扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

戦国奥州の男たち 四日目#21 鉄灯篭の塩竈神社

2011年10月27日 | 諸国一ノ宮

多聞山から塩竈市街に向かう道を行っても震災の被害は注意しなければわからない。
ただし、それと思ってみると1階が抜けた建物がある。
この道も全て冠水したのであろう。

塩竈神社の参道を行く。東側から行くと志波彦神社がある。
志波とは皺(しわ)のことであり、皺を伸ばすように延伸していった西の勢力の端っこを守る神様である。
こちらは明治に引っ越してきた。

多賀城に政庁を置いた奥州は隣に一ノ宮を置いた。
塩竈神社である。
陸奧の国府と塩の神様の関係はおもしろい。
山から塩がとれにくい日本ではかわりに海水を煮詰めて塩を取った。

塩竈神社は多賀城の鬼門の方向にある。
というよりも松島近くの風光明媚な小高い丘の上に地元の崇敬を集める社がありここを鬼門とする方向に公舎を置いたのではないか。

塩竈神社には本殿が3つある。
左右殿の左宮に武甕槌神、右宮に経津主神、この2神は天津神が国津神を下した際の軍神である。
そして別宮の本殿に塩土老翁神(シオツチノオジ)を祀りこちらが主祭神という。
この神様は海幸彦・山幸彦の話で登場する。
海幸彦の釣り針を無くして困っている山幸彦に船を与えわだつみの宮殿に行けといって助けた神様である。
軍神二神はヤマト政権の要として鹿島社・香取社に鎮座した後、蝦夷遠征にやってくる際に塩土老翁神が道案内したという。
猿田彦のようなものである。
軍神は帰ったが塩土老翁神は「塩の作り方をここらで教える」と残ったという。
おそらく塩土老翁神とは国津神であろう。

下から登ってくる表参道のところまでくると楼門が姿を現す。
桃山風の堂々とした建築である。
社殿は丹塗が赤々としていて黒漆の大崎八幡宮とはまた違った趣である。
政宗は塩竈神社の復興にも力を注いだ。
今の社殿は政宗時代のものではない。

拝殿の前に灯篭がふたつ。
ひとつは芭蕉がみたがった「文治の灯篭」、もうひとつは伊達藩寄進の装飾満載のものである。
文治の灯篭は文治3年(1187)に落日の奥州藤原氏によって寄進された。
治承寿永の乱と呼ばれる源平合戦が終わり源平でふたつに分かれた元号がひとつに戻るのが文治である。
もちろんこれは文をもって統治したいという朝廷の願いであったろうが、守護地頭を設置した頼朝により乱は東に移る。
芭蕉の奥の細道に記されたように灯篭の日輪月輪の透かしが入った鉄扉には和泉三郎寄進の文字がある。
三郎とは藤原秀衡の三男忠衡のこと。
寄進の年、父秀衡を失った忠衡と兄泰衡、国衡は悩む。
父の遺言は「義経を大将に頼朝を迎え討て」であったが当主を継いだ泰衡は豹変し義経を襲って首にし、ついで父の遺訓を守らんとした忠衡を誅殺した。
芭蕉は忠衡を「忠孝の士」と慕い彼を偲ぶために来たのである。
芭蕉に限らず私も奥州藤原氏の運命には詩的気分を高揚させざるを得ない。
この灯篭は鉄製で赤錆びている。
奥州は鉄の産地でもあった。

伊達周宗が寄進した文化の灯篭の方は鉄と銅でできている。
政宗は仙台平野に入ると金鉱鉄鉱銅鉱の調査と採掘をはじめ初期の伊達藩政の資本となった。
秀吉に莫大な鉄塊を寄進している。
金や鉄は地面に宝が埋まっているようなもので、掘ればすぐに資金に化ける。
政宗はその財を国土開発に再投資し仙台が米の藩へ変貌する布石をうった。
この灯篭はロシア船警護のために蝦夷地に警備に出向いた伊達藩士の帰還を機に寄進されたものである。
鉄の基礎のそこここに銅の彫刻がはめこんであり桃山の気分を政宗から100年伊達藩は伝えている。
こちらも文治の灯篭と共に平和の願いであったのだが伊達藩は戊辰戦争の朝敵となる。
奥州とは常に西の勢力の標的となった歴史を持つのが哀しい。

宝物館に寄った後、遠くに松島を眺めながら参道を降りた。

 
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塩竈神社の境内図

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楼門

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文治の灯篭

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伊達の灯篭


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