扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

「その時が来た」 -ジョブズのこと-

2011年08月25日 | 来た道

米Apple社のCEO、スティーブ・ジョブズ氏がCEOの職を降りることになった。
一時代の終わりを感じさせられる。

私の職歴はAppleと共にあったといっていい。

私が丁稚修行の後、ようやく第一線についたころ、世のビジネスツールはようやくワープロからパソコンへと移行しつつあった。
東京に出て行き、PRやマーケティングリサーチを主とするNTTの関連会社に務めるようになった私はAppleのMacintoshで企画書や調査レポートを毎日深夜までつくり続けた。

その当時のMacというのは今にしてみれば実に貧弱な性能であったが、図表やグラフを作成するのに前時代からすれば奇跡のように楽であったし美しい文書を生み出した。
当時のライバルはMicrosoftであった。

MacとMS、この両者はひどく仲が悪く排他的でその余波でユーザー同士も妙に距離を置いていた。
ともあれ、私のリサーチャーとしてのキャリアはMacの画面とにらみ合うことで築かれたのである。

ジョブズ氏らによって1976年に設立されたApple computer社はApple2というパソコンのハシリでまず成功し、1984年にMacintoshを発売ししばらくは快進撃する。
ところがIBMが汎用性に優れ、MS社のMS-dosというOSを積んだ廉価なPCを送り出すようになると俄に雲行きが怪しくなる。
ジョブズは厳密にいうとエンジニアではない。
開発を主に担ったのはもうひとりのスティーブ、ウォズの方であってジョブズが得意にしたのは対投資家活動、つまりカネを呼んでくることであった。
皮肉にもジョブズは自らが呼んできた人々によって1981年、愛するAppleを追われるようになる。

私が前述のように東京でMacと付き合うようになった頃は、日本にMacが輸入されデザイン事務所が大量にこれを使用してDTPをはじめるようになっていたのであるが、本国の方ではすでにジョブズは不在で社内はゴタゴタ、いつどこに買収されてもおかしくない状態であって冷や冷やものでMac雑誌を読んでいた。

1997年にジョブズはAppleに復帰することになり、我々Macユーザーは快哉を叫んだのであるが彼の事実上の初仕事は、何とMSのB.ゲイツ氏に泣きついて運転資金を出してもらうというものであった。
ついにジョブズはダークサイドに落ちたと嘆いたものである。

1998年にNTT本体に復帰した私は会社のIT環境がWindowsになり、それがスタンダードであることを思い知らされることになる。
Macを使わせろというと「そんなマイナーなものは出せません」と言われ、ウェブマスターになってウェブのMac対応をやれというと「そんなマイナーユーザのためにカネは出せません」と言われ肩身の狭い思いをさせられる。
それでもなかば職権濫用でデスクにMacを置いていた。

風向きがちょっと変わるのはジョブズによってiMacが投入され、一応のブームとなったころからで、それはiPodというオーディオプレイヤーの登場によって急速にAppleはユーザ側から市民権を得るようになる。

私はNTTを辞し、地図会社に転職した時期がApple復権の時期と重なる。
地図会社ではめずらしくMac好きのマネジャーが来たということで一部のMac好き開発者の支持を受け、日の目を見なかったMac版地図ソフトのローンチをやった。
そんなことをやるとApple社とも付き合いができ、製品PRのために初台のAppleジャパンにも出向いたことがある。
当時はまだMacintoshEXPOというイベントが幕張であり、基調講演にジョブズが来たときには見に行った。
初めてみるジョブズはもう青年実業家というには年を取り過ぎてはいたが、プレゼンテーションが誰より上手くいたく感動したものである。

地図会社には1年足らずしかいられずに出奔した。

その後も歴代ほぼ全てのデスクトップとポータブルのMacはつかったことがあるし、iPod、そしてiPhoneはいつもカバンの中にあった。

2000年代のApple社は常にジョブズの頭から繰り出される新製品と新サービスと共にありほぼすべてそれはあたった。
おかげでAppleの株価はうなぎ昇り、誰もMacユーザーを日陰者と呼ばなくなり私も苦労のし甲斐があったわけだが、皮肉なことに独立してしまい家にいることが多くなった私にとってMacは逆にそれでなくてはならない理由がなくなってきた。

今でもこの原稿はMacで書いているのだが、AppleにもMacにも格別の思い入れはない。

ただし、若い頃あこがれ、陰ながら復活を応援してきた私にとってジョブズ氏の引退は胸にせまるものがある。
そんなことでちょっと昔を思い出してみた。

余談だがAppleが危機にあった頃、海外企業の株式を1株だけ買えるサイトというのがあり、Appleの株を買ってやろうかと思ったことがある。
もしも買っておけば2000倍だかになっていたはずで、私の執筆活動も楽になっていたと思うが、その失敗も何やら懐かしい。




あずきほうとう -小作-

2011年08月20日 | ご当地グルメ・土産・名産品

重文の銭湯からあがり晩飯である。

甲州名物ほうとうを食べるため小作諏訪インター前店に行く。
小作にはあずきほうとうというメニューがあり、これを試しに行ったのである。
小豆好きとしては経験しておかなければならない。

食べてみると食事メニューではなく完全にデザート。
田舎ぜんざいにほうとうの麺を入れたものである。

私のソウルフードのひとつに白玉ぜんざいがあり、これも懐かしい味。
なかなかひとりで完食できるものではないとの評判であるがおそらく私は2杯は行ける。

飯を喰って本日の旅は終わり。
 
 
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重文の銭湯 -片倉館千人風呂-

2011年08月20日 | 街道・史跡

家人と日帰り旅行に行くときは帰りに温泉に入ることになりがちである。

松本城から城下を冷やかし、諏訪方面に国道で行った。
今日は片倉館に併設の温泉に行った。

片倉館は絹で財を成した片倉財閥によって昭和4年にオープンした。
風呂がメインではないのだが着いたときにはすでに暗く、こちらとしてはレトロな銭湯に寄ったくらいの気分である。

風呂は千人風呂というが、入ってみると千人入れるほど大きくはない。
おもしろいのは湯船が深く底に玉砂利が敷いてあって歩くと気持ちがいい。
油温が高いのでそれほど長くつかっていられない。
道後温泉のように、歴史を感じる風呂ではある。


天守五層目のこと 100名城No.29、松本城址

2011年08月20日 | 日本100名城・続100名城

松本城が8月中着物で行くと入場料無料というイベントをやっている。
それと100名城スタンプラリーでまだ松本城のものを押していないことも手伝って家人とその友人と連れだって出かけることにした。

松本城には数度、行ったことがある。
直近でいうと2009年の5月、快晴の日に行った。
今日は残念ながら小雨で眺望は望めないであろうが暑くはあるまい。
調布から松本までは約200km、中央高速道路から長野道で約3時間。

松本城に着いたときには運良く雨が上がっていた。

松本城は完全な平城である。
また樹木がそれほど多くも高くもなく、周りから天守がよく見える。
反面、山城のようにふうふういいながら登っていき、やおら天守とご対面というようなドラマがない。

この天守は私がいつも悪い例としてあげつらうように格好がよくない。
特に東西方向からみた屋根の平側(入母屋がみえない方向)からみると頭でっかちでバランスが悪い。
松本城は明治に入って土台の木材が腐り大きく傾いた。
明治と昭和に大修理を行って今日の姿になっているわけだが、修理前の写真をみると大きく傾き今にも倒れそうである。
これも上部が大きく重量バランスが悪いせいではなかったかと思ってしまう。

今日は夏休み期間中の土曜日であるせいか人出が多い。
聞くと天守に上がるのは1時間待ち、天守に入っても混んでいるので回るのに1時間という。
天守に登るのはあきらめて内堀の外を一周するだけにした。

松本城天守の形が悪いという人の根拠のひとつは、「5重目最上層が高欄を持つ廻り縁から積雪防水を考慮して外壁を春用に設計変更されたため、大きくなってしまった弊害」というものである。
これはすぐにわかる。
4重目と5重目の面積は同じになってしまっているため頭でっかちになるわけである。
そもそもの建築目的は違うが仏教建築における五重塔は上層の方が下層よりも小さくなっていくため美しく頭でっかちにならないことを考えればよかろう。

新たに気付いたのはそれぞれの屋根の隅棟(各辺の屋根どうしがつながるところ)の角度が4重目の屋根の部分のみが異なりずれている。
これも違和感の原因であろう。

後は定番の石垣の高さの話。
松本城の天守石垣は低い。
建築時期の技術水準からであろうが高く角度を急にするとより見映えとして(防御力としても)いいだろうと思う。
格好が悪い松本城ではあるが黒門を出てコの字型の二の丸から内堀越しにみる天守はそこそこ見映えがする。
5重の大天守を中心に左に渡櫓と乾小天守、右に辰巳付櫓と月見櫓が付く複合連結式の形がよくわかる。
乾小天守と月見櫓は初層が一段低く石垣も大天守よりは低い。

何やらけちばかりの話になってしまった。
天気のせいなのかもしれない。
 

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本丸御殿跡から 

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黒門の桝形、二の丸から
 

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南側から 
 

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西南角から、この角度からみると姿がいい
 

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隅棟の角度が4重目の屋根だけ異なる




青梅の古刹 -塩船観音寺-

2011年08月08日 | 仏閣・仏像・神社
八王子に墓参りと青梅に用事があった。

ちょっと時間が余ってしまったので家人と時間つぶしの場所を探した。
青梅という町は町おこしをがんばっていて昭和レトロというテーマで古い映画の看板など並べていい味を出している。
ところが月曜日ということもありほとんどが休館。

それでは寺でも行くかと塩船観音寺という古刹を訪ねることにした。

塩船観音寺という名前の通り、観音を祀る。
寺の縁起は大化年間、八百比丘尼がこの地に紫金の観音像を安置したことに始まるという。
八百比丘尼という人は若狭の人で人魚の肉を食べてしまい不死身となった。
180才にして諸国を回ったといい途中であちこちに伝説を残している。
大化年間といえば大化の改新があった頃であるから俄に信じがたい。

また「塩船」は地名ではないようで、行基がここを訪れた際、丘をくり抜いたような形をみて「弘誓の船」にみたてて名づけたという。
要するに菩薩が衆生を船に乗せて救済する仏伝のことである。
「塩」の意味はよくわからない。
岩塩でも採れたのであろうか。

鄙の古刹は縁起を仏教史上の巨人に求めることが多い。
行基がそうであるし空海はその最たるものである。
修験道とからめるときは役行者が登場する。

左右に阿吽の仁王像を拝した山門に立ってみると屋根は茅葺きである。
これがなかなか姿がよく、野卑た風もなく周囲に溶け込んでいる。
室町期の建築で国の重文。

山門からは緩い勾配を登っていく。
まず阿弥陀堂、薬師堂、本堂と次々に現れる堂宇は全て茅葺きである。
どれも素朴でいい雰囲気を醸す。
今日はまさに炎暑であるが杉の巨木などで木陰になっておりそこだけは涼しい。

本堂も重文であるが100円払うと外陣に上がることができる。
本尊は千手千眼観自在音菩薩、彩色された前立がみえるが今日は厨子が閉まっている。
格子越しに除くと本尊の両脇には千手の眷属二十八部衆が整然と並んでいる。
鎌倉期の作といい姿がいい。
それぞれは約束通り、両端の風神雷神は風袋と太鼓を持ち、カルラは笛を吹いている。
阿修羅は興福寺のような少年ではなく肉感的な忿怒の姿で八本の腕を上げている。
できれば本尊開帳の際にでも再訪し間近にみたいものと思う。
二十八部衆の他に毘沙門天と不動明王がありこれも姿形がいい。

思わずいい仏をみて気分がいい。
さらに奥へ登っていくと鐘楼があり100円で鐘がつける。
誰も周りにいないので入念に素振りをしてついたらいい音を出す。

ここまで来ると視界が開け「船」の意味がありありとわかる。
左をみるとすり鉢のように底が深く両側の丘を歩いて行くと舳先の巨大な観音菩薩像がある。
なるほど船のようである。

船の内壁は一面つつじが植えられ今の時期青々としているものの花の季節には一面が極彩色となり極楽のように輝くであろう。

観音像は平成22年(2010)の作であるというから出来たてであるが、つつじの方は昭和40年代から営々と地域の人が植えたのだという。
見事な復興といっていい。

観音像のところに行くと360度見渡すことができ、遠く関東平野がのぞいている。
後、西の方は山々が延々と連なっている。

すり鉢の底におりて見上げると観音様と視線が合う。
底はちょっとした広場になっており、護摩堂がある。
この寺は修験の寺にもなっている。
真言宗醍醐派の別格本山になってことからわかるように密教と修験道を融合させた修行道場であったのであろう。

山門まで戻って約1時間、思いつきにしてはいいものを見ることができた。

なお、八百比丘尼という人は不死身になってよかったかというとそうではなく、何度結婚しても夫にも子供にも先立たれひとり取り残されてしまう。
彼女はその哀しみに出家して諸国を巡ることにするのだが答えはみつからず、故郷の若狭に戻って洞窟に隠りようやく死ねたという。
長生きが幸せではないということを伝えている。
今、我々は長生きして幸せか疑問ではある。

 
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茅葺きの山門
 

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本堂
 

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薬師堂
 

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塩船の底から観音像をみる
 

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観音像から





江戸の老中ふたり -佐倉城址-

2011年08月03日 | 日本100名城・続100名城

歴博を出ると南側に壮大な馬出と空堀がみえる。

佐倉城は南側を鹿島川が印旛沼へと流れていく。
こちら側は湿地帯でもあったから攻めにくい。
いわゆる「後堅固の城」であった。

佐倉城は二等辺三角形のような台地に築かれていた。
歴博のある広大な椎木曲輪、本丸のある角、もうひとつの角側に大手と上級武家屋敷があった。
攻めやすいのはこちら側であっただろう。
要所に空堀が掘られている。

今、見ている馬出の空堀は長辺が121m、短辺が40mと大きい。
深さは今は3mしかないが元々は5.6mあったというからこれは容易に越せない。

馬出の裏側に椎木門があり入るとまた空堀、二の丸になる。
二の門、一の門と通って行くと本丸。本丸は空堀で守られている。
今は樹木が茂り放題でわかりにくいが底は深い。

本丸は土塁がぐるりと盛られかつては白壁の塀があったであろう。
土塁の上をは歩けるように小道があり半周すると天守台がある。
佐倉城には三階櫓があった。
その天守台は土造りであって石垣はない。
二段になっているのが珍しい。
壮大な本丸御殿があったというが今は一面の芝生である。

本丸から外側へ降りていくと帯曲輪が巡っている。水堀越しに攻撃してきた敵を追い落とす。
もう一段下りると外堀にふたつ出丸、馬出が造られている。

いかんせん、樹木のせいで眺めが悪く実にもったいない。
空堀もそうだがきれいに整地すれば城好きには格好のスポットになろうものを。

大手の方に行くとここにも空堀の跡がある。
おそらく規模としては城内で最も大きいが埋め立てられていた影響で往時の姿はない。

管理事務所に三階櫓の模型があった。
この姿が実によくない。
三階櫓の規模としては大きかったようだが、破風を一切持たず何の工夫もないのである。
丸亀城や宇和島城など三階櫓でも精一杯、威風を持たせようとがんばっているため小さくとも好感が持てるが、これはいただけない。
百姓が麦稈帽子で田んぼへいくような姿なのである。
老中を輩出した城の要とはとてもみえない。

佐倉城は家康が土井利勝を封じる際、「関東の要とせよ」と伝え、気張って築城された。
確かに縄張や空堀など堅固な様相は感じられる。
関東の城の常として石材不足のため石垣を高々とあげることが適わなかった事情はある。
ただし同じ近世の城であっても仙台城や盛岡城、鶴ヶ城などは堅固な石垣を持っていたから言い訳にはならない。

土塁の城というのは整備せずにほっておくと中世の山城と大差のないものになってしまう好例といえる。
佐倉城は天守再建計画があるようだが整備され往時の威風を取り戻すことがあるかもしれない。

しかし感慨の湧かない城である。
佐倉城は江戸時代を通じて幕閣で重きを置かれた譜代大名の居城であった。
土井利勝の他、堀田家が延享3年(1746)に入封し幕末まで続いた。

佐倉城の人としては土井利勝を挙げねばならない。
江戸幕府草創期、家康から家光に至る時期に大いに権勢を振るった男である。
戦の歴史に登場しないためなかなかイメージがつきにくい男でもある。
2000年のNHK大河ドラマ「葵徳川三代」は私が最も好きな大河ドラマのひとつで文字通り将軍三代の内輪をよく描いている。
戦国大名のみならず幕府の官僚の権謀術数まで取り上げているため譜代大名の有様をイメージする上で参考になった。
土井利勝は林隆三が演じ存在感があった。

その土井利勝は元亀4年(1573)の生まれ、京で足利義昭が追放され室町幕府が倒れた年である。
利勝は土井家の養子に入るのだが家康の落胤説がある。
いわゆる三河譜代ではない。
秀忠の小姓になり長じても秀忠と行動を共にした。
関ヶ原にも秀忠と共に中山道を行き上田で真田に翻弄され遅参した。
大坂夏の陣では本軍を率い秀忠の参謀を務めたが実戦では大野治房の奇襲に狼狽し「逃げ大炊」と笑われる。
実戦での武功がない割に異例の出世を遂げる。
初めて1万石の大名になったのが下総小見川、そして佐倉へ古河16万石へと身代が大きくなった。

家康が将軍になった頃から徳川家の経営に変化が現れる。
三河の小大名から立身していく過程では戦上手、交渉上手が重宝され徳川四天王はじめ、功名の種は戦場にあった。
そして政治といってもそれは家の中のことであって家康の上に立つものは太閤秀吉しかいない。
秀吉とうまくやれればそれでいいのであって意外に武辺者好きの秀吉と家康の幕僚はうまくやった。

幕府を開いた徳川家は今度は天下のあらゆるもめごとと朝廷対策と外交、八百万石の天領経営をしなければならない。
県職員が国の政府職員になるようなものである。
功名の種は帷幕の中に移った。

草創期の江戸幕府で家康を助けたのが天海大僧正と黒衣の宰相金地院崇伝、家康の陰謀はここから出た。
そして譜代家臣の中では本多正信。
四天王はすでに用がなくなり敬遠されていた。

豊臣を滅ぼして憂いのなくなった家康が死んだ後、将軍秀忠の世になると幕府首脳も世代交代する。
前政権の要人は本多正信の倅、正純と大久保忠隣である。

土井利勝は新興勢力であった。
彼がどれだけ裏で糸を引いたかは定かでないが政敵が次々ところげ落ちていく。
まず家康存命中に大久保長安事件に連座して忠隣が失脚、宇都宮釣天井事件で正純が失脚、利勝は実質的に幕府のトップに座る。

俗に土井大炊頭利勝、酒井雅楽頭忠世、青山伯耆守忠俊を「寛永の三輔」という。
家康は生前三代将軍と定めた家光の傅役にこの三人を任じた。
酒井は「仁」、青山は「勇」、そして土井は「智」をもって補弼したと後年伝わった。
利勝のみが家光時代まで重職を勤めることになる。

秀忠時代の徳川宗家はいろいろ内輪に問題があった。
秀忠は弟松平忠輝、兄結城秀康の嫡男忠直、自身の次男忠長を改易している。
要するに宗家の跡目争いといっていいが秀忠の最大の悩みは家の中にあった。
これにも土井利勝の手腕があったろう。

秀忠は元和9年(1623)、家光に将軍を譲って大御所となる。
秀忠は家光に「天下と共に土井利勝を譲る」と言った。
家光が長じると政権交代が起きる。
家光の小姓達が力をつけ、島原の乱も終わると土井利勝は酒井忠勝と共に大老職を拝命する。大老という非常職はここが起源である。代わって政権の中枢をになうのが小姓上がりの松平信綱、阿部忠秋らの6人衆、若年寄の起源になる。
これに春日局の縁で登用された堀田正盛が家光政権の中枢となる。

土井利勝が没するのは寛永21年(1644)、72才であった。
家康秀忠家光三代に渡って幕府を支えた能吏といっていいだろう。

土井と酒井(雅楽頭系)、井伊に加え、大老職に就ける家柄として堀田がある。
堀田正盛も佐倉藩主となった。
正盛は将軍家光の死に際して殉死し、後を継いだ正信の代で改易、三男の正俊の系統が宗家となり佐倉藩に戻ってくる。
佐倉堀田家の5代藩主が正睦、彼は蘭癖大名で当然開国派、幕末攘夷か開国かで国論が割れた時、老中首座となって難局にあたった。
私は江戸幕府の終焉の大本は阿部正弘が黒船来航時に天下に広く意見を求めたことにあると思っている。
ここに「外様は国政に関与せず」の家康以来の大前提は崩れ、薩摩も長州もおおっぴらに幕政に意見することが認められるのである。

よって私は阿部正弘を名宰相とは思わないし、後を受けた堀田正睦もいいかげんな役人としかみえない。

先ほど、城内を巡った時に、堀田正睦の銅像がタウンゼント・ハリスの像と共に置かれていた。
これは日米修好通商条約の双方の担当者である故のことだが、この条約の締結そのものを彼がやった訳ではなく、手をこまねいてうろうろしていたに過ぎない。
結局、井伊大老と将軍継嗣問題の方で対立して失脚、正睦は佐倉に蟄居となり元治元年死す。
事実上、老中が政務の中心であった時代が終わる。
最後の老中といえるだろう。

そういう点で佐倉城は最初の老中と最後の老中ふたりの城であったといえる。

大手門跡を出て佐倉駅まで歩いて帰った。
随分暑い日であった。

佐倉城では葵三代の功臣土井利勝のことを随分考えた。

城巡りをしているとどうしても元亀天正から豊臣滅亡のことを想うことが多い。
譜代の城というのは佐倉城をはじめどうも覇気がない。

ただ、一時代を支えた政治家のことは多少無理をしてでも整理した方がいい。
川越城や忍城といった「老中の城」を訪ねるべきかもしれない。


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馬出の空堀
 
 
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本丸跡、奥に二段の天守台
 

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出丸
 

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本丸を守る帯曲輪 




レプリカの宝庫 -佐倉国立歴史民俗博物館-

2011年08月03日 | 街道・史跡

歴博をみていく。

第1展示室は原始・古代である。
歴博は上野・京都・博多の博物館のように「真モノ」を抱えている訳ではない。
よって歴史そのものの解説や解釈をどうするかが焦点になる。

原始から古代という時期に日本で起きたことは狩猟から稲作への転換。
これが日本という国のあり方を決定づける出来事であったことはいうまでもない。
逆にいうと狩猟段階にあった我々先祖のありさまというものに興味がある。
原始日本人の遺物として私が好きなのは火焔型土器と土偶、ささやかなミニチュアではあるがそれらは一覧で展示されている。

また前方後円墳の模型として箸墓古墳が半分に割った形で再現されている。
半分が現状、半分が樹木のない当初の姿になっている。
今みる古墳はほぼ全てが自然のなりゆきにまかされているため原生林化して往時の姿を失わせている。
古墳はそもそも整然と整地された人工造形物であった。
もしも日本の古墳がそのまま残れば大阪南部や奈良はエジプトのピラミッド地帯のような様相を呈するであろう。

もっとも我々のご先祖が草刈りを営々とやれと言った訳でもないし、その目的はあくまで「墓」なのであるから部下材として丸裸にするわけにもいくまい。
安土桃山の城とはちょっと条件が違う。

第2展示室は中世になる。
中世とは武士の時代である。
武士は公家の世界からは隔絶した「律令の用心棒」としてスタートした。
奈良平安時代はその意味で中央政権のシビリアンコントロールが効いた時代ともいえる。

動物の性として強いものが上に立つ。
人の上下が生まれとか徴税権というものであったうちは用心棒はおとなしくしているが世が乱れるとケンカに強いものは目覚めてしまう。
こうして源家と平家が登場する。
また中央から遠い地方から武家勢力が勃興するのは自然な流れであった。

展示でおもしろいのはここでは各階級の「家」を再現している。
公家屋敷もあれば土豪の屋敷もある。
一乗谷の朝倉屋敷や京都の町屋敷がある。

家の模型を見ていて思うのは「日本人の家は慎ましいなあ」ということである。
公家こそ立派な(といってもグローバルに考えればふつうの家)屋敷に住んで庭に水などひいて遊んでいるが、民衆は板葺きに風よけの石をのせ、板敷の部屋に寒々と住んでいる。
土豪も掘っ立て小屋に毛の生えたような屋敷に水壕をめぐらせるばかりで戦国大名とはこうした社会から出発しているのである。
日本の中層階級が瓦の屋根を持ち畳の上の生活をするのは江戸時代を待たねばならない。

展示に「朱印船の模型」がある。
日本が中国やインドのようなアジア大帝国を築かなかったのはひとえに「国際貿易をしなかった」からといえる。
他の経済圏と文物の交換をやらなければ、自国の中でぐるぐると米野菜を回しているだけであって富は増えない。
日本の文化とは平清盛の対宋貿易、足利家の朱印船貿易など時代をブレイクする際には貿易がある。
その最も華やかなものは戦国時代に大名たちが南蛮と交易をやったことで秀吉の安土桃山文化で昇華する。

第3展示室は近世である。
家康が基礎を築いた江戸時代のことである。
「北前船」の模型があるが朱印船よりも相当に小さい。
北前航路が開かれたことで北方の産品が上方に流れることになり商品経済が花開いていく訳であるが支えた物流基盤がこんな小さな船であったというのが感慨深い。

江戸図屏風があった。
ここには五重の天守を持つ江戸城が描かれている。
城下も日本の首都としての格をようやく表している。
他に江戸期に作成された日本地図が数点展示されており時間があればいつまででもみていられるようなモノである。

第5展示室は近代、明治から昭和初期、ようやく現代への予感が出てくる。

そして最後の第6展示室が現代。
この時代は戦争の時代でもあった。
軍事マニアとしては三八式歩兵銃の実物、持ち上げてみると相当重い。
使用時で約4kg、大きいノートパソコンを抱えて走っているようなものであろう。
菊の花付きのこんな重いものを日本の兵隊さんは持って太平洋に散らばったのである。

佐倉には歩兵第二連隊が駐屯していた。
佐倉城に陣取っていたその姿が再現模型になっている。
これが最大の収穫、佐倉藩時代の建物は全て撤去されているが縄張はよくわかる。

歴博があるところはかつて椎木曲輪という広大な曲輪であった。
そこから本丸方向に幾重もの空堀がめぐらされ、天守側には水堀と出丸、帯曲輪が陸軍時代にも残っていたことがわかる。
欲をいえば藩政時代の城郭再現模型を置いて欲しかった。

現代の展示は日清から太平洋戦争、戦後の復興と続いていく。

展示を終わる最後の扉の脇には何と「ゴジラ」。
これはこれでトピックではありゴジラが原子力開発へのアンチテーゼではあったわけだがコレで終わるのもどうかと思う。

さて雨も止んだようで佐倉城址をみる。
 
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歴博エントランス
 

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土偶、本物の持つオーラはない

 
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箸墓古墳
 

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中世武士の館
 

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朝倉氏館
 

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京の町家、信長秀吉時代はこうであった
 

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室町時代の朱印船
  

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江戸図屏風、江戸城部分
 
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陸軍第二連隊時代の佐倉城


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ゴジラに見送られて展示が終わる 




江戸城防衛線 100名城No.20、佐倉城址

2011年08月03日 | 日本100名城・続100名城

猛暑が一服している中、佐倉に出かけた。

私は武蔵野に住んでいる。
実家やら仕事の都合というのは概ね、西の方に用事がありがちであり上野の向こうに行くことはほとんどない。
幕張でもずいぶん遠いと思ってしまうから佐倉というのはちょっとした旅気分になる。
東に足が向かないもうひとつの理由としてそちらに史跡に興味を引くものが見つかりにくいということもある。
房総半島というと10年前に市原にサッカーをしにいったことがあるくらいで恥ずかしい。
律令制でいうと房総半島は上総国と安房国になるが、安房というと死ぬまでに行くことがあるかどうか自信がない。

佐倉に行くことにしたのは日本100名城巡りに佐倉城が入っているからであって格別の思いはない。
ついでながら佐倉は下総国であって上総国に行ったことにはならない。

調布から佐倉へは京王線直通の都営新宿線で終点の本八幡まで行き、京成線に乗り換えて京成佐倉まで都合2時間ちょっと真東に行く。
新幹線で名古屋まで行けそうな時間感である。

ちなみに江戸城を中心にすると箱根まで80km、八王子まで50km、佐倉まで40km、水戸まで100km、宇都宮まで100km、昔、忍といった行田まで60km、高崎まで100km。
この広大な関東平野を守るのは難しい。

戦国時代には北条氏が関東一円を支配した。
その防衛戦略は同心円状に支城を配し外輪で時間をかせぎつつ本城小田原から救援に行く。
あるいは小田原にサザエのように閉じこもり敵が引き上げるのを待つというものであった。

江戸に入った徳川家康も同様に関東平野に入ってくる街道に押さえの城を築き、股肱の将を配した。
東海道は小田原に大久保忠世(後に忠隣)、徳川四天王を中山道高崎に始めは井伊直政、後に酒井忠次の長男家次、下野館林に榊原康政、房総半島大多喜に本多忠勝、奥州への玄関宇都宮には家康の娘を母とする奥平家昌を置いた。

江戸幕府は中央官僚を譜代大名が構成し外様には厳しく門を閉ざし、商業都市、鉱山は全て幕府が天領として掌握した。
よって関東平野には危険な外様はおらず徳川帝国の様相を呈した。
ただし、座敷の中にいる譜代大名にはせいぜい10万石しか与えず軍事力を削いだから譜代大名は表向きカネはなくても権威はあるということになった。

関東の小都市には中央で名を成す譜代大名がいたと考えればよく、川越には知恵伊豆松平信綱、忍には阿部氏、古河には堀田氏そして佐倉には土井利勝が入った。

江戸時代の高官たる譜代大名は政治で名を成すものであってしかも江戸幕府はろくな政策を取らなかったから譜代大名の記憶は薄い、せいぜい事件、失脚で名を残すのみであるから「城」との結びつきはさらに薄い。
ふつう、私もそうだが戦国時代の戦の中で城が築かれ歴史を刻むということからいえば関東の諸城は何とも記憶しにくい。
歴史がないといえば地元の人に怒られそうだが、「つはもの共の夢」が浮かばないのである。

さて突然降り出した雨の中、京成佐倉の駅から佐倉城址へ歩いて行く。
城としての予備知識がほとんどないままに近づいていくと樹勢旺盛な丘が現れてきた。
城と思わなければ前方後円墳のような地形である。
これが佐倉城址に違いないとすぐに判明する。そしてこの丘はでかい。

行動沿いに行くと水堀に達する。
端を渡るとかつて城門があったらしく左右に土塁が続いている。
西国の城なら石垣で囲まれた桝形があるはずだがいかにも味気ない。

城址公園の方に坂道を登っていく途中に臼杵大仏のレプリカが鎮座している。
どういう経緯でここにあるかはわからない。

佐倉城址は今、国立歴史民俗博物館が入り、むしろこちらの方が知名度が高いと思われる。
日本に国立博物館は上野、奈良、京都、博多の4つの他に大阪に民俗学博物館、上野に科学博物館がある。
なぜ佐倉にこれがあるのかよく知らないが佐倉城がこれを抱えているというのは地元の誇りになるのかもしれない。

雨の中歩いてきたので休憩雨宿りを兼ねて入ってみる。  

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佐倉城外堀、かつては三十間堀
 

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三の丸への虎口
 

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国宝臼杵石仏のレプリカ