扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

大和散策 #11 西岡常一さんの塔、法輪寺

2010年11月20日 | 仏閣・仏像・神社

法起寺から法輪寺へは信号1つ。
三重塔の相輪が近づいてくる。

法輪寺の創建には諸説あり厩戸王と関連のないものもあるが7世紀のことであることは間違いないらしい。

ほぼ塔だけが残った法起寺と同様に法輪寺も塔のみが古い。
法輪寺では火災に加え、正保2年(1645)の台風で諸宇が倒壊し三層目が飛ばされたという。
一見、塔が最も天災に弱そうに思えてしまうのだが奈良の塔はしぶとい。
ただ、残った塔は昭和19年に落雷で消失してしまった。
惜しいことである。

失われた塔を再建したのが法隆寺の宮大工、西岡常一氏。
私はこの人が好きである。
仕事に対する取組や建築に対する思想は生前のインタビューや著書で知ることができる。
木を愛した人といえる。
室町期に鋸や鉋といった建築道具が改良されるまで宮大工の仕事は旧態依然としていた。
例を挙げると柱など長い用材を造る時、鋸でひくのではなく木目に沿って割り、断面を槍鉋で削っていた。
西岡さんは改良されすぎた道具を古のそれに復興し道具を自作して古建築の再興に挑んだのである。

西岡さんは昭和17年、法隆寺の初解体修理に携わる。西岡さん30代である。
薬師寺の金堂、西塔などの復興に携わった後、法輪寺の三重塔を再建した。

私は薬師寺の西塔が好きで日本一の塔だと思っている。
国宝の東塔を模したものであるし再建だからと東塔ばかりがもてはやされるのだが、比べてみれば分かるように西塔は最上部の屋根など傘のはりが強く軒の反りも強い。力強いのである。
1300年経った東塔は部材がくたびれて下がっている。
白鳳の昔の両塔は溌剌としていたのに違いないと、あえて変えた。
西岡さんのこういうところが私は好きなのである。

法輪寺の三重塔は昭和50年に再建された。西岡さん67才。
三重塔は法起寺のそれと似ており、雲形肘木も卍崩しの高欄も再現されている。
四隅の太い柱には飛鳥建築の粋、エンタシスが入っている。
薬師寺の金堂を再建した時、国宝の薬師三尊を収めることからコンクリートを使うよう文化庁に要求されてケンカした。
法輪寺の三重塔でも御上と衝突し、部材をボルトで固定せよといわれ、偽ボルトをつけているらしい。
ボルトは埋めてあるそうだから外から勿論見えはしないが想像するとおかしい。

法輪寺は南門から入って左に塔、右に金堂、奥に講堂と法隆寺と同じ伽藍配置である。
講堂は伝えられた仏像の収蔵庫になっておりなかなかに充実しており見応えがある。
本尊は木造の薬師如来止利仏師の作といわれ、法隆寺の釈迦三尊と顔も全体の造型も似ている。
あちらは金銅仏であるし顔はやや貧相にみえてしまうところが微妙。
虚空蔵菩薩立像(飛鳥時代)、十一面観音(平安中期)、地蔵菩薩(平安中期)がある。
弥勒菩薩立像も同じく木造であるが姿は思惟ではなく、秋篠寺の伎芸天のような形をしているのが珍しい。

珍しいというところではここの毘沙門天は米俵に乗っている。下半身以下は後補であるらしく寺側では七福神信仰の影響と考えている。
また妙見菩薩立像がある。
法輪寺には妙見堂がありその本尊の御前立であり江戸時代の作。
妙見菩薩とは北辰妙見菩薩ともいう。
北辰は北極星のことであり真北にあって動かぬ星を神格化したものである。
北極星信仰はインド渡来ではなく道教にある北辰信仰が遣唐使によってもたらされたものが陰陽道経由で仏教に習合していったものと思われる。
法輪寺の秘仏本尊妙見菩薩は11世紀頃の作といわれるが現存日本最古であるらしい。
他の社寺ではなかなかお目にかかれない仏像ではある。

講堂の仏像群を仔細にみるうち大分時間が立った。
再度西岡さんの三重塔をながめ、帰ることにした。

法隆寺に行くと「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」という子規の句が浮かんでくる。
今回、斑鳩の二塔をみてこちらも「柿食えば」の光景が似合うのではと思ったりした。
 

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南門

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西岡棟梁の三重塔

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飛鳥様式を再現

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妙見堂

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鬼瓦




大和散策 #10 斑鳩の塔、法起寺

2010年11月20日 | 仏閣・仏像・神社

西大寺から斑鳩へ向かう。
紅葉の頃なので夕方の渋滞を心配している。

斑鳩へ行くのは法隆寺に行くためではなく、法起寺・法輪寺の三重塔をながめに行くのである。
西大寺からは南に10数km。

県道を南下していくと右手に唐招提寺、薬師寺があり、東西の両塔が頭をのぞかせている。
奈良のいいところはこういうところであろう。
京都の都心は建築の高層化が進み社寺も無粋な鉄筋造りのビルに隠されている。

大和郡山城の脇を過ぎていく。
興福寺といった仏教勢力が中世に衰退すると大和の主は松永久秀、筒井順慶、羽柴秀長と戦国期を過ごし、江戸時代は甲府から柳沢家が移ってきた。
京都は戦国も幕末も大事件がよくあったのに対し、奈良では何も起こらなかった。
忘れられた古都なのである。

北から斑鳩に入るとまず畑の中に浮かぶ法起寺の三重塔が見えてくる。
日本最古の三重塔であって世界遺産である。
その割に寺としては実に小さく、江戸期に復興された講堂や聖天堂などの建物を含めても畑数枚に納まっている。
元々は厩戸王聖徳太子が法華経を講じた岡本宮を推古14年(606)に寺にしたという。
国宝三重塔は慶雲3年(706)に露盤を上げたとされる。
露盤というのは塔の頂上に頂く相輪の基部のことである。
墓石の代わりといってよい。
厩戸王もその子山背大兄王も不幸の死を遂げた。
三重塔は彼等への鎮魂の塔であろう。

講堂脇の収蔵庫には重文の十一面観音が安置してある。
これを観てしまうともう塔を眺めるしかない。
この三重塔も法隆寺五重塔も1300年建っている。

中国は唐朝、中東ではイスラム帝国が興りローマ帝国と衝突を始めている。
USAはおろか大英帝国すら影も形もない。
どえらいことだとただ思う。

法起寺三重塔は同時期建立の法隆寺の五重塔と似ている。
雲形肘木や卍崩しの高欄といった様式もそうだが姿が似ている。
各層を少し寸詰まりにして2層重ねるとそのまま法隆寺に置いてもおかしくない。

江戸時代、法起寺は三重塔のみがぽつねんと残っていたという。
法起寺は法隆寺の裏手、北東に位置しその真西に法輪寺がありここにも三重塔がある。
法隆寺五重塔を含めこの3つを斑鳩の三塔という。

一帯は塔を遮る高層建築もなく法起寺の塔は外からまるごとみることができ、他の二塔も初層と相輪はみえている。
1300年前と同じ光景であろう。
 
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法起寺西門

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三重塔

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軒瓦




大和散策 #9 孝謙帝と西大寺のこと

2010年11月20日 | 仏閣・仏像・神社

秋篠寺から西大寺に向かう。

南へおよそ2kmと近い。
この2寺は奈良時代には寺勢を争ったという。
今では両者の間を近鉄が無粋なことに分断し、そのまま平城宮跡をも横切っていく。

西大寺は女帝の寺といっていいだろう。
孝謙帝によって天平宝字9年(765)発願、翌年四王堂が成り西大寺はその後10年以上をかけ、堂宇100という巨大伽藍となった。

孝謙帝という女帝ほど波瀾万丈の人生を送った人も珍しい。
特にその人生は「感情的」であるとしかいいようがないのである。

父は聖武帝、母は初めて皇族以外から皇后になった光明子である。
この父母は仏教に傾倒し天平文化を演出した。
国分寺・国分尼寺を全国に築き、本山東大寺に金色の毘盧遮那仏をおさめるという土木事業を興す一方、鑑真和上から受戒を受けた。この時、孝謙帝も受戒している。
いわば筋金入りの仏教徒の華族といえる。

孝謙帝は弓削道鏡とのスキャンダルで名高い。ただ、孝謙帝は自ら国政(正確には担い手の選定か)の先頭にあり続けたことの方がおもしろい。
キャリアウーマンなのである。
孝謙帝の事を書くのは西大寺がふさわしいと思うので年表に整理してみる。

養老2年(718)
 誕生、男系の曾祖父が天武天皇
天平10年(738)
 皇太子となる、女子の立太子は史上初
天平13年(741)
 聖武天皇、国分寺・国分尼寺建立の詔
天平15年(743)
 聖武天皇、盧舎那仏造顕の詔
天平21年・天平感宝元年・天平勝宝元年(749)
 陸奥国から金献上
 聖武天皇から譲位され、孝謙天皇となる
天平勝宝6年(754)
 鑑真平城京に来訪、聖武上皇、光明皇太后と共に東大寺に行幸、鑑真から菩薩戒を受ける
天平勝宝8年(756)
 聖武上皇崩御、孝謙天皇として即位

 藤原仲麻呂を太政大臣に恵美押勝の名を与える
天平宝字2年(758)
 退位し淳仁天皇に譲位、孝謙上皇に
天平宝字4年(760)
 光明皇太后崩御、病に倒れ道鏡の祈祷で快癒
天平宝字8年(764)
 藤原仲麻呂の乱、重祚し称徳天皇として即位
 西大寺を発願、後に道鏡を太政大臣、吉備真備を右大臣に
天平宝字9年(765)
 西大寺四王堂落成
神護景雲3年(769)
 宇佐八幡の神託を巡る混乱、和家清麻呂を別部穢麻呂と改名させた上で流刑
神護景雲3年(770)
 崩御、皇統は天智系に移る


仏教に傾倒した父母の英才教育と遷都に熱中した父の影響で近畿を転々と旅し、20才そこそこにして皇位を約束される。
皇位を約束されるということは、恋愛・結婚・出産をあきらめるということでもある。
日本という国家が中央集権を試し、律令が整備され、奈良という都市が建造されていく時期に孝謙帝は生きた。
ただし、孝謙女帝は激しく動いた。
特に皇位を継いでからの24年は激情の人生であったといえる。

孝謙帝が四天王を発願したのは藤原仲麻呂が追い込まれ兵を挙げた時そのものであった。
つまり西大寺建立の引き金は政敵調伏なのである。
四天王の法力かどうか仲麻呂の乱はすぐ治まった。
では国は治まったかといえばむしろ混乱した。
渦中の人は道鏡である。
孝謙帝が望んだか、道鏡にそそのかされたか。
歴史は常に勝者によって後で造られる。

西大寺は孝謙帝が望んだ寺であることは間違いないが帝の望みどおりには繁栄しなかった。
国家財政難にあって伽藍整備をよくやったといえようが長続きはしなかった。
孝謙上皇改め称徳天皇が崩御するや寺勢は傾くのである。
道鏡が流され、やがて天智系の桓武帝が起つや都を山城に移してしまう。
南都仏教を疎んじてのことである。

西大寺のことはおそらく「道鏡の寺ではないか」「あの女帝の道楽よ」とされたのであろう。
当初計画された八角七重塔は造営中に女帝が崩御し、五重塔に変更されたらしい。
東大寺の大仏が幾度の苦難を乗り越え、今日まで継ぎ足してでも残ったことと好対照である。

父母の寺、東大寺は国家鎮護のために発願され、華厳教学の根本として滅びることはなかった。
創建のイデオロギーの差であるかもしれない。
あるいは国家権力への擦り寄り方か。
東大寺は新仏教の空海を別当にして改革し、真言宗をも飲み込んだ。
重源しかり、明恵しかり、高僧を出した。

以上のようなことは脳内の妄想であって境内に入ってみても天平の薫りは全くしない。
西大寺では鎌倉中期、叡尊が復興に尽力した。
しかしその伽藍は火災により失われ江戸時代に再建されたものを今、ながめているわけである。
青空が広く静かである。

まず、四王院に行く。
縁起からみて最も重要な堂宇と仏像である。
ただ、叡尊の復興で西大寺の本尊は釈迦如来となり、密教の寺となってしまったため隅に追いやられている感がある。
件の四天王像は邪鬼のみが当初のものとして残りそれを踏む四天王は後の補作である。
踏まれる邪鬼に藤原仲麻呂をイメージしてみる。

聚宝館は今日は休み、その先に本堂がある。
中は灯籠に灯りがともり幻想的かつ広々とした雰囲気の中、叡尊が造らせた本尊釈迦如来立像が厨子の中にいる。
嵯峨清涼寺様式の作風である。
中国より渡来した釈迦如来像を模刻したもので各地に同様のものがある。
清涼寺のものもそうであるが、この像の顔は俳優中井貴一氏に似ていて私の中ではほとんど中井様式となっている。
隣に文殊菩薩騎獅像があり、周囲に四侍者像がある。
文殊が従者を従えて海を渡っていく姿であって造りなど細かく印象に残る。

本堂の手前には東塔跡があり礎石が残っている。
基壇は八角塔を建てる計画のためか八角形をしている。
孝謙帝を偲ぶのはあるいはこれだけなのかもしれない。

愛染堂は宝暦12年(1762)、京都から公家屋敷を移築してきたもので愛染明王を祀る。
秘仏であって先週までは特別公開されていたのだが今日は御前立を拝む。
元寇の際、叡尊は元軍重複の祈祷を朝廷と共に各所で行っている。
西大寺の愛染明王はその際、手に持つ鏑矢を飛ばし元軍を追い払ったと言い伝えられる。
愛染堂の隅には大茶盛に用いる大茶碗が置いてあった。

西大寺という寺は観光客もまばらで東大寺と比べるまでもない。
私とて仏像でも見に来るかという動機でしか再訪はないかもしれない。
侘びしいというよりも空しいといった方がいい寺なのであろう。
 
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境内図

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四王院、十一面観音と四天王像を収める

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本堂、本尊釈迦如来、文殊菩薩像を収める




大和散策 #8 秘仏大元帥明王像、秋篠寺

2010年11月20日 | 仏閣・仏像・神社

秋篠寺へ向かう。

秋篠寺には3年前に一度来た。
この寺もまた古い。
宝亀7年(776)、光仁天皇の勅願により建立された。ただ以前にも私寺があったという。
本尊は薬師如来である。
奈良時代、最後の官寺であった秋篠寺は東西両塔を有する七堂伽藍を備えた大寺であった。
火災に遭いそれらは失われて、いまはない。
国宝の講堂は鎌倉時代の再建になる。

秋篠寺は一時、真言宗であった時代がある。
空海の弟子で唐に渡った小栗栖常暁は彼の地で太元御修法を学び、請来した。
この修法の本尊が八大明王の一尊、大元帥明王(たいげんみょうおう)である。
明王中の王という大元帥明王はひときわ外敵降伏の呪力強く、おいそれとは行われない最高機密となった。
平将門・藤原純友の乱をはじめ、朝廷が危機に陥るときこの修法が行われ実効はともかく朝廷を救った。
元寇の際にも行われている。
東寺で修法を行う際、秋篠寺の閼伽水の井戸を用いたとされる。

秘法中の秘法で朝廷により封じられた大元帥明王の尊像は数が少ない。

真言密教の寺以外にはない道理で東寺や醍醐寺、高野山に像や曼荼羅があるらしいが観た記憶がない。

今日は何といっても秘仏大元帥明王像を観に来たのである。

東門から行くと長塀に沿って南に折れ、ついで西に向かい林の中を行く。
この林の地面は分厚い苔に覆われる。
朝日が差し込み実に美しい。
唐招提寺にも同じような苔の林があるが奈良の苔は京とは大分違う。
京の苔が人の手で入念に手入れされている人工美のものとすれば奈良の苔は野趣溢れる野生の苔といえるかと思われる。

開場は9時からだが、少し前に拝観受付に着いた。
すでに10人ばかり並んで待っている。
苔の写真など撮っているうちに開き拝観料を払う。
並んでいた人はまず大元堂に向かい、秘仏をみる。
時間をずらすために講堂に行き、伎芸天をながめる。

伎芸天像は脱活乾漆造の頭部は天平のオリジナル、寄木造の体躯は鎌倉以降の補修になる。
ただ、眺めただけではバランスといい継ぎ目の自然さといいとてもハイブリッドにはみえない。
全高は2メートルほどで小高い須弥壇から見下ろしている。
堀辰雄氏が「東洋のミューズ」と呼んで讃美した。ミューズとはミュージック・ミュージアムの語源となったギリシアの女神である。
仏教の神としては、本家インドでは舞踊の神でもあるシヴァ・大自在天の髪の生え際から生まれた女神であるから芸事の神として崇められた。
顔はそう思ってみるとギリシア風にみえてくる。

本尊、薬師は日光・月光菩薩を脇侍とし十二神将を従える。
帝釈天があり(梵天は奈良博物館にある)、真言密教の王不動明王や五大力菩薩がある。
少し離れて須弥壇全体をみるとやはり伎芸天の存在感は圧倒的である。

さて、講堂で時間をつぶし気を落ち着かせて大元堂へ行く。
行列するほどではないが人の流れはつきない。
堂内は外陣は畳敷き、内陣は板敷きで当然、護摩壇を構える、奥に厨子があり、大元帥明王が鎮座する。

説明員の方が繰り返し由来や大元帥明王にまつわる話をしている。
秋篠寺の東には競輪場があるのだが関係者が戦いの神、大元帥明王への願掛けをするらしい。
軍の最高位、「元帥」の語源もこの明王からとのことであるが、中国では春秋時代から元帥の称号はあったからインドから中国にわたり中国で意としてのつながりで元帥をあてたとしても、語源とするにはどうかとも思う。
この明王はサンスクリットではアータヴァカといった。
野にあって子供を喰い殺す夜叉神であったのが大日如来の功徳で善神へ転じ、護法の神となった。
日本でいう荒ぶる神である。

間近でながめると今まで観た仏像の中でも第一級に怪異である。
仏像の印象はまず顔で決まる。
この像の顔は人間離れしている。勿論憤怒相なのだが五大明王でも仁王、金剛力士でも人間の顔をしている。
つまり人間が極限まで怒るとこうかという顔なのだが、この野の神は人間の顔をしていない。
野獣や爬虫類を人間の顔に近づけようやく人かというところまで止めたような顔である。
類例がない。
あえていえば仮面ライダーなどに出てくる怪人の顔である。

二眼は当初は彩色だったのかもしれないが色は失われ黒眼になっている。
玉眼であったならもう少し人間に近づくかもしれないがこれも怪異さの演出になる。
手足は太短く首は埋まる。
六臂には三鈷杵・宝剣・斧・五鈷杵など武具を掲げ、左の一手は忿怒印という人差し指を立てた印を結ぶ。
腕や脚には18匹の蛇が巻き付きうつろな目をしている。
これも怖い。
さすがに宮中が頼る絶大な法力を感じさせる。

太元御修法が秘され勅許なくして禁じられたのには力が強すぎるということに加え、念ずる者を殺してしまうということがあったらしい。
密教の護摩とは要するに念ずる神を自らに乗り移らせてその法力を借りるということに他ならない。
こんな怪異な神に乗り移られては命も危うかろう。

昨日対面した蔵王権現は確かに対話が可能であったと思われたがこの神は言語によるコミュニケーションは不可能なのかもしれない。
勿論、像とは人間の想像力の賜物であるから我々は仏師の想像力を通じて神と対話する訳である。
この像は鎌倉時代の作である。
現在伝わる国宝・重文クラスの像の中で最大級に怪異な神を造型した鎌倉仏師に脱帽である。

いいものを拝んだ。



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雑木と苔の海

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大元堂



大和散策 #7 飯と宿

2010年11月19日 | ご当地グルメ・土産・名産品

当麻寺を出るともう18:00、相変わらず昼飯を抜いて走り回ったので飯にする。

京都や奈良に来てみるとついつい学生時代を思いだし、王将やら天下一品やらに行ってしまう。
カーナビで探して餃子の王将、大和新庄店、鳥唐揚とチャーハンを食う。

本日の宿はスーパーホテル大和郡山

元々、ここが空いていたから泊まる気になったようなものである。
天然温泉が付いており、満室の筈であるから混むかと思いきや、貸切状態で露天を眺める。


大和散策 #6 西域の四天王、当麻寺

2010年11月19日 | 仏閣・仏像・神社

壷阪山を降りると15:00、もうひとつは回れるだろうと思い、当麻寺に向かう。

当麻(當麻)寺は奈良盆地の西端線、二上山の麓にある。
寺の縁起は聖徳太子の弟、麻呂子親王が河内の万法蔵院を前身として創建した禅林寺を、役行者が練行した当地に移し弥勒菩薩を本尊として当麻寺としたという。
白鳳・天平という日本仏教の草創黎明期に伽藍が整備された。
当初は三論宗であったが、空海が参籠して以降真言宗に転じた。
ここでも時のスーパースター空海の力は大きい。
さらに南北朝期に浄土宗が入り真言宗を合わせふたつの宗派を奉じる。

取りようによっては修験の創始者、平安の最新モード真言密教、鎌倉のニューウェイブたる念仏どれも咀嚼したということになる。
古きを守るといえようか。
「古き」といえば当麻寺には高名な當麻曼荼羅を収める天平・藤原期の本堂、白鳳期の本尊弥勒菩薩像、四天王像、さらに天平創建の塔、日本最古とされる梵鐘・石灯籠などが残り、よくぞ保たれたという文化財の宝庫である。

大和からみて二上山は西にある。西とは平安仏教文化における浄土の方向である。
20代の頃、まだ存命だった祖母を引きずるように甘樫丘に上り夕日の二上山を眺めたことがあった。
二上山は大和盆地の西の果てであり、シルエットになったふたつの瘤は西方浄土の入口かと思えた。
仏心のない私ですらそうなのだから古代の貴族にとって二上山やその麓にたたずむ当麻寺は特別の存在であったに相違ない。

当麻寺の運命はその立地にあったとしかいいようがないのではないか。

推測するに西方がそれほど重要ではなかった奈良時代には南都六宗のひとつとして龍樹の空論を論じる学院として栄えた寺が、藤原期に俄に流行した浄土信仰の波にもまれ、「そんな小難しい『空』論なぞやっている場合か」と有言無言の圧力でもあったのであろうか、弥勒仏を移して西にあった東面する堂を本堂として西方浄土を描いて織られた曼荼羅を本尊扱いにして拝むことにした。六角形の厨子に架けられ須弥壇に置かれている曼荼羅は無論、対峙するものからみれば西を拝むことになる。
いずれも天平の国宝だがこの内陣をそのままに、外陣、外々陣と拡張して建て増ししていったのが本堂・曼荼羅堂といえる。

當麻曼荼羅とは中将姫が感得したイメージを織り上げたもので天平の作ならば浄土信仰が湧き起こる遥か以前の作である。
邪推を続ければ当麻寺という学問寺が意図せず持った浄土曼荼羅を後世、外部が羨望し寺に勧めて伽藍配置まで変えてしまったのではないか。
浄土宗の総本山知恩院の憧れは相当なものであったらしい。
ローマ帝国がギリシア文明にあこがれるようなものであるかもしれない。

山門を入って境内を眺める。東塔・西塔の両塔は天平期の名建築国宝であるし、様々な宝物は気軽に拝観することができる。
何か違和感を感じざるを得ない。
その原因を考えるに私の中のコンパスと先入観が今ひとつ一致しないのであった。

寺というものは一般に北か南を正門とするという先入観が私にはある。
伽藍配置は時代により変遷するのだが薬師寺を典型に同型の二塔は東西に置く。
こういう先入観から当麻寺を歩くと本堂が北に南面するように錯覚し二塔は北塔と南塔にみえてしまうのである。

実際の伽藍は北西から東南にかけて流れる山裾という地形に東から山内に入り、西に向かって参道が伸びる。
西に向かって歩いて行くことになる。
記述のように本堂は曼荼羅が東に向けて架けられているから西方に向かって進んでいく。
この時、手前に東塔、奥に西塔が左手に見える。

日差しがもう山にかくれてしまい方向感覚を失っていることもあり、何となく気持ち悪いのはこういう立地によるものなのであった。

当麻寺に惹かれたのは四天王像をみたかったことが大きい。
像は金堂に旧本尊弥勒菩薩と共に安置されている。ややこしさを助長していると思うが、金堂は参道の南側に北面するように立つものの、参道から入ると諸像は背を向けており半周してようやく正対できる。

何やら拝見以前のことばかりだらだら考えている。
伽藍配置で悶々とする中、本堂の曼荼羅・厨子を拝観した後に金堂に入ってみたら目が醒めた。
写真では見たことがある弥勒と四天王だが、実物は想像を超えていい。
照明がないため、わずかな外光に照らされているのみで薄暗いのがこれらの像にある種の妖しさを帯びさせる。

弥勒菩薩は681年の作とされ、土を盛って布を張り、漆を盛り上げ細かい造作をした上に金箔を貼っている。
顔は鼻高く眉の辺りも彫りが深く、日本人離れする。
白鳳仏は一般に新羅の影響が強いというのだが、なるほど大陸は北方系の顔をしている。
山田寺の仏頭に似ているともいえようか。
弥勒仏は太秦・広隆寺の半跏思惟像のような風貌の方が56億7千万年もの間、思案する弥勒菩薩に似合っているとは思う。しかし本尊として脇侍と共に崇める場合に華奢なあの姿は逆にマッチしないのかもしれない。

四天王もよい。私のベスト四天王といってもいいかもしれない。
新羅顔の弥勒を護る彼等も新羅顔である。バランスからいうと少々大きめの頭部は鎧の襟に首が埋まり重量感が感じられる。
痛んだ部分、下半身など木造で補ってあるが顔はオリジナルであろう。
この四天王には髭がある。仏像につきものの髭はふつう「描く」。しかしここの髭は「造型」してある。つまり付け髭なのだ。
多聞天のみは鎌倉期の木造である。形状や表情はよく似せているため一見すると四神セットで違和感はないが近くで見ると違う。
鎌倉の天は腰をひねり躍動する。ここの多聞天は回りがおとなしいから我慢しているが躍動したくてうずうずしているようにみえて微笑ましい。
特に踏まれる鎌倉の邪鬼は白鳳のそれとは違う。写実的でリアルな鎌倉の作風がにじみ出ている。
少し離れて眺めると大陸からやってきた弥勒と四天王一座が、多聞天だけが何かの用事で帰ってしまい急遽鎌倉から呼ばれた武人が何とか真似して公演しているように思える。
お里が知れているのである。

日がすっかり暮れてしまい仏の目鼻もあやしくなってきたので外に出て奥の院まで行ってみた。
ライトアップされているわけではないから紅葉も映えてはいない。
ただ、東西の両塔が遠近にみえており美しい。

当麻寺は中将姫の伝承という点でもみるべきところがある。
曼荼羅堂には厨子の横に尼僧形の中将姫像がある。自作との寺伝もあるらしい。
口を半開きにし眼光鋭く見つめる様はエロティックでさえある。
美人の像といえば浄瑠璃寺の吉祥天があるがそれに比肩する美人であるかもしれない。

拝観時間が終わり刻々暗くなってきた。
真夏の朝など来てみればまた違った様相であるとも思われる。
当麻寺の謎説きも楽しいであろう。

 
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本堂、曼荼羅堂
 

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金堂、弥勒と四天王を納める

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日本最古の梵鐘

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日本最古の石灯籠

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西塔



大和散策 #5 眼病封じの壷阪寺

2010年11月19日 | 仏閣・仏像・神社

吉野から奈良方面に向かう途中、壷阪寺に寄ることにした。

壷阪寺は高取山腹にある。
昨年、高取城址に行った際、時間切れで寄れなかったのである。
距離にして10キロ余り。
30分で着いた。

壷阪寺の本尊は十一面観音、特別拝観で本尊を間近に見ることができ、三重塔の初層が初公開される。

境内からは山裾を割って大和盆地がきれいにみえている。

創建は大宝3年(703)といい元興寺の僧、弁基上人が愛用の水晶の壺を手に修行した折、観音を感得しその姿を像を刻み壺と共に安置したという。
正式名は南法華寺というがこのような寺伝により「壷」の「坂」の寺ということで壷坂(阪)寺と呼ばれることになった。
寺勢は一時は36堂60余坊であったようだが、南北朝時代に荒れた。
吉野を南朝の本城とすればここは出丸のようなものであるから仕方ない。
天災・戦災で堂宇を失い、室町期の礼堂・三重塔他をわずかに残すものになった。
遺産を保護し、盛り立てたのは江戸時代に高取を領した植村氏であったようだ。
高取城を薄禄でありながらよく維持した植村氏は山中の壷阪寺もおろそかにしなかったのは好感が持てる。

壷阪寺は濃い。
伽藍の配置がまず濃く、重文の礼堂・三重塔をはじめ、多宝塔や大講堂などが密集している。
奈良時代の寺は平地をさらに平にならした状態で設計され、東西南北を意識して図面を引き理想的な堂宇配置を行う。
このため、空地をひろびろととって空が抜ける。
ところが山中に建立する場合は真っ白な頭で図面を引けない。あれもこれもと考えると勢い堂宇が密集するのであろう。

濃さのその2は現世利益の寺であること。
本尊千手観音の御利益は眼病に効くである。
奈良時代から眼病治癒の参詣があったようだが、今日いよいよ眼病封じの寺として有名なのは「壺坂霊験記」による。

座頭の沢市は妻お里とつつましく暮らしながらもお里が毎晩床を抜け出すことに不審がありお里を問いただす。
お里は沢市の目の病が治るよう、三年欠かさず壷阪観音に朝詣でをしていると訴える。
疑った自分を恥じた沢市は自分の盲目ゆえに不遇な暮らしをさせているのだと自らを責め、身を投げてしまう。
お里も悲嘆し身を投げてしまう。
ところが観音の霊験が奇跡を起こし、沢市・お里は助かり、沢市の目が開眼したという話である。

この話は人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として評判になり壷阪観音詣でが盛んになった。
庶民の参詣が増えると心の貧しい寺は現世利益を煽って御利益の売り込みを盛大にやるようになる。
特に観音霊場というのは観音様がありとあらゆる現世利益をおのが身を変化させてまで与えてくれるため寺の宣伝によっては大盛況になる。
清水寺など私の学生時代、すなわち昭和50年代から盛大にやっていて苦々しく思っていた。
壷阪寺はそこまでではないが独特のオーラを放っている。

濃さのその3としてインドのスパイスがある。
壷阪寺はハンセン病対策支援でインドと交流がありその縁で石像の大観音立石像と大涅槃石像が招来された。
これはインドの資金で当地で刻まれたのではなくインド製をはるばる運んできた。
この2尊は道路を隔てた反対側に安置されており、こちら側からは観音の横顔がみえている。
もうひとつ釈迦如来坐石像も別に招来され千手観音、文殊・普賢観音の脇侍と共に仁王門の右に座っている。
肌が白く秋空に輝く。
また大石堂なる建物があり、入口ではヒンドゥーの神としかみえない石像が出迎え、内部はまさにインドの石窟寺院であって圧倒される。
さらに三重塔の裏手には全長50メートルの長大な仏伝図があり、釈迦の生涯の名場面が語られる。
仏教とはインド起源の哲学なのだということを実感させる点でいいことではあるが、醤油味の丼にカレーをかけるようなもので寺の雰囲気をさらに濃いものにしていることは否めないであろう。

観音に会う前にくどくど考えてしまった。
本尊千手は礼堂の背後に連結する八角堂の厨子に収められている。
礼堂から入り、本尊を間近に見る。
室町期の寄木造であるが平安期によく造られた他の像と比べると頭が大きく、頭上の10面も大きくリアルでまた顔のパーツがそれぞれ大きい。
容貌はインド風なのである。
朱の着色もよく残りいかにも法力があるように見えるかもしれない。
腹の前で両手で抱えた玉が眼病に効くということらしい。

八角堂内はぐるりと巡ることができ、件の沢市お里の物語や寺宝が展示されている。
特に文化財指定されていないのだが白鳳期の作という観音像が笑顔がよく好もしかった。

三重塔はやや平凡で初層の開扉も期待したほどではなかった。
南面して金剛界の大日如来が座り、その前に空海像がある。
多宝塔といいこの空海といい真言宗の寺であることの証左ではあるけれども、感じる限り現世利益のカレー味がする濃い寺という印象が残った。

この壷阪寺は藤原京の朱雀大路の延長線上にあるらしい。
また、壷阪寺の創建年、大宝3年は持統天皇が皇室史上はじめて火葬された年と同じことからこれらの関連性を指摘する研究もあるという。

境内からは大和盆地がよくみえる。
古都を眺めるのはいつどこででも気持ちがいい。


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壷阪寺全景、寺の案内板

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多宝塔と三重塔、彩色のコントラストがいい

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礼堂と八角堂、八角堂は当初のものと同じ位置にあるという

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大石堂内部

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大石堂の柱、石堂はパーツをインドで切り出し刻み、運ばれた後に当地で組み立てられた

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境内から奈良盆地を臨む




大和散策 #4 もうひとつの都、南朝跡

2010年11月19日 | 街道・史跡

蔵王権現との対面を果たした後、少しあたりを歩いてみた。

蔵王堂の脇を降りていくと南朝の行宮跡がある。
後醍醐帝がしばらく御座所としていた。
今は南朝妙法殿という三重の塔が立ち、南朝の4人の天皇と忠臣の霊をなぐさめる。

それにしても吉野の天は広く地は狭い。
日本を二分した南北朝の政庁があった場所としてはいかにも侘びしい。
桜の季節こそ気分はいいのであろうが、冬枯れの頃になれば京への憧憬がつのったであろう。

南朝跡から蔵王堂の下を回ると仁王門に戻る。仁王門の脇を抜け上千本の方に行くと多宝塔が見えた。
東南院である。
この塔は紀州野上八幡宮の境内から昭和期に移築されたとある。
金峯山寺をはじめ吉野の寺は多くの寺院と同様に廃仏毀釈で荒れた。
元々、江戸幕府は修験道にいい顔をしなかったので江戸期もつらかったろうが明治に入ってとどめを刺されたようなものである。

吉野には吉水神社、吉野水分神社という世界遺産に指定された建築がある。
後醍醐帝が主に住んだのは吉水神社であってそちらに足を向けようとも思ったがいつか桜の時期に再訪することにして吉野山を降りた。

 
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階段の上が蔵王堂、下に南朝跡がある
 

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南朝妙法殿

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東南院の多宝塔、姿がいい
 





大和散策 #3 本邦最大の魔王像、蔵王権現

2010年11月19日 | 仏閣・仏像・神社

伽藍をながめて心の準備をしたところで蔵王堂に入る。
100日間の特別開帳期間も終盤であるが人出はそこそこである。
並ぶこともなく拝観料を払い、靴を脱いで本堂に上がる。
靴は渡されたエコバッグに入れて手持ちにする。
護摩木が拝観料にセットになっていて一部分を切り離してケータイストラップにできる。

巨大な蔵王堂の内部にさらに巨大な厨子があり蔵王権現三尊がこちらを見下ろしている。
映像では何度も見ているが実物の迫力はやはりものすごい。

蔵王権現という尊格は日本独自のものである。
仏教でいえば如来にせよ、菩薩にせよ起源はインドにあり、西域ー中国と伝来するうちに彼の地で再解釈され日本にやってきた。
真言密教の正統な継承者空海は日本に帰国した後、その天才的な独創性で真密世界を再構築するのだが、独自に尊格を創造してはいない。

では神道はどうかというと記紀神話の神、自然信仰の神など日本独自のものであるのは当然ではあるが異国の神をモチーフとして日本の神に習合させた例は多い。
弁天様はサラスヴァティ、大黒様はマハーヴィーラ、金毘羅さんはクベーラという手本がある。

蔵王権現はその点、役行者が自ら感得してその姿を伝え、修験の神と定めたものが尊格となっている点、斬新である。
修験の徒は「呪」を重んじる密教の徒と共に、蔵王権現を「寺」という器に収めた。
なればこそ金峯山寺という寺に日本の神が鎮座したといえる。

役行者の前に蔵王権現が現れた時の状況には諸説あり、弁天が現れ地蔵が現れ「まだまだ」と思ううち、最後に岩を割って雷鳴と共に現れたのが蔵王権現であったという説がある。
要するに役行者は慈悲の神などいらぬと考えた。

蔵王権現の姿は神像としてみれば異様である。
右手右足を振りかざし、蹴り上げる。体を支えるのは左足一本であって重心は右側に偏るため見ていて安定感に欠ける。跳躍する寸前を切り取ったかのように危うい。

右手には三鈷杵をかざし、左手は腰に当てる。髪は逆立ち、牙をむき、眼光鋭く睨みつける。
肌は青く髪は赤い。
まさに荒ぶる神である。

金峯山寺の蔵王権現は三尊あり、像高7メートルを超える中尊は釈迦如来を本地仏とし、左尊は弥勒菩薩、右尊は千手観音の垂迹とされている。過去・現在・未来の三世に渡って救ってやるということになる。
左右尊は中尊よりやや小さいが姿は同じであるため三神がチームで怒っている。
薄暗い厨子の中、照明が下から像を照らしていることも恐ろしさを倍増している。和蝋燭でゆらゆらとやればさらに恐ろしいことだろう。

今回の特別拝観では内陣をぐるりと巡ることができる。
まず、外陣に座り三尊を眺めた後、内陣を回ってみた。右から入ると内陣には役行者像をはじめ如来・菩薩像が並ぶ。
また、本尊とは別にかつて安禅寺の本尊であった蔵王権現像があり、これもなかなかどうして怖さ炸裂のいい顔をしている。

本尊の脇に並ぶ人があり、内陣に入り本尊と結縁できるという。
案内人は、時間に制限はないからごゆっくりという。

常時20人くらい並んでいるから落ち着かないとは思うが、より間近に本尊を見ることもできるためしばらく並んだ。
内陣に障子で6コマのパーテイションを設け、その個室内で記帳をし、蔵王権現と対話することができる。

幸い最も内側のコマに入ることができ、一目を気にせず中尊と対峙した。

正面から見上げると蔵王権現様と眼が合う。
仏像を拝観する際、可能な限り座って仏と視線を合わせてみることにしている。

今日までたぶん千を超える神仏との対話をしてきたと思うが、不思議とこの蔵王権現の前は居心地がいい。
巨大な像という点では本邦では東大寺の毘盧遮那仏が思い浮かぶし、長谷寺や会津には巨大な十一面観音がいる。
皆、慈悲の仏である。
私の場合、いかにも救済してくれそうな仏はこちらがどうも照れくさく居心地が悪かったのだと気づいた。

さらに荒ぶる神をと念じた役行者ほどの発心は私にないのだけれども「一度は現れよ」と蔵王権現に告げて結縁とした。


大和散策 #2 金峯山寺

2010年11月19日 | 仏閣・仏像・神社

吉野には往時の景観はない。
度々焼失し主要な伽藍は再建されたものの寂びているといえるだろう。

金峯山寺に向かって歩いて行くと黒門が現れた。金峯山の入口である。
さらに行くと「銅の鳥居」がある。
銅製の鳥居として最古であって、宮島の木製鳥居、四天王寺の石造鳥居と並んで日本三大鳥居とされるものである。
扁額は「発心門」とあり空海の筆と伝わる。

続いて仁王門が聳え立つ。康正年間の建造というが定かではないらしい。京では足利義政が将軍、応仁の乱前夜である。
高さ20メートルを超える重層入母屋の門である。東大寺の南大門に次ぐ大きさという。
東大寺のような平地に建てるのと違い、細い山道の道幅一杯に石垣を積み、堂宇を建てることの難しさを考える。
この地は吉野杉の産地であるから廻りからいくらでも切り出してこられようが、丸太を割り、板を切り出しという作業は容易ではなかろう。
こういう山岳建築は執念なくして成り立たない。
また、足元を固める石垣は城のそれのように扇の勾配がついている。
城でいえば大手門にみえてくる。

門に収められた仁王もなかなかのものである。
寺伝によれば南北朝の仏師の作というが鎌倉期作といっても通用するだろう。
筋骨隆々として面構えもいい。

仁王門をくぐって行くと視界が開け、本堂・蔵王堂がある。
仁王門と共に国宝である。
36メートル四方で大きい。
蔵王堂を寄進したのは豊臣家である。

天正20年(1592)の造営であるから秀吉はまだ存命、しかし鶴松は世にない。

この年、秀吉は朝鮮出兵を開始した。
蔵王堂が落成した後、秀吉は吉野に花見に来た。
落成間もないこの蔵王堂を見たことであろう。

参詣者の目で蔵王堂までの道を考える。
北から吉野山を登って来たものは黒門をくぐり尾根道を細々と来、銅鳥居を見、仁王門に圧倒され山内に入る。

しばらくするとおもむろに広場が現れ振り返ると蔵王堂が出現する。
南から来るものは熊野から峰峰を駆け山に伏し、大自然と闘った後、少しの階段を登ると全面に蔵王堂が迎えてくれる。
神社仏閣はふつう南門から入り、金堂は南面している。
吉野の場合、大和から南下してくるため、黒門は北面し、仁王門も北から入る。
蔵王堂は南面しているため、北から来る人は振り返って蔵王堂をみることになるのである。
行者の視点でみる方が感動は深まるだろうか。

蔵王堂の屋根は檜皮葺である。
金峯山寺は南都の仏教寺院でも鎌倉新仏教の寺でもない。
修験道の道場として建てられているのであるから本堂はどうも仏教色がない。
金峯山寺が「寺」として体裁を整えたのは空海の孫弟子で真言密教を継いだ聖宝による。
よって台密と真密に二分された密教・修験道界では真言宗に近い。

これは高野山にほど近いことも影響しているかもしれない。
ただ、徳川家康のブレーンとして権勢を振るった天海が管領となったことで天台の寺として江戸時代を過ごした。
この背景には大坂の陣がある。
秀頼が吉野に逃げ込んでやっかいなことにならぬよう吉野を徳川支配下に置きたかったのであろう。
天海との縁が深い寛永寺の桜は吉野桜の輸入らしい。

寺らしくないかといって神社らしいかというこれも微妙である。
檜皮葺の屋根からすれば神社らしくもあるが拝殿・本殿にこういう建て方はない。
楼門ならありうるが。

そのようなことを考え、蔵王堂周辺の観音堂・愛染堂など眺めながら気息を整える。

いよいよ蔵王権現に会うのである。


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黒門、造りは高麗門

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銅の鳥居

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国宝仁王門
 
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阿吽の仁王像

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蔵王堂

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蔵王堂の風鐸




大和散策 #1 蔵王権現に会いに行く

2010年11月19日 | 仏閣・仏像・神社

奈良遷都1300年も残り1月足らずである。

ウェブで記念事業の特別拝観を眺めていたら金峯山寺の蔵王権現を公開していることに気づいた。
また、秋篠寺の大元帥明王は例年、6月6日の一日しか拝観できないのだが今年は秋にも公開されていることがわかった。
今回、この2つの仏を目当てにすることにした。

ここ数年、毎月豊田の実家に1週間くらいいることにしている。
丁度、原稿がたまっていて実家の2階にこもっていたのだが「今日仕上げたら」と思い、ほどほどに満足したので朝駆けで奈良に行くことにした。

6時半夜明け頃、実家を出て国道23号を行く。
奈良に行くには第二名神で紫香楽を抜け宇治から南下するルート、三重県を横断する東名阪-名阪国道のルートがある。
めざす吉野は奈良南部なので後者で行く。
先年、和歌山へ行ったルートでもある。

23号は昔から「赤信号で止まるとトラックに追突される」という噂の物騒な道路であるがそれだけ高速移動が可能なルートである。
ただ今日は橋の工事ということで渋滞しているらしい、国道1号に迂回するとこれがはずれで思わぬ時間を取られ、名阪道に入ったのは9時過ぎであった。
天気は快晴で気分がいい。伊賀上野のあたりは盛大に野焼きをやっていて町が白く煙っている。
針で名阪道を降りて宇陀の里を抜けていく。
この辺りの道は信号もクルマも少なく気持ちがいい。

吉野に着いたらもう11時近くになっていた。
金峯山寺の駐車場は少し離れたところにあって歩いて登っていく。

吉野は学生の頃、花見や紅葉で何度か来たことがある。ただ、金峯山寺まで登ったことがなかった。
京都に住んでいると奈良は明日香でどうも止まってしまって時間がなくなる。
吉野は気合いがいるところだったのである。

吉野という土地を考えてみると都から落ちていく隠里という印象が強い。
都で勢力を失った者たちが吉野に落ち、再起を図るのである。
古くは大海人皇子、若き日の天武帝が吉野に隠棲し、壬申の乱で起った。
源九郎義経が隠れ、そして後醍醐帝が神器を持って逃れ南朝を立てる。
それだけ中央の訴追を逃れうる要害の地であったということだ。

いまひとつ、吉野の地形は山岳信仰を育んだ。
俗世間から隔絶し、山がうねるこの地で、役小角は蔵王権現に出会い金峯山寺を開く。
吉野ははるか南に熊野三山に連なる山岳信仰の聖域の入口なのである。

吉野は全体が山城のようである。
参道を歩いていると左右の道幅は狭く吉野山の尾根筋を歩いているのだと感じられる。
ほんのわずかの幅でも断ち切れば、堀切になるであろう。
攻めるに難く、守るに易い。

奈良の都のおもしろいところは日帰り圏内に常人未踏の聖地と山城を持っているところであろう。