扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

種子島行 #6 指宿と知覧と −薩摩今昔−

2016年10月17日 | 取材・旅行記

指宿港に着いたら夕暮時。

宿に歩いて行き荷物を置いたら名物砂蒸温泉。

 

 

さて夕食どうするかと思ったらこれが大失敗。

周辺の店が軒並み閉店。

砂蒸し会館に戻ってラーメンを寂しくすすりようやくみつけたコンビニで晩酌セットを整えて宿に戻る。

 

宿は「民宿たかよし」。

ここはおかみさんがいい人で接待が気持ちいい。

部屋は田舎の子供部屋のような6畳間で何の変哲もないがお値段がお安い。

 

次の日は知覧を見物しようと計画を練り就寝。

すると未明に何やら外が物騒なことになってきた。

盛大に落雷が続きいわゆるゲリラ豪雨のような様相。

とても寝ている場合ではなく、ニュースを視るとJR指宿線が運行停止。

「あいやどこにも行けぬではないか」

こうなると予定が崩壊。

いろいろ探してみると指宿フェニックスホテルからバスでJR平川に行き、バスを乗り換えれば知覧まで行け、帰りはJR鹿児島中央駅までバス1本、空港までさらにバスで行けることがわかった。

 

JRが止まると東京などではえらいことになるのが常だが、指宿線は結構天候次第で止まるらしく地元民はいたって冷静。

フェニックスホテルに行ってみるとバスを待つ人などなく拍子抜けである。

道路はいたって平穏ですいすいと知覧まで行けた。

 

最初は知覧特攻平和会館

一度来てみたかった施設である。

軍事マニアの矜恃として兵器は戦争の道具であること、実戦では必ず人の生き死にがつきまとうことを考え合わせることは肝に命じている。

特攻に使われる兵器はもはや兵器ではない。

死を前提とする出撃などあってはならず、「帰ってくるな」と命じる戦闘などあってはならない。

美化してはならず忘れてもならない過去の悪行である。

 

屋外には一式戦「隼」が展示してある。

 

 

会館の展示室には一式戦、4式戦「疾風」。零戦もある。

特攻のことは思うところ多い故、別項を起こしたい。

 

いろいろ勉強した後、武家屋敷の方に歩いて行く。

本当は山城の傑作、知覧城を見物したかったのだが、今朝の豪雨で一部崩落しているらしく観光案内所の娘っ子に止められた。

知覧城はカルストをくり抜いて曲輪を独立させたまさに難攻不落。

知覧武家屋敷は城の麓、川が流れる平地に開かれている。

西側の入口で入場料を払って武家屋敷群が並ぶ通りを歩く。

韓国人観光客の団体が大勢いてかしましい。

 

 

 

 

屋敷は平屋で庭が見事に整備されて美しい。

人口構造物がほとんどみえない江戸の町である。

かつて薩摩の武家がながめた光景と変わらないのだろう。

 

武家屋敷の外れに亀甲城址がある。

知覧城の出丸といわれ規模は小さい。

 

 

 

時刻は14:00。

バスの時間が迫ってきたので武家屋敷に戻りバスを待つ。

近くの菓子舗でかるかんを買いコンビニおにぎりが昼食。

今回の旅は食事が貧弱だった。

 

駅まで戻るバスから晴天の桜島をながめる内に鹿児島市内に戻ってきた。

 

帰りの飛行機が飛び立つとちょうど夕暮れで雲海が虹色に輝き幻想的だった。

 

この旅もまた得るものが大きかった。

ふだんクルマで移動しているので公共交通機関を駆使する今年の旅は移動時間が新鮮。

マイレージも尽きたのでしばらく飛行機に乗ることはないと思う。

薩摩で行き残した史跡もまだまだ多い。

ぜひ再訪したい国である。

 


種子島行 #5 種子島家のこと 

2016年10月16日 | 取材・旅行記

種子島二日目、夕方高速船が出るまで近隣を散歩。

種子島は戦国以来、種子島家が治め続けその城下が西之表港あたりにある。

 

ホテルの裏山を登っていくと種子島家の本源寺墓地。

 

隣に栖林神社があり、ここは種子島に甘藷をもたらした藩主を祀っている。

甘藷は要するにサツマイモであるが薩摩には琉球から伝わった。

琉球では飢饉対策として大いに耕作されたが、本土に伝わり大いに伝播したのは青木昆陽の時。

薩摩イモよりも琉球イモと呼んだ方がいいのだろうが、琉球は公式に日本ではなかったからだろうか。

本源寺の裏手、さらに丘を登ると赤尾木城跡。

種子島家の本城である。

種子島家は平清盛の孫行盛の子信基が祖というらしく、北条時政の養子となって種子島に封じられたという。

家紋は三つ鱗である。

 

種子島の戦国時代はのどかなもので隣の屋久島も含め、小さな相続争いくらいしかなかった。

よって鉄砲が伝来しても使用の機会がなく、親分の島津家がそれを運用した。

江戸時代の種子島は種子島家が島津配下の臣として治め、無難に明治になった。

 

 

城址はすっかり小学校となっていて土塁の面影が残っているくらいである。

 

城山の西側に「鉄砲館」なる資料館がある。

 

ここは鉄砲関係の資料が豊富にある。

伝来経緯ももちろん、製造方法から運用まで。

さらに古今東西の飛び道具の変遷など実物で学ぶことができる。

ぜひ東京に出開帳してもらいたい。

 

 

幕末維新の戦闘で使われた洋銃などこのように展示されており壮観。

中でも万感の想いは「初伝銃」。

本物かどうかなどは無粋なことで門倉岬の景観と初伝銃の実見でこの旅は満腹。

 

次に鉄砲館から城山の北側に廻ってみると「月窓亭」という旧家がある。

羽生道潔という人が1795年に建てたもので明治維新により島を離れた種子島家当主が島に戻る際、屋敷として使われた。

現在は市の所有となり公開されている。 

 

 

 

 

司馬遼太郎の傑作エッセイ集、街道をゆくシリーズに「種子島みち」があり、司馬さん一行が月窓亭で種子島家の人達と酒宴をはった話がつづられている。

二階部分の小さな部屋がその会場で司馬さんの色紙が飾ってあった。

係の人と話などするうちにスコールが来た。

 

できれば種子島の鉄で鍛えたハサミなど土産にしようと思ったがよいものに出会えず、安納芋のお菓子をあれこれ買い込んで港へ。

 

今日は種子島から指宿港に行く。

船は「ロケット」という船名。

出港時は雨が止んでいたものの薩摩半島がみえてくるころには結構な雨。

指宿港に入港前には晴れ間が出て虹が出た。

 

 

思えば種子島とは鉄砲伝来の地であると共に現代のロケット発射の島でもある。

いずれも何やら「ぶっ放す」代物でその辺、コラムのオチにしようと思ったりした。


種子島行 #4 鉄砲伝来 −門倉岬−

2016年10月15日 | 取材・旅行記

鉄砲伝来は天文年間(1543)のこと、種子島は門倉岬に漂着したポルトガル人から領主種子島時尭にもたらされたというのが定説。

疑ってしまうとキリがないが、この説には異論続出。

「普及が早すぎる」「それ以前から南蛮貿易で入ってきた」等々。

鉄砲の実戦投入は富裕な戦国大名が細々と開始。

石山合戦(1570)あたりが集中運用の草創期とすると30年足らずで大量生産、流通できていたことになる。

平成28年を起点に考えれば平成元年あたりの伝来ということになる。

同じような時間軸で考えるとPCやインターネット、携帯電話などが考えられよう。

そう考えると爆発的普及、コモディティ化の時間軸は鉄砲も「ありえる」かなあと思ったりもする。

 

ともあれ戦国大名が鉄砲を「種子島」と呼んでいたことは確かであり、種子島ブランドが鉄砲の代名詞ではあった。

真実はどうせわかろうはずもないので、読み解く人の勝手でいい。

 

 

一帯は公園として整備されており紀功碑や銅像、展望台などがある。

 

門倉岬は想像していたように断崖絶壁である。

雨交じりの潮風が強く渺々たる海原と相まって凄絶な風景。

この一瞬を実感するために今回の旅があるようなものであり、大きな達成感があった。

南蛮船が漂着したという浜は岬から東の砂浜だといい、岬からは見おろす形になる。

漂着の知らせを受けた番人は役人を呼びに走り、西村某がポルトガル人明人と筆談したという浜がきれいにみえる。

その後の物語は種子島家がまとめた「鉄炮記」に詳しい。

 

公園から少し行くと伝来の浜に降りられる階段があったので行ってみた。

種子島家の末裔の揮毫による記念碑があった。

手抜きのない、いい仕事である。

他は何もない砂浜でしかないが伝説の地というのは立っているだけで妄想がわらわらと湧いてくるものである。

この妄想を連載に使おうと思う。

 

 

さて、門倉岬を堪能して時刻は13:00。

次は種子島宇宙センターに行ってみる。

10kmほどの距離なのですぐに到着。

間抜けなことにツアーの申込みを忘れており参加できず。

発射場は少し北にある。

併設の資料館に寄って終了。

 

次に東海岸にある広田遺跡を訪ねる。

弥生時代後期の遺跡で付属するミュージアムが何とも心地よかった。

 

 

これで今日の予定は終了。

レンタカーを返して宿に歩いて行く。

宿は割烹ホテルいのもと併設のビジネスホテル。

夕食は近所にぶらぶらと出かけ、適当にすませた。

 

 

 

 

 


種子島行 #3 薩摩の船旅

2016年10月15日 | 取材・旅行記

二日目はいよいよ種子島に渡る。

早起きして港まで歩いて行く。

天気は今日もよくはないが桜島が目の前にどーんと構えている。

 

船は高速船、「トッピー2」。

トッピーとはトビウオの意でこの船の性能を表している。

動力源としてジェットエンジンを使い、海水を放出して動く。

海中には水中翼があり揚力を生み出し船体を浮かせる。

このため、外から見ると船は船底まで空中にあり空を飛んでいるように見えるのである。

全長27.4m、163トン、最高速度は時速45kmという。

 

鹿児島港を出港した船は薩摩大隅両半島の間をゆるゆると行く。

幕末の頃、薩摩藩が要所に砲台を築き攘夷に備えた。

実際にイギリス艦隊が侵入、錦江湾で大砲撃戦を展開するのであるが、こうして現場検証してみるとなかなか勇気の要る航路といえる。

 

 

右手に開聞岳がみえてくるといよいよ外洋に出て行くことになる。

波が荒く船は盛大に揺れ、船酔いを通り越して怖いほど。

揺れるままに屋久島に停船。

半分ほど乗客が降りる。

外国人も散見され、トレッカーの装備をしている人が多い。

 

再び発進、馬毛島を左にみて港に向かっていく。

種子島は起伏が乏しく平たい。

南海の島として珍しく耕作に適していて米が豊富に取れ、二期作が可能。

おかげで米に困った薩摩藩に可愛がられた。

薩摩はもう少し南の奄美群島を琉球から取り上げ、相当にあくどいことをやったが、種子島までは同朋意識があったのではなかろうか。

 

無事に西之表に停船、上陸。

港内でレンタカーを借りて門倉岬に出発。

クルマはHONDAのフィット、小型車だがなかなか居住性がよく走行も快適。

種子島はひまわりの種のような形をしており、中程までは西の海岸線を行く。

天気が悪いのが残念であるが、交通量もごく少なくほぼひとり旅。

 

途中、坂井神社に寄り、日本一という大ソテツを見物。

 

 

次に近くにある国の重文「古市家住宅」を見学。

種子島最古の住居である。

切妻の平屋で本土のそれとさほど変わらない。

弘化3年(1846)の築というから幕末の動乱前夜の頃である。

 

 

 

古市という姓は大阪に多く、この古市家は戦国時代に種子島家の招きで来島したとある。

鉄砲伝来程ない頃で、いろいろ妄想が膨らむ。

 

ちょうど雨が降ってきたので雨宿りがてら茫々としていたら、庭掃除を終えた方がやってきた。

屋敷の維持をやっている近在の方で、しばし世間話などした。

旅の途中、こうした何気ないほのぼのとした時間は何とも心安らぐ思いである。

 

さらに南下、丘の上を走って行くと島の南端に向かってゆるやかに道が下っていき、その先に海が見えた。

なかなかドラマティックな景観といえよう。

坂を降りるとそこが門倉岬。

鉄砲伝来の地である。


種子島行 #5 南州翁墓地

2016年10月14日 | 街道・史跡

しばし南下、錦江湾に出ると桜島が浮かんでいる。

この道はかつて鹿児島から宮崎へ行った際に逆方向を通ったことがある。

 

道路が空いていて順調に南州墓地に到着。

 

桜島を借景にして眠るというのは薩摩人の魂の帰るところとして至高のものだろう。

 

墓と南州神社に御参りし、閉館間際の顕彰館に寄った。

黒猫が番をしていた。

 

ここで本日の予定は終了。

レンタカーを返して川沿いに歩いてホテルへ向かう。

加治屋町を通って西郷隆盛誕生地など散策。

 

今日の宿、サンフレックス鹿児島に荷物を置いて夕食。

明日は朝イチの船便で種子島に向かう。

 

 

 


種子島行 #3 大隅国一ノ宮・鹿児島神宮

2016年10月14日 | 諸国一ノ宮

シラスの間をさらに南下。

鹿児島神宮に参詣。大隅一宮である。

主祭神が天津日高彦火火出見尊(ホオリ、山幸彦)、豊玉火売命(トヨタマヒメ)。

記紀神話の海幸山幸の話は興味深く、山の神が海の神の持ち物を得たところは日本人が狩猟採集から農耕へと拠り所を変えたきっかけであると思っている。

 

 


種子島行 #2 熊襲穴

2016年10月14日 | 街道・史跡

鹿児島神宮まで行く途中で道の駅霧島に寄ったらここからも絶景。

天気がよくないのが残念。

お土産を少し買って県道470号を行く。

 

 

山が深い道をしばらく行くと「熊襲穴」なる看板が出現。

ヤマトタケルがクマソタケルを陥れた現場という。
内部は立っているのがやっとでせまく、現代アート風のペイントが付されている。

 

何やら微笑ましい史跡といえよう。

 


種子島行 #1 霧島神宮あたり

2016年10月14日 | 仏閣・仏像・神社

JALのマイレージ消化も今回が最後。

結局、鹿児島空港まで行き、種子島を訪ねることにした。

鹿児島は以前、E39で自走で行ったことがあるがとにかく忙しい旅立ったので少しゆっくりしたい。

 

搭乗便はJL0643、8:05発、9:50着。

スムーズに着陸。

鹿児島空港は桜島の真北、鹿児島市内からは少し遠い。

空港近くのレンタカー(ダイハツの軽)を借りて出発。

まずは霧島神宮に参詣。

空港から東北方向にある。

道はシラスを切り裂いたような面もちで「薩摩に来たなあ」と早くも感慨が深い。

 

霧島は天孫降臨の地であって今後コラムで取り上げようと思っている。

神宮は今風の社殿で神話の世界の雰囲気は薄い。

 

 

しかしながらここからながめる錦江湾には桜島がどーんと構え、遥かに開聞岳までみえている。

高天原からやって来た神様はこんな風景をみていたのであろうか。

参詣をすませて御朱印をもらい、次へ出発。

 

 


武田の残光 −新府城−

2016年10月06日 | 城・城址・古戦場

「真田丸」「風林火山」をみていると甲斐信濃に行ってみたくなるもので今日は天気もいいのでE88で新府城へ。

武田勝頼が甲府から本城を移そうとするも工事中に織田軍侵攻で戦わずして放棄。

哀しみの城である。

 

甲州街道を往来していると韮崎のあたり釜無川沿い北側に巨大な岩肌がみえる。

これは七里岩というらしく常々、その威容に圧倒されていた。

見るからに天然の要害である。

甲州街道から入っていくと少し丘を登っていくことになる。

大手口は城の東側にあり階段状に曲輪が並んでいた。

 

縄張と普請は真田昌幸によるものといわれ、「真田丸」でもその説をとっていた。

結構な階段を登って本丸に行く。

 

南を七里岩の断崖が守っているのでノーマークでよく、北と西を水堀、大手の東側は武田伝統の丸馬出があった。

 

武田敗走の後、廃城となっているため遺構はそのままかもしれないが、樹木草木が盛大に茂り様相がよくわからない。

本丸は削平された広場で神社の他、武田勇士の慰霊碑が立つ。

そこからは八ヶ岳がきれいに見えている。

 

武田が天下を取れなかった要因はいくつか考えられ、そのひとつが本拠甲斐が山国でかつ京から遠いことがあげられる。

信玄は信濃に続き、駿河を得た。

このいずれかに本城を移せば京への距離は少しは縮まる。

しかし躑躅ヶ崎を出るということは上杉北条から離れることとなり、絶頂期を迎えつつあった勝頼期にそれは現実的ではなかっただろう。

選択肢はなく、甲斐の詰めの城として堅固な要塞を築いておくという発想はまあ仕方がない。

 

木曽が寝返り、穴山梅雪が家族を甲斐から引き上げて徳川についたとき勝頼の掌握する兵は日に日に減っていった。

城を守るには新府城は大きすぎたといえ、小ぶりな山城への待避を勝頼は考え、真田の岩櫃城、小山田の岩殿城の選択に迷い、袋小路へ勝頼達は入ってしまった。

 

哀愁の荒城を後にしてしばしドライブ。

信玄が整備した「棒道」を想像しつつ、諏訪に行き塩尻峠に達した。

 

ついでに松本まで行って、気になる中古車、BMWのE34−535iを見物。

思ったほど程度がよくなく見送り。