誕生日ということで家人に鰻をごちそうになった。
八王子からの帰りに日野市の有名店、「うなぎ藤田」である。
うな重の「山」を注文。
ここは浜松本店の出店、うなぎはすべて国内産。
一度、蒸す。
丁寧な仕事であってうまい。
が、蒸すのはもったないなあといつも思う。
うなぎ藤田
墓参りついでに八王子城址に寄った。
八王子市内方面から来て東京霊園のひとつ手前の信号を西に入る。
しばらく住宅街の坂を登っていくと駐車場がある。
クルマを停め、少し行くと管理棟。
ここにはボランティアの人が詰めており、お願いするとガイドをしてくれる。
管理棟からすぐ山道に入る。よく整備されているためハイキングコース然としてはいるが正しく「山城」である。どの道も本丸へ登っていく道に相違ない。
この山城ぶりがありありと想像できるところが八王子城のおもしろさであることにすぐ気づく。
しかも規模は予想を超えて大きい。
八王子城は戦国時代、北条氏照が築いた城である。概ね天正15年(1587)の築城とされている。
甲斐へ通じる小仏峠から侵入する敵への抑えであったろう。
この時期、北条氏の拠点は小田原にあり、関東平野の西の端を山々を頼りに防衛戦を張った。
備える相手はかつて関東の覇を争った上杉でも武田でも佐竹でもなく、俄に天下を取った豊臣秀吉である。
箱根の険から漏れ聞いてくるこの小男の動静に心穏やかではなかったはずだ。
天正15年とは島津が屈した年である。
秀吉は1590年、天正18年に来た。
秀吉は大軍で小田原城を包囲しつつ、周囲の北条勢を見せしめに嬲った。
八王子城に向かったのがかつて関東管領を継いだ上杉謙信の後継景勝、それに前田利家の勢である。
直江兼継も真田昌幸も行き、そして城はわずか半日で落ちる。
豊臣のスター軍団とは兵数も練度もかなわなかったろうがどれほどの兵力差があろうとも山城はそうたやすく落ちるものではない。
実力よりも時勢の勢いが勝ったのだろう。
八王子が落ちた後、ほどなく小田原城は落ちた。
この城は落城の後、江戸時代に入っても再興されることはなかった。
つまり北条の墜ちたそのままに自然が保存している。
今は空堀にかかる曳橋が再現され焼け跡も残る石垣が復元されている。
御殿跡は一面野原である。
さらに登れば本丸跡があり、山頂からは関東平野が望めるそうだが今日は行けなかった。
またの楽しみである。
御殿(御主殿)跡へ通じる曳橋(復元)
御殿への門(模擬)
石垣、広範囲にわたりこうした石垣が復興されている
石垣に用いられる石は他地域のものとは異なるようにみえる、エッジが鋭角。所々、焼け跡があるようにもみえる。
夕暮れの中、羽黒山から家路に着く。
何となく最上川沿いにいってみたく、長井市から南陽市、米沢と戻って東北自動車道経由で帰って来た。
一般道は真っ暗でクルマを見てみると虫がびっしりと付着していた。
5/28に出発してから6日間、会津山形と取材撮影、当初の目標は概ね達成できた。
東北地方というよりも東京より北のエリアは西国育ちの我が身としては馴染みが薄く何もかもが新鮮である。
特に白河関より北はさらに印象を持ち得なかった。
新幹線や航空機で旅先までぴゅっと行ってしまうと途中の様子やら古の旅人が見たものを追体験できない。
その点、クルマで回るというのは実にいい経験になる。
移動に時間はかかるが、途中いろいろな想いをしながらダラダラとドライブしているのもいい過ごし方になる。
昨年5月に13年連れ添ったUSアコードワゴンからBMWの530iに乗り換えた。
長距離を移動するのが全く苦にならなくなったのはBMWの性能に帰するところが大きい。
何時間走り続けても体に負担が少なく、むしろ疲れが取れる。
クルマで移動する利点は荷物の大きさ多さを気にしないで済むこと。
要りそうなものを厳選する必要がなく、もしも用も含めていろいろ積んでいける。
これからあちこち見聞を広めていきたい。
自動車道を上って羽黒山上へ。
芭蕉の銅像と句碑が立っている。
芭蕉は旧暦6月5日に羽黒神社に参詣、翌日月山に登って野宿で一泊、湯殿山に回った。
句はそれぞれこう。
「涼しさや ほの三か月の 羽黒山」
「雲の峰 いくつ崩れて 月の山」
「語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな」
三神合祭殿は修理の工事中で足場で覆われていた。
萱葺の重厚な建物で江戸時代後期の再建。
最後に出羽三山歴史博物館で三山の足取りを勉強。
まだまだ東北の歴史勉強はほんの入口である。
羽黒山に向けて走っていると巨大な赤い鳥居が出現。
これが羽黒山の一の鳥居、その先の山が羽黒山。
境内の案内板をしげしげとみると三神合祭殿までクルマで登れることがわかったので一度引き返してくることにする。
駐車場のすぐ先が随神門、くぐるとそこから先は深い杉林の中。
木漏れ日に緑が映えて神々しい。
最近雨でも降ったのか一帯がしっとりとしており小川がそこかしこに流れている。
羽黒神社は羽黒権現を祀る。
由緒は社殿によればこう。
神代の人が火山活動が続く出羽三山に神を感じていた。
推古元年(593)、蘇我氏の横暴によって暗殺された崇峻天皇の遺児、蜂子皇子が海路はるばる逃れてきて3本足のカラスに導かれて羽黒山にたどり着き修行を積んでいた。
皇子はついに伊氏波神(いではのかみ)を感得、羽黒山に出羽(いでは)神社を祀った。
「出羽国」はこの羽黒権現が起源にあることになろうか。
伊氏波神は五穀豊穣、大漁満足、人民息災、万民快楽などをもたらす神として敬われた。
西国の農耕など最新技術が導入された経緯を皇子に仮託したのかもしれない。
羽黒山の出羽神社は伊氏波神と稲倉魂命(うかのみたのみこと)、月山神社は月読命、湯殿山は大山祇命と大己貴命(オオクヌヌシ)と少彦名命の三神を祀る。
その後、出羽三山は修験道の聖地として大いに栄えた。
羽黒山は現世利益をもたらし月山で死の世界に入り、湯殿山で再生する「三関三度の霊山」となった。
神仏習合や修験道と密接な関係にあるのが空海、今は五重塔が残るのみであるがかつては一帯に伽藍が林立していたのであろう。
国宝五重塔は少し下ったところにあって杉木立の間から徐々にみえてくる。
周囲に目立つ建物がない中に塔のみがぽつんと立っている様は詩情をくすぐられる。
修験道と真言密教が合体した京でいえば醍醐寺のような有様を想像したくなる。
傍に樹齢千年を超えるという「爺杉」。かつては「婆杉」もあったらしいが台風で倒れた。
五重塔から羽黒神社に到る参道は一ノ坂から登りになる。
御堂や滝などが点在していかにもパワースポットといえそうだが、今日は楽をするため引き返しクルマで上まで行く。
取材最終日、最後に回るのは出羽三山の羽黒山神社。
出羽三山とは羽黒山、月山、湯殿山。
それぞれの山に神社の本宮がある。
全て行ける余裕がないので今日は羽黒山へ行く。
盆地の山形市から西へ向かうと月山がみえてきた。
国道112号で行くと途中に寒河江ダムの展望広場、何を展望するかというと噴水。
日本一112mの高さがある。
待っているとやおら噴水が始まった。
天気がよく風がないのでよく上がっている。
月山湖から少し西へ行ったところから登っていくと月山神社、湯殿山神社。
いずれも結構な登山を経ないと本宮までは行けない。
湯殿山にはミイラとなった即身仏が祀られており一部は拝観できる。
これにもの凄く後ろ髪引かれる思いであるがまたの機会のためにとっておく。
朝一で天童市役所を訪問、資料をもらう。
天童には織田信雄を祖とする織田氏が幕末に入って立藩。
お約束のように財政困難に陥り、窮余の策として将棋の駒を武家の内職として奨励し、これが現在に到るまで「将棋の町天童」というブランドを作った。
名家の子孫は米沢の上杉家もそうであるが家臣のプライドが高く過去の栄光にすがった。
天童藩は2万石に過ぎず城持大名になれなかったため陣屋を設けた。
信長の直系子孫がはるか天童で将棋の駒を作られていたかと思うと感慨深い。
駅前にある天童市将棋資料館を訪ねてみた。
将棋の歴史が実に詳しく解説されていて勉強になった。
将棋の起源は古代インド、軍の図上演習を模した「チャトランガ」なのだという。
次は若松寺(じゃくしょうじ)、「めでためでたの若松様よ」の花笠音頭に出てくるお寺である。
開山は行基であるといい、円仁が立石寺の御堂を移したという観音堂が重文である。
境内からは遠く月山がみえている。
出羽三山が今日の目標。
気分が乗ってきた。
泊まっているホテルの道向こうがそばの名店「水車」。
それほど混んでもおらず、「板そば」を注文。
これが特筆もののそばだった。
私は信州そばなど「白いそば」は嫌いではないが越前そばなど「黒く固い」そばが大好き。
ここのそばはまた来たくなるうまさであった。
宿はホテル王将、さすが将棋の町である。
こちらも巨大将棋のコマが鎮座する大浴場などいい宿だった。
立石寺から山形市内に戻った。
山形市役所に少し取材に行った後、山形城へ。
今日は資料館が閉まっているので写真を撮るだけの散歩。
山形城は最上氏の居城として使われ、関ケ原後に最上義光が57万石の大名となると身代にふさわしい城郭として大規模に拡張した。
平城で上方風に水堀で囲まれた方形の縄張をしている。
城下町は山手の方に築かれ町方の方が城より高いところにある珍しい構成になっている。
二の丸大手門が1991年に復元、さらに復元が進んでいく予定。
最上氏が義光の死後御家騒動で没落すると所領は分割され山形藩の規模が縮小、鳥居家が20万石で入った。
鳥居家が断絶すると保科正之が寛永13年(1636)に高遠3万石から大幅加増で入封、正之は将軍家光の実弟であることから大いに期待されての登用である。
正之は山形で藩政改革に取組み、実績を上げて評価を高め会津23万石に異動、以後は譜代の腰掛けとなってキャリアパスのひとつになっていった。
せっかくの巨城は財政を悪化させる悩みのタネ、維持に難儀したという。
訪ねてみれば復元された大手門は風格があり桝形も上方の城と全く遜色ない。
二の丸の外に水堀が残されていていかにも本丸のようにみえるが、往時は内側にもうひとつ水堀があって本丸を形成していた。
今では野球場ができてしまったことから面影もない。
しかしこの城の魅力は何といっても最上義光像。
文句なしに美しくみているこちらも気分が高揚する名作。
躍動感を生み出すポイントは乗馬が2本足で立っているところ。
いかにも重心が高くなり強度上やりたくないデザインであるが見事に安定した姿勢である。
夕暮れの中、野良ネコたちと一緒に見惚れた。
立石寺に到着。
通称「山寺」の名を高めているのは芭蕉の句。
「閑さや 岩にしみいる 蝉の声」
せっかく山形に来たからにはその風景を心に刻んでおきたい。
開山は貞観2年(860)、清和天皇の勅願を受けた慈覚大師円仁による。
円仁は下野の生まれで延暦寺に上って最澄に学びその後継者となった。
東国に来訪した際、立石寺の他に仙台瑞巌寺も円仁ゆかりである。
立石寺は明確に東国の叡山の位置づけにあった。
日枝神社があることもそうであり、不滅の法灯を維持していることもそうである。
延暦寺が信長の焼き討ちに遭った際、途絶えた法灯はここから戻され再度点されている。
登山口から入ると根本中堂が山門の外にある。
日枝神社、鐘楼を過ぎると山門、ここから登りがきつくなる。
姥堂の下が地獄、上が極楽という趣向でここで着替えて登るに従い煩悩を落としていく。
少し登ると芭蕉のせみ塚。
途中で道が分かれそのまま行くと奥の院と大仏殿、左へ行くと開山堂と五大堂。
今日は五大堂へ行く。
開山堂は岩の上に立っていて慈覚大師円仁が葬られている。
五大堂からの眺めは絶景、里を見おろす。
ところどころに岩肌が露出しひとつひとつの岩肌に神仏が貼り付いているようだ。
季節としては蝉がなくにはまだ早いのが少し残念。
米沢の取材は会津同様順調。
次は山形である。
米沢を出る前に直江兼続が築かせたという石堤を見に行く。
直江兼続は米沢の暴れ川に石堤を用いた。
城の石垣のように丸石を積み上げるもので工事には武家も参加したという。
現在ではごく一部が残るのみで往時の様相を残してはいない。
さて、山形市は米沢から北へ50kmほど、南陽市、上山市と抜けると山形市内。
山形に来た目的は伊達氏と抗争した最上氏のこと、それに天童市を訪ねることにある。
山形の戦国最終局面は最上対伊達の構図となった。
この両者は微妙な関係で最上義光の妹婿が伊達政宗。
かつて1987年の大河ドラマ「独眼竜政宗」の舞台のひとつが山形あたりである。
政宗のライバル最上義光は一代で最上氏を復興した地元の英雄。
最上氏は足利一族斯波氏のひとつ。
南北朝時代に北畠顕家と争った斯波兼頼が奥州に下向、山形城を築いた。
斯波氏は奥州探題に大崎氏、羽州探題に最上氏と土地の名を持つ枝族に支配させこれが戦国時代の下地になった。
最上氏は寒河江氏、長井氏、天童氏など現在の市長村名を名乗る国衆を従えていく。
その完成形が義光となる。
最上といえば最上川、芭蕉の句でも名高い。
その辺、土地勘を養いつつ歩いてみたい。
林泉寺の向かいが米沢ラーメンの有名店「やまとや山大前店」。
こちらは牛脂をふんだんに使った濃厚味で典型的な米沢ラーメンとは違うらしい。
確かに昨日の夕食、熊文さんのとは随分違うが美味かった。
これにて米沢を離れて山形方面に出発。
今日は米沢市役所にまず訪問。
観光課の人から話を聞く。
こちらは観光客入込数や施設の集客状況など聞き取り、最新事情など教えていただくと共に話題のスポットなどを取材するだけなのだが、対応してくれた人が猜疑心丸出しで閉口した。
と愚痴っても仕方ないので昨日の残りの取材で林泉寺へ。
林泉寺とは曹洞宗の寺院、元々は春日山にあった越後守護代長尾氏の菩提寺である。
謙信は幼少期に林泉寺で学び、関東管領上杉氏の名跡を継いだ後も住職天育と親交を絶やさず部下の横暴に悩んで出家した際も手紙を書いている。
そんな間柄であるから上杉家が会津に行けば会津に、米沢に行けば米沢に着いていった。
米沢に移ることに際しては謙信の姉にして景勝の母、仙洞院の強い意向があったという。
上杉家の廟所は昨日いった米沢城外にあるが、林泉寺には藩主以外の上杉ゆかりの人々が葬られている。
中でも直江兼続夫妻の墓は放映中の大河ドラマ「天地人」の影響もあってか有名になっているらしい。
お寺は開放的で田んぼの中に杉が生い茂る一角があり、周りを囲うものもなくあっけらかんとしている。
兼続夫妻の墓は夫婦それぞれ一基筒ずつ全く同じ形のものが仲良く並んでいる。
夫人の墓が同じサイズというのは珍しい。
兼続は側室も置かず夫人と仲良しだったようだが子に恵まれず養子も取らずで直江家は断絶してしまった。
他にも仙洞院、景勝の正室となった武田信玄の娘、菊姫の墓や武田家滅亡時に菊姫にかくまわれて命を拾った信玄七男信清の墓も当地にある。