目 #5 空の旅

2016年07月20日 | 取材・旅行記

中山寺から伊丹空港へは30分くらいの所要時間。

16:25のフライトなのでまだ余裕があるが、空港に行ってしまうことにした。

 

空港内でお好み焼きの遅い昼食。

久しぶりの大阪お好み焼きだった。

 

定刻通りにTake off。

右側の窓から大阪城が見え、縄張がよくわかっておもしろい。

生駒山地を越えていくところも、奈良と大阪の関係がわかりやすい。

伊勢湾を抜けてしまうと海ばかりの光景になり、東京湾上空で旋回に入るとやおらアクアラインが視界に入る。

無事到着で帰宅。

 

寺社仏閣三昧の三日間で、クルマを使わない巡礼というものもおもしろいと思った。

夏場は体力の消耗が激しいので安全面からもいいと思う。

 


泉州紀州参詣 3日目 #4 西国三十三所 二十四番 紫雲山中山寺 

2016年07月20日 | 御遍路・札所

本旅最終目的地の中山寺に向かう。

 

駅でちょっとしたトラブル。

JR紀三井寺駅でSuicaで入り、JR和歌山駅から和歌山市駅で南海乗り換え時にSuicaで通れず、下車駅で精算した。

大きい駅なのに不思議なことである。

途中、阪急への乗り換えで梅田駅がえらく変わっていることに驚く。

 

今日も猛暑の中、2リットルのお茶を担いでの旅。

阪急中山観音駅で下車。
 
駅前の参道を行くとすぐに立派な山門が現れる。
中山寺は摂津屈指の名刹で聖徳太子の創建にして日本最初の観音霊場という。
この寺は恥ずかしながら初見である。
 
境内を歩いて目立つのが屋根付きのエスカレータが二基。
広くて段のある境内としては日本一歩きやすい寺社のひとつといえるだろう。
それはおそらくこの寺が安産祈願の観音として名高いからで妊婦さんが御参りしやすいようにとの配慮からに相違ない。
古来、皇室を始め、源頼朝以来の武家にも信仰が篤かった。
豊臣秀吉は子授け祈願をして秀頼を得、秀吉の死後に秀頼が命じて片桐且元が奉行して造営したのが現在の社殿となる。
 
中山寺あたりは阪神淡路大震災で相当深刻な被害を受けたのだが、本堂は無事だったらしい。
とはいえ、伽藍のいくつかは倒壊大破している。
バリアフリー化も復興の過程で進んだようで、RC造りの建物は外も内もきれいに整頓されている。
 
納経をすませて三日間の参詣が終了。
 
 
御詠歌
野をもすぎ 里をもゆきて 中山の 寺へ参るは 後の世のため」

 
     
中山寺山門   多宝塔    本堂
 
 

泉州紀州参詣 3日目 #3 和歌浦あたり 

2016年07月20日 | 仏閣・仏像・神社

天満宮を降りて、紀三井寺の方に歩いて行く。

 

和歌浦は万葉の頃から景勝の地だった。

山部赤人は「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る」と詠み、聖武天皇が行幸した。

その後も、観光名所として人の手が入り、近世に紀州藩という大藩が領主だったことも観光地としてのその後に有益だったと思われる。

昭和の空襲もこの辺りには及ばなかったが、戦後の都市開発でさすがに白砂青松とはいかず、水は緑色に濁り、鶴が鳴き渡る様子はない。

古代の和歌浦は島の数がもっと多く、眺めは往時の方がよかったのに違いない。

 

一帯には「不老橋」「観海閣」「海禅院多宝塔」などが点在し、古社も多い。

そのひとつ、玉津島神社に参詣した。

この地は満潮時に6つの島が浮かび玉のようだったという。

 

玉津島神社の海側に回ると鹽竈神社。

斜めに走る地層の筋が見事な岩山の割れ目に拝殿をセットした神社である。

 

午前中で見物を終わり、はるばる伊丹方面まで行く予定で電車の時間に会わせて急いだ。

ところが目測を誤り、30分おきの発車に間に合わず、25分待つ羽目に。

今回の旅は全体的にスケジュールがすいすいとこなせていたのに残念。

 

   

玉津島神社       根上がり松

  

鹽竈神社

 

   

観海閣          海禅院多宝塔

 

  


泉州紀州参詣 3日目 #2 和歌浦天満宮

2016年07月20日 | 仏閣・仏像・神社

東照宮の隣が和歌浦天満宮。

一度、山を降りてもう一度、平地からやり直しのようだ。

 

和歌浦の天満宮は太宰府、北野と合わせ「三菅廟」という。

他のふたつと比べると和歌浦天満宮は山腹に立ち、眺めがいいところが特徴といえ、その分参拝には体力がいる。

緑色片岩の石段を再度、ふうふうと登っていくと絶景を得る。

楼門からは東照宮よりも眺望が開け、対岸の紀三井寺がわずかに顔を出し、なるほど歌枕の地というものは、開発が進んでしまっても風情がある。

楼門にはベンチが置いてあり、座ってその眺めを堪能できるようしつらえてあり、歌や俳句をひねる人も多そうである。

 

天満宮の創建は当然、道真の死後、その怨霊が朝廷を苦しめ、北野天満宮に祀られた後、10世紀のことだ。

ここがゆかりの地となった由縁は、道真公が太宰府に向かう際に立ち寄った故事により、後に社殿が建てられた。

秀吉の侵攻によって雑賀のあたりは荒れ、一帯の復興は豊臣秀長の大和紀伊入封によって進められ、和歌山城は桑山重晴が務めた。江戸開府で紀州は浅野幸長の支配となり、浅野が福島正則改易によって広島に移ると紀州徳川家の成立となる。

現在の社殿は江戸初期のもので、大和大工の名匠、平内吉政・政信の手になるという。

楼門は一間の門としては日本最大といい、堂々としている。

拝殿などこぢんまりとしているが、和歌浦の天満宮の価値というものはその立地と眺めにつきるのだろう。

 

  

  

  


泉州紀州参詣 3日目 #1 紀州東照宮

2016年07月20日 | 仏閣・仏像・神社

本日は旅の最終日。

和歌浦方面を回って伊丹空港から帰る。

 

ホテルをチェックアウトしてJR和歌山駅からバスに乗る。

そういえばホテルの辺りは太田城があったところで城将太田左近の像が立っている。

来迎寺という寺には太田城址の碑があるらしく、堤防の痕跡もあるらしいが見に行く時間がない。

 

バスを降りてまず紀州東照宮に詣でる。

東照宮は雑賀山という小さな山に鎮座し、同じ峰に和歌浦天満宮もある。

東隣の山が雑賀城址でこの一帯が雑賀荘、雑賀孫一始め雑賀党の根拠地である。

 

和歌山はこのあたりもそうだが、平地の開発が進んでいるためわかりにくいが、日前宮などみても樹勢旺盛な緑の国だったことは容易に推測できる。

大きな町がないということは攻めにくいということでもあり、本城ひとつ落とせば町を制圧ということにはなりにくく、信長ですら攻めあぐねた。

また和歌浦という天然の良港を抱えていることから船で補給も遠征も容易に可能であっただろうから、戦国の傭兵の根拠としては実に都合がいい。

 

東照宮の創建は元和7年(1621)、紀州に入封した徳川頼宣による。

鳥居をくぐって参道を行けば早くも鬱蒼とする。

侍坂と呼ばれる108段の石段をふうふういいながら登るのだが、振り返れば和歌浦が優雅に光り苦にはならない。

 

楼門は朱が鮮やかで、権現造りの本殿は朱漆と黒漆とのコントラストが美しく、左甚五郎作という彫物が飾られている。

建物はほとんど国の重文であり、日光ほどの規模はもちろんないが、コンパクトで凝縮感がある。

拝観料を払うと唐門から本殿前に入れ、巫女さんが説明についてくれ10分ほどで一周する。

立ち止まってしげしげと眺めることができないのが残念である。

 

戻りは裏手の石段を降りていったが、用材が見事な緑色片岩で雨の日などぬらぬらとして風情があろう。

    

  


泉州紀州参詣 2日目 #6 日前宮

2016年07月19日 | 諸国一ノ宮

続いて紀伊一ノ宮のもうひとつ、日前宮へ。

ここも二回目で以前の記憶は割と鮮明である。

神社にしては尋常ではないほど平ぺったい。

 

伊太祁曽駅から6つ目の日前宮駅下車。

大通りを渡ると石橋の向こうに鳥居。

日前宮は上空から航空写真でみると緑の樹木が四角くくっきりと区画されており、小さな島のようである。

参道を歩いてみれば鬱蒼と樹木が茂り、昼なお薄暗い。

司馬遼太郎氏が「街道をゆく」の中で日前宮を訪れ、この樹勢に何やらお書きになっていたように思う。

 

鳥居からまっすぐ行くと丁字路になっていて左に行くと日前(ひのくま)神宮、右に行くと國懸(くにかかす)神宮があり、つまり左右対称にふたつの社がある。

日前神宮の方の祭神は日前大神、相殿には思兼命、石凝姥命(いしこりどめのみこと)の三柱。

國懸神宮の方は國懸大神、相殿に玉祖命、明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)鈿女命(うづめのみこと)

アマテラスが天の岩戸の内に隠れた際、オモイカネが策を計り、イシコリドメが八咫鏡に先んじて作った鏡をそれぞれ神体とする。

つまり鏡を企画した神、作った神、できたものを神体としていることになる。

伊勢神宮の神体、八咫鏡の元となった鏡の社であるからその格は高い。

戦国時代、紀州に侵攻した豊臣家によって破壊されたといい、現在の社殿の歴史は浅いらしい。

 

拝殿のそばに絵馬が奉納されているのを何気なく見ていた。

知恵の神様オモイカネのご利益で受験合格祈願が多いが、一番表に子供の字で

「高橋まり子さんが僕の彼女になりました。ありがとうございます。」と書かれていた。

義理堅いというか何とも威勢のいい話である。

 

授与所で御朱印をいただいてみたら「木乃國」の書があった。 

日前宮、伊太祁曽神社に加え、竈山神社の3社に詣でることを「三社参り」というらしく、ふたつ戻った駅が最寄りであるが、もはや時間も力もなく、本日の参詣を終了とした。

 

宿に着いてから一度休憩し、陽が暮れてから駅地下へ出かけて夜食用のハモの天ぷらやらおやつやらを買い込む。

久しぶりにスターバックスのコーヒーを買った。

寝る前に全身筋肉痛でしばしのけぞったのは脱水症状だったのかもしれない。

 

      

参道の丁字路    日前神宮拝殿   國懸神宮拝殿

 


泉州紀州参詣 2日目 #5 伊太祁曽神社

2016年07月19日 | 諸国一ノ宮

たま電車に乗って伊太祁曽駅下車、少し歩いていくと伊太祁曽神社に着いた。

 

伊太祁曽神社は紀伊国一ノ宮とされている。

後で行こうと思っている日前宮と高野山近くの丹生都比売神社も一ノ宮を称しているので紀伊国の一ノ宮は3つあることになる。

紀伊は「木」の国という説と紀氏の国という説があるが、実際に探訪してみると「木」の国の方ととりたい心情になる。

伊太祁曽神社の祭神は「五十猛命(いそたける)」といい、妹神の「大屋津姫命(おおやつひめ)」、「都麻津姫命(つまつひめ)」の3柱が祀られる。

五十猛命は日本書紀に登場し、スサノオとクシナダヒメの子とされ、スサノオによって紀伊国に入りスサノオの体毛を樹木として植えて回ったという。

まあ「木の国」説からいえばおもしろい神話である。

 

境内は木の材が黒々としていい雰囲気を醸し出している。

木彫の干支が並べられており、これらはチェーンソーカービングなる技法で神前で彫刻、奉納されたものという。

 

それほど大きな神社ではないが趣のあるいい神社である。

 

   

 

伊太祁曽駅はニタマが勤務していた駅舎で、たま関連も含めいろいろ展示してあった。

こちらの方がネコ駅長のいい時代の雰囲気がある。

ささやかな支援と思ってたまの饅頭を買った。

  


泉州紀州参詣 2日目 #4 和歌山電鐵貴志川線

2016年07月19日 | 取材・旅行記

和歌山電鐵は南海電鉄から貴志川線を譲渡されて誕生したローカル鉄道である。

この路線はねこを駅長として採用し、勤務させたことで注目された。

いわば地域再生の成功事例ということだが、ネコ好きにとって見逃せない美談である。

 

たまという三毛猫に駅長のコスプレをさせ、乗客とふれあいの場を提供するというアイデアで、それをネコの健康も考えて真面目に取り組んでいるところがいい。

たま駅長はネコブームの先駆けといえるもので「ネコが流行っているから使おう」というあざとさがなかった。

練られたマーケティングにもとづくものではない。

たまは貴志駅近くのお店で飼われていたが、駅舎と周辺の再開発で家を失い、困った飼い主が新たな社長に相談、ひらめいた社長が駅長として働いてもらうということにした。

たまは期待以上の精勤ぶりで新生和歌山電鐵の乗客増に貢献し、とある民間試算では11億円の経済効果をもたらしたという。

 

前回和歌山に来たときは残念ながらたまに会えず、たまは昨年死んでしまった。

16才だったというからネコにしては割と長寿といえる。

今は2代目駅長ニタマが貴志駅で勤務している。

ニタマは保護された野良ネコで伊太祈曽駅に勤務しつつたまの休日に貴志駅で駅長代理をやったりしていた。

たまの死で貴志駅長に昇格したのである。

 

一日乗車券を買ったので和歌山駅からニタマが勤務中の貴志駅まで行ってみた。

やってきたのは「うめ☆電車」で紀州名物梅干をモチーフとした車輌でなかなかよくできている。

 

単線の線路をごとごとと貴志駅までいくと予想通りのにぎわい。

ニタマは駅舎の中の涼しいところで昼寝をしていた。

駅構内にグッズ販売をする一角があり、観光客で一杯だった。

ほとんどが若者で海外旅行者と思わしき人も多い。

私のようなひねくれ者のネコ好きからすると「流行っているから来る」というのはちょっと違うと思ってしまうのだが、売上に貢献しているなら結構なことかと思う。

 

少し土産を買って来た電車の折り返しに急いで乗った。

「たま電車」が来て、車輌内部はたまのキャラクタで埋め尽くされていた。

イキった高校生が長いすで寝ながらスマホゲームに興じていた。

そもそもが生活路線と路線沿いにある神社の参詣用というのが貴志川線の主要客層だと思われ、ネコ好きだけの路線でもあるまい。

ネコブームが去った後の貴志川線の将来が危惧される。

 

たま電車


泉州紀州参詣 2日目 #2 西国三番風猛山粉河寺 

2016年07月19日 | 御遍路・札所

粉河寺は二度目の参詣となる。

西国遍路という意味以外にもうひとつあって、猿岡山城を見てみたかった。

この城は藤堂高虎が初めて城持ちになったときに入城した城なのである。

 

粉河寺にはJR紀三井寺駅からいったん和歌山駅に戻り乗り換えてJR粉河駅まで行く。

駅から歩いて行くとお遍路さんなどの姿はなく人通りもない。

赤い欄干の橋を渡ると重文の大門がみえてくる。

 

粉河寺の創建は宝亀元年(770)、通りがかりの猟師が光り輝く場所を見つけたところから物語が始まる。

その地に庵をくんだ猟師は童姿の行者がやってきて宿を貸し、お礼にと千手観音を刻んで去った。

後の世、河内の長者が童行者に娘の病を治してもらいお礼をするために「紀州粉河の者」といった行者を探しに行ったところ、小川の水が粉をとかしたように白いのに気づいて庵を訪れると千手観音がいた。

というような話で、国宝の粉河寺縁起という巻物になっている。

大門の右手に小さな川が流れているがもちろん白くはない。

 

粉河寺は寺領4万石という繁栄ぶりをみせていたが、秀吉の紀州平定戦の再、根来寺などとこれに抵抗し、兵火にかかった。

現在の伽藍は江戸時代に紀州徳川家の力で再興されたものである。

大門から入山すると左手に御堂がいくつか並び中門に到る。

中門をくぐると左手に安土桃山様式を残す庭園が現れ、石段を上ると本堂である。

本堂は巨大で真四角に近い。

     

 

紀州の寺といえば、根来寺も私の好きな寺であるが、あちらも巨大な堂宇がどんどんと平地に立ち並び壮観である。

粉河寺も同様に、すこんと空が開けてすがすがしい。

御参りと納経をすませて猿岡山城を見に行く。

城址は現在秋葉公園となっていて、大門と中門の間にある橋を渡って丘を登っていくと本丸のような平地が現れた。

城造りの名人と評された藤堂高虎の居城としてはいかにも小さく、また石垣など痕跡も見つけにくい。

高虎は槍一本で大名に出世した戦国の典型的な成功者ではあるが、武勇のみではなくむしろ土木工事で異才を発揮した。

粉河をもらったのは紀州攻めが終わった天正15年頃であり、まあ焦土の復興と戦後処理の意味合いがあっただろう。

 

ここから秀吉は猛烈に忙しくなり天下一統にむけて家中、休む暇もなくなる。

高虎は和歌山城の普請奉行を初仕事としてあちこちに名城を築いていくが、自身の城は手つかずだったようである。

名建築家の自宅がふつうの住宅だったようなものであろう。

本丸に「猿岡城」という石碑が建っている。

展望台からは紀ノ川方面がはるかにみわたすことができる。

反対側は粉河寺となる訳だが、粉河寺はすでに骨抜きになっているのであり、城の立地は大和方面から橋本を通過して和歌山に侵攻する敵への出城とも思われる。

ただし、大和には豊臣秀長がどんと構えているのであるからその心配は現実的にはない。

だから堅固な城はいらないということなのだろう。

   

 

それにしても暑い。 

電車で和歌山駅に戻るまで約40分、昼寝した。

 

 

 

 


泉州紀州参詣 2日目 #1 西国二番紀三井山金剛宝寺

2016年07月19日 | 御遍路・札所

朝起きてチェックアウトし、次のホテルに寄った。

値段からすれば仕方がないことだが最初のホテルは少々難ありで広くて新しそうなところにもう一泊する。

 

和歌山に前回来たときは、奈良方面から九度山に行き、真田庵をみて紀ノ川を下り、粉河寺。

和歌山市に一泊して城をメインに日前宮、紀三井寺に行った。

 

今日はまさにその3つを再び詣でる。

一ノ宮巡りと西国三十三所はその後始めたのである。

 

まず最初に紀三井寺に行く。

和歌山駅からJRで二つ先の紀三井寺駅、少し歩く。

今日も昨日と同じ猛暑である。

前回来た時は秋の頃で、境内からの眺めと共に山腹を平らにするために積まれた緑色片岩の石垣が印象的で夕暮れのこともあり、夕焼けが美しかったことを思い出す。

拝観受付のところから坂を登っていくと本堂、境内の多宝塔、鐘楼などの朱が鮮やかである。

前回、来た時は寺宝の資料館に入った覚えがあるのだがどうやら今日はやっていないらしい。

紀三井寺には現代の名匠、松本明慶さんの大作、千手観世音菩薩像がある。

新仏殿の前に鐘が設置してあり撞いてみた。

高さ約11mの巨大な立像で内部のテラスから各部分をしげしげと眺められ、楽しい。

これは寄木造りでつまりは木造であるが日本最大という。

これほどの大作をいまだ作り得る日本の仏師の技量と情熱には敬意しかない。

 

納経をすませ、キティちゃんが千手観音に化けているお守りを買った。

ここの石垣はいつみても素晴らしい。

 

御詠歌

「ふるさとを はるばるここに 紀三井寺 花の都も 近くなるらん」


        

本堂


   

 

新仏殿から


泉州紀州参詣 1日目 #8 和歌山ラーメン ○イ

2016年07月18日 | ご当地グルメ・土産・名産品

和歌山城そばのラーメン店、○イ。

和歌山ラーメンは割とメジャーなご当地グルメ。

先年和歌山に来たときは発祥とされる井出商店に行った。

スープは濃厚な豚骨醤油であるらしいが、様々であるらしい。

ここのラーメンも濃い味であるが、普通に頼んでも薬味のネギが山盛り。

 


泉州紀州参詣 1日目 #8 和歌山城

2016年07月18日 | 日本100名城・続100名城

住吉さんで本日の予定終了とした。

大阪城→葛井寺→道明寺→住吉大社と周辺の寺社を回った。

猛暑の中、予定通り消化できた。

リュック1個に2Lのペットボトルのお茶で何とかしのいだがクルマで回るよりも移動が疲れる。

その分、電車の中では休憩できるわけで一長一短ありではある。

 

南海電車で堺に行き、特急サザンに乗り換えて和歌山市駅。

宿はJR和歌山駅の方なので乗り換えの必要があるがぶらぶらと歩いて行くことにする。

途中、ちょっと早いが和歌山ラーメンで夕食。

さらに歩いて行き、和歌山城の北堀沿いに歩く。

和歌山城は数年前に登城したことがある。

連立式のいい城で城下町からみた風景もいい。

空襲で失われたことが惜しい。

 

宿に着いてから一度休憩し、陽が暮れてから駅地下へ出かけて夜食用のハモの天ぷらやらおやつやらを買い込む。

久しぶりにスターバックスのコーヒーを買った。

寝る前に全身筋肉痛でしばしのけぞったのは脱水症状だったのかもしれない。

ごそごそしているうちに就寝。

 

和歌山城大手門あたり


泉州紀州参詣 1日目 #7 摂津一ノ宮・住吉大社  

2016年07月18日 | 諸国一ノ宮

近鉄天王寺までもどりあべのハルカスを仰いでから阪堺電軌上町線に乗り、住吉鳥居前駅下車。

文字通りの鳥居前である。

 

住吉さんは初参詣。

京都で4年暮らし、日本橋の会社に何度も通った割に南大阪は空白地帯だった。

大阪平野は基本的に平べったいこともあるが、海岸がものの見事に埋め立てられ、往時をしのぶような場所がどうもみつからないことが原因かもしれない。

だから今日は乗る電車も通りも珍しい。

住吉大社は神功皇后が建立した。

というところからしておもしろい。

社伝では神功皇后自ら海外遠征し帰り道に船が止まってしまった時、住吉大神が現れ「大きな港があり弾のように美しく細く突き出たところに鎮まりたい」と告げたことから住吉に祀られたという。

住吉大神とは底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神をいい、記紀では伊耶那岐の禊の際に誕生している。

海の底、真ん中、表面から生まれたことから航海の神となり、お祓いの神となった。

三神に神功皇后を加え住吉大社には本殿が4つある。

上空からみると住吉造の独特の形は船団を組んだ船のようにみえる。

 

住吉さんにはいろいろ見所がある。

断面が四角である鳥居の柱、赤い欄干の反橋、島津氏の祖が生まれたという場所に立つ誕生石。

境内の外にある摂社末社も文化財が多い。

ひとつひとつ見ていくと陽が暮れそうなので楠珺社に寄り一ノ宮の御朱印をいただいて参詣終了。