扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

中国出張記録 #8 北京から帰国

2004年05月25日 | 海外出張記

中国出張の最後に訪れた北京。

10日を越えて海外に滞在するのは初めてのことで少々、最後は随分気が重かった。

食事のことは全く問題がなかったのだが、ネコと遊んだりする時間がないのが意外につらい。

仕事が終わると全くひとりぼっち。

いつもはネコがよってきて「腹減った」だの「退屈だからかまえ」とうるさい。

これがないと熟睡できる代わりに孤独感が高まる。

自分以外の生き物が作る「波動」は人生のテンポ作りに重要なのだと痛感。

 

最終日は北京で仕事の総括をしてツアー終了。

どうやらネコに忘れられた様子はなく安心。

 

 


中国出張記録 #7 北京へ移動

2004年05月21日 | 海外出張記

西安から北京に入った。

北京国際空港は市街の北東、約30kmに位置する。

ホテルまではタクシーで少々くたびれた車で高速道路をぶっ飛んでいくと30分。

 

北京は10年ほど前、かつて会社の旅行で訪れたことがあるがほとんど記憶がない。

飯がまずかったこと、土産物というかモノを選んで買う場所がなかったこと、街全体が埃っぽく暗かったことなどがかすかに覚えている北京の印象である。

後、紙幣が違う。10年前は外国人用の人民元があったはずだ。

 

久しぶりの北京は噂に違わずめざましい発展ぶりでそれは広州でも上海でも同じであるが、北京は高層ビルが目立つ。

そして幹線道が異常に広い。片側4〜5車線はざらである。

北京は上海と違って碁盤の目に道路が敷かれている。

 

中国のGDPはものすごい勢いで我が国を追い抜かんとしている。

 

 


中国出張記録 #6 西安、兵馬俑見物

2004年05月21日 | 海外出張記

西安2日目は仕事の合間ができたので、兵馬俑に行けた。
現地に精通した中国人同行でなければどれだけ不安なことであろう。

兵馬俑は、発掘がいまだ営々と進んでおり、公開されている区間は体育館のような状態で保存されている。
発掘済の兵士や馬、馬車などが別室に展示されており、壮観。

始皇帝陵が築造されたのは紀元前のこと、その頃我が国は狩猟生活から農耕をやり出した頃で彼我の差に呆然となる。

ミュージアムショップに兵馬俑発見のきっかけとなった農夫のじいさんが座っていて図鑑にサインをしていた。

 



昼飯はあちらではふつうのおかずというサソリの唐揚、ラクダ肉。

美味しくはない。
 

 

 


中国出張記録 #5 西安(かつての長安)へ

2004年05月20日 | 海外出張記

上海から西安に入った。

航空便について少々、トラブルがあった。

オーバーブッキングでエコノミークラスの座席が不足、我々の一部がビジネスクラスに回された。

中国の航空会社のこと、ビジネスクラスといっても座席が少々広いくらいのことであった。

西安というと歴史好きにとって妄想が膨らむ。

今日の西安とは昔の長安である。

これが仕事でなくプライベートであればどれほど楽しいかと思うが、集団行動なので長安城や空海の足跡などたどれる訳もない。

上海から西安まで所要時間は2時間程度、上空から見ると中国の国土は流石に雄大である。

空港に向けて高度を下げていくとものすごい断崖を越えて行った。

西安は西周の都となって以来、秦や漢、隋や唐の都となって3千年の歴史を持つ。

西側はすぐ砂漠地帯、海岸線は遥か遠く、北京や南京などとも遠い。

首都防衛にはもってこいの地形だろうが地方に赴任する役人はよほどの覚悟がいるだろう。


西安の宿は全日空ホテル、場所は日本の城風にいえば、本丸の大手門外といったところであろう。

ホテルから長安城の城壁が間近にみえる。

夕食は中国人スタッフと近所の料理店にタクシーで出かけた。
かの国では交通ルールなどなきに等しいようで、右側通行はかろうじて守られているものの信号も信じてはいけないらしい。
片道3車線ほどの大きな道路でも現地の人は平気で歩いて渡っている。
 ここでもクルマはクラクションを盛大に鳴らす。

中国人に聞くと日本と中国のクルマ事情の違いはクルマの偉さ。

中国ではクルマの方が優先で横断歩道が青信号であってもクルマが来ないか要確認という。

歩行者優先などあり得ないらしい。

その割に何車線あっても中国人は歩いて渡る。

そのタイミングは平和ボケした日本人には信じ難いもので中国人に置いて行かれ何度も渡り損ねた。

 

西安には1泊しかしない。

 


中国出張記録 #4 上海事情

2004年05月20日 | 海外出張記

上海には3泊した。

概ね、仕事三昧であったのだが、一夜、皆で高級レストランに行き食事をした。

上海はおそらく中国一猥雑な街なのであろう。
人口の密集度が高いこともあるが街の発展が急すぎて街の整理が追いついていない。
京都は1000年かけて京都人が磨いた街だし、東京でも400年の歴史はあるから人口的なモノを造ってもなんとか様になる。

ところが上海の街作りは旧市街の方でも100年そこそこ、河の東側は10年の歴史しかない。
とりあえず空いているところにどんどんモノを入れていく、そういう作り方なのではないか。
クルマの渋滞はどこでも激しい。クラクションは鳴らしづめであるから鳴らしている意味がない。
運ちゃんの気合維持にしか役立っていない。

レストランは河を渡り、「和平飯店」の最上階にあった。
和平飯店は1929年の開業ということである。日本では昭和4年。
前年に張作霖が爆殺され、満州事変への序曲となった時期に重なる。

ホテルの内部は当時の面影を遺したものか浦東の近未来的な建造物と比較すれば相当にクラシックである。
レストランでは中華の創作料理のフルコースである。
バルコニーが開放されており屋上から外灘の夜景をみることができる。

私は夜景をみるのがこの上なく好きなのだが、香港の夜景に似てはいるもののどこかゆるい上海の夜景もいいと思った。
和平飯店の1Fのバーはジャズで有名、一杯飲んでホテルに戻った。

仕事以外の上海はほぼこの贅沢なディナーだけであった。

また上海に来ることになろう。




中国出張記録 #3 上海に到着

2004年05月17日 | 海外出張記

上海に着いた。

広州の位置は香港の北である。日本から飛行機で行けば台湾を超えていくことにはなるが、台湾南の都市、高雄と緯度が近い。
上海は広州の北東1400km、距離的には東京ー鹿児島間といったところか。
また上海の同緯度も鹿児島あたりになる。
季節は春であり、季節感は九州といえなくもなさそうだ。

浦東国際空港は1999年に開業した新しい空港である。
中国経済の有利なところは空港なりビル建設なりあらゆる産業分野について、先進国が汗水垂らして技術開発し、問題点を洗い出したところで導入できるということである。
後出しじゃんけんは無敵なのだ。

空港から市街へのアクセスはタクシー。
広州のタクシーよりは格段にマシなクルマはVWのジェッタである。
4人詰まって6車線はある高速道路を飛ばしていく。
中国のタクシーは安い。
距離としては30~40キロはあるはずだから成田から都心に行くのと変わらない筈なのだがふつうは百数十元だという。
1元は今回15円程度であるから2000円ほどか。
成田からなら1万円以上は覚悟せねばならない。

上海の国際空港は浦東地区にある。
そして上海という都市は揚子江の河口部にある。
揚子江が海に出るほんのわずか手前に黄浦江という河がある。
この黄浦江が南から北へと上海を分断するのである。
河の西が旧市街、19世紀に上海が開港されて以来の街であり、河の東が新開発区域である。
浦東からは河を渡らねば上海市街にゆけないことになる。
今日からの泊まりは紫金山大酒店、このホテルは浦東の方にある。
1階にコンビニが入っている。

明日からまたホテルとオフィスの往復である。



中国出張記録 #2 広州から上海へ

2004年05月17日 | 海外出張記

13日に広州入りし4泊した。

この出張は簡単にいうと中国の消費者に消費行動についてインタビューするということなのであるが多くのステージは夜に行う。
朝食をホテルでとり、クルーが集合、タクシー1メーターのオフィスビルに行き、夜まで缶詰になって仕事をし、22時頃ホテルに帰ってくる。

毎日この繰り返しである。
よって中国は広州にいるといってもおのれの足で踏む広州の地面はホテルとオフィスビルの周辺しかないのが残念。

食事は時間がないのでほぼファストフードである。
マクドナルドにケンタッキーにサブウェイなどなど。
珍しいものでもないが、日本で食べるのとは微妙に味は違いむしろうまい。
ホテルの向かいにスターバックスがある。

日本でマクドナルドのシステムを輸入したのは1971年のことである。
中国の一号店はシンセンで1990年のことらしい。
経済発展のスピードはこんなところにも現れるのであろう。

夕方には大体、スコールが来る。
街路樹を見ても南方系のものが多く、湿度が高い亜熱帯の街である。

広州はこんな様子だったが他の都市はどうであろう。


今日はこれから上海に飛ぶ。
広州の白雲空港は国際空港とは信じ難い程古いのだが、聞いた話では新空港が郊外に建設中で8月には全て移転するらしい。

されば空港ロビーのそこかしこで盛大にタバコを吸うような景色はなくなるのかもしれない。

 


中国出張記録 #1 久しぶりの中国、広州へ

2004年05月13日 | 海外出張記

調査の仕事で中国へ行く。

クルーで動くため自由ではない。
ただ、中国人とはどういう人々かということを知るためによい機会である。

私にとって「中国」とは歴史の中の事物でしかなかった。
映像化されていないのである。

テレビで急膨張する中国経済の特集がある。
また世界遺産など観光という視点での紹介もみることは多い。
ただ、空気の匂いであったり土地のぬくもりといったものを含めた体験でなければ得られない情報はある。
いくらテレビで映像をみたところで他人のカメラであって自分の目でみたものではない。

もっとも1991年頃、一度北京にいったことはある。
社員旅行として北京のホテルに2泊して万里の長城に行った。
12月のことだったと思うがひどく寒かったことが思い出の最たるもので「噂通り自転車が多い町だ」ということと「人民が同じ服を着ていてどの顔も同じにみえる」といった印象がうっすらとあるのみである。
つまり私にとって生の中国というものはその程度でしかない。

日程は12日間である。これほどの長旅は経験がない。
ストレスに耐えられるかということが心配ではあるが何せ仕事なのであるからどうしようもない。

JALの0603便でひとり成田空港を発し、着いたのは広州である。
ひどく古くさい空港を出るとそこは南国であった。
湿度が高く気温も30度は軽くあろう。
南国の果物を露店で売っている。

タクシー乗り場に行き、渡されたホテルの住所を示す。
タクシーはまあ20年落ちといってもいいほどのシトロエンで日本の感覚では怖い。
それで高速道路をぶっ飛ばすのである。

広州は古代には「越」の国である。もっとも越の中心はずっと北にあり呉越同舟の話は広州あたりの話ではない。

中国の古代王朝では越を中華の一部とはみなかった。
中華以外の民族を皇帝は「東夷」「西戎」「北狄」「南蛮」と呼んだ。
越のはずれ、ベトナムが目と花の先の広州あたりは中華と南蛮の緩衝地帯であり人々が交わりあう地であったといえるだろう。

わざわざ広州にまで調査に私をよこすのはこの町が中国第三の経済都市であるからである。
広州市は日中人口は1000万を超すほどの大都市になった。
広州という土地の名は日本人にはさほどなじみのある言葉ではない。「食は広州にあり」というのがまあ知名度が高いのではないか。
むしろ「広東」といった方が私にも身近である。

広東という言葉から連想するものはアヘン戦争である。
英国とアヘン貿易の禁止と巡ってどんぱちやったのが広州である。
そして広州と共に香港や上海が開港させられそれらの町は洋化されていき現在の繁栄に至る。


古い話はさておき現代中国の経済発展は広東省から始まったといっていえる。

改革開放の実験にまず広州の南、香港の北の玄関口シンセンを特区として世界に解放してみた。
この人口都市の監視と物資供給を行ったのが広州人だったのであろう。
よって南蛮の国、広州は早くから栄え、「西洋慣れ」していったのである。

私にとってそんなことは耳学問であったのであり実際に街を目にしていても実感がわかないことこの上ない。
街が古くさく行く人も暑いのであろうか、お洒落ではない。
そもそも日本では当たり前のサラリーマン風、OL風の人は全くいない。

ホテルは花園酒店という五ッ星のホテルである。
敷地も建物も大きい。
日本のホテルでここまでゆったりかつ巨大なものは少ない。

先発していたクルーと合流し打合せなどしてから海鮮料理の夕飯に行った。

明日から本格的に仕事をする。