会津に入って山形から仙台に抜け奥州街道を南下した旅は小峰城で終わった。
何とも忙しい旅であったが蒲生氏郷と伊達政宗の足跡をたどることは思った以上に楽しかった。
特に戦国の男たちが駆けたであろう道の上を行くことはたとえ町の姿は変わっても山河のたたずまいはそう変わるものではなかろう。
日本という国土は山深く盆地が生活の中心であった。
古の町というのはほとんどが山裾に形成される。
これは東北では他の地域よりも濃厚である。
会津、米沢、山形、仙台、白石、二本松、白河と城のある町は街道という串で順に差された団子である。
これを実感するにはクルマでゆるゆると行くのが最もよい。
気が重いことに「停車してはいけないクルマ」で調布まで帰らねばならない。
名残に白河ラーメンの店を探し腹ごしらえしてから帰途に着いた。
調布までは200km。
18:00頃からやっかいな仕事をはじめ奇跡的に何事もなく帰宅した。
日付が変わろうとしていたが不思議に疲労感はなかった。
国道4号、停止自粛の旅路は順調であった。
ほとんどトラブることもなく白河市に入り、小峰城に到達した。
小峰城の前史のことはこちらに書いた。
復元天守にも登っており3年前の私はいい評価をしている。
用事としては以前、もらした100名城のスタンプ押印をすれば終わりである。
近世城郭としての小峰城は丹羽長重によって整備され西国風の石垣と三層の天守を持つ。
今日は天守に登るどころか本丸に入場できない。
3月11日の震災で小峰城の石垣は大きく崩壊し復旧の目処が立っていないらしい。
遠目にみれば天守は優雅に夕陽にあたっているのだが石垣はひどいことになっている。
今朝、白石城で会った人が「小峰の石組みはいい加減なものだから」と言っていたがなるほど裏込めの栗石など詰まっていないことは崩落面をみればわかる。
白河市は東日本大震災の際、震度6強の被害に見まわれた。
震度6という状態がどういうものか経験したことがないので実感が湧かない。
資料館の人と少し話をしたが人的被害は小さかったというのが不幸中の幸いである。
ともあれそんな状態なので本丸の水堀沿いに一周してみることにした。
これがなかなか大変で駐車場に戻るのに時間がかかった。
本丸の水堀はそのまま螺旋状に三の丸の外堀となり惣堀となっているのであった。
旧城下はすっかり住宅地になっていたが仮設住宅が何棟か建っていた。
おそらく原発事故から逃れて来た人が避難していることと思うが、城を使ってもらうとはやさしいことだと思った。
崩落した石垣、全面崩れている
二本松から4号線をさらに南下していく。
二本松市の次に郡山市、郡山市北部から西へ行けば会津若松市、郡山はTの文字を右に90度倒した交差点にあたりこうしてみると奥州街道と会津方面への交通の要衝であることがわかる。
おそらく古代から物流の要として機能していたが幕藩時代、ここに雄藩がおかれることはなかった。
今日の郡山圏の繁栄は明治初期、大久保利通が主導した安積疏水による開発を起源とする。
若い町である。
そして郡山の東が田村市、ここは政宗の正室愛姫の郷である。
さらに東、浜通に出れば福島第一原発がある。
浜通りはここで放射線によって分断されている。
今日もおそらく平時よりは多い放射線量が観測されているだろう。
ただし街道も両側の町並も震災の影響というのは感じられない。
郡山の南が須賀川市、政宗の時代には二階堂氏が須賀川城に拠っていた。
このあたりはすでに常陸の佐竹の影響圏内であり仙道の諸大名は北の伊達、東の相馬、西の蘆名と周囲がいつ山を越えて押し寄せるかに敏感であった。
須賀川にはちょっと用事があった。
私は甘いものには目がないのであるが、須賀川に本店がある「くまたぱん」なる菓子を買いに行くのである。
4号線を東へ少し入ったところに店があるのだが、ちょうど交差点の左折車線に入ったところで異変が起きた。
突然、車体が振動しだしものすごい異音がする。
4号線を離れて空き地にクルマを停めて原因を探る。
最初はパンクを疑ったが異常はない。
どうやら二本松で発見したラジエーターの前にあるファンが回ると周囲に干渉して異音と振動になっているらしい。
エンジンを止めれば症状は当然起きない。
緊急措置としてファンの羽根をすべて強引に切り取ってみた。
理論上はぶつかる羽根を取れば振動するはずがないのであるが症状が収まらない。
以後の選択肢としては、修理工場にクルマを預けて電車で帰るかというのもありうるがどうやら走行している限りファンが回らず何事もなく走行可能であることがわかりいけるところまでいくことにした。
「くまたぱん」を買い込み4号線に戻る。
思った通り交差点で信号待ちをすると盛大に振動する。
よって可能な限り止まらないよう交通量と前方の信号のパターンを推測して走り続けるという試練の旅路となった。
何とはなしに奥州の歴史のような試練かと思った。
走り続けなければ滅ぶということである。
白石城から国道4号線で南下を始める。
白石の盆地を抜けると国見町。
県境を越えて盆地に下ったところが源頼朝が奥州藤原氏征伐で突破した阿津賀志山防塁である。
その先が福島盆地、福島県の県庁所在地である。
会津の蒲生氏郷は葛西大崎一揆の原因を作った木村父子を杉目城主に任じた。
その際に杉目城が福島城と改称され今日の福島市につながっていく。
巷間、福島の命名者は木村吉清ということにされているがこれは地名の改称好きの蒲生氏郷の意向と発案と思われる。
不名誉の敗将にそこまでの気概も資格もあるまい。
ところで福島県庁が福島市におかれた経緯は戊辰戦争の影響ともいわれるがいかがだろう。
単純に考えれば人馬による街道から鉄道に経済の動脈が置き換わることを見越し、旧奥州街道を重視したと考えたのではないか。
福島県は山脈により三地域に分断されている。
古代より陸路上は会津が確かに街道の交差点であったことは事実であるが幕藩体制下で社会構造は大きく変わった。
とりわけ宮城野に伊達政宗が一大都市圏を構築してしまったことは東京から東北に至るルートを決定づけたといえまいか。
福島市の先が二本松市である。
二本松城が今日のふたつめの目標になる。
二本松城といえば戊辰戦争時に落城し命運尽きる悲劇の城でもあるが私にとっては政宗の宿敵、畠山氏の城という印象が強い。
ちょっといただけない資料館で100名城のスタンプを押し、城に向かったところでトラブル勃発。
クルマの水温計が異常値を示す。
城址公園の駐車場がたいへん混雑していた。
何とか駐車スペースをみつけてボンネットを開けてみるとラジエーターの前にあるファンの羽が割れていた。
9月に近江に出かけた際、ラジエーターのポンプにヒビが入り交換してあったのだがまたしても冷却系のトラブルである。
ともあれ城をみる。
二本松城は山城である。
城に来る道からも山頂の本丸石垣が高々としている。
城山の標高が高いためちょっと間延びしているが丸亀城のような面構えである。
山麓の二の丸部分は西国の近世城郭と見まごうばかりであって高石垣に守られた桝形の箕輪門はここが奥州であることを忘れさせてしまう。
本丸は二の丸からはるかに登っていかねばならない。
戦国時代、政宗と戦っていた頃は本丸が主役であった。
土の城が近世城郭に変容していくのは会津の領主の業績である。
白石城を蒲生氏郷が手がけたように二本松城の骨格は蒲生家時代になされた。
本丸の石組みもこのときという。
途中上杉時代を経て蒲生家が去り加藤嘉明が伊予からやってくると鶴ヶ城同様に二本松城にも手を入れた。
さらに加藤家の後に封じられた丹羽光重が三の丸部分を整備し陸奥の近世城郭が完成する。
光重の父、丹羽長重のことは前回小峰城を訪れた際に少し書いた。
織田信長の古参の重臣、丹羽長秀の嫡男である。
安土城の作事奉行を務めた長秀以来、この家には築城の才が伝えられた。
安土城の命脈がここまで来たのである。
そして安土城に感化された蒲生氏郷の松坂城、鶴ヶ城の系譜もここにあるわけだ。
そうと思って石垣などみれば何やら安土城の面影がみえてくるような気もする。
箕輪門の厳格さは加藤嘉明の松山城の雰囲気もある。
二の丸から本丸までゆるゆると昇っていく。
途中、日影の井戸やら池水などもありさほどつらくはない。
つらいのは震災の影響で石垣が崩れ本丸入域禁止の方であった。
見上げる限りは崩壊しているような気配はない。
入場を拒むロープのところで逡巡していると同じように登って来た地元の方も同じ思いであった。
「行きますか」と気が合いロープを越えた。
本丸の石組は全て平成の世の積み直しである。
ただし石垣は二段になっており間に犬走りがある。
下の段のものは当初のものらしく草生しているのがいい。
これは蒲生時代のものであろうが懐かしく感じられた。
虎口を抜け本丸に入ってみれば周囲一帯視界が抜けた。
文字通り奥州の脂身のような沃野が一望である。
安達太良山の山裾が優雅にみえる。
伊達政宗が駆け回った大地をながめると旅の終わりの感慨がひときわ深い。
政宗はこの城を苦労して獲った。
城主の畠山氏というのは奥州の名家である。
家祖の畠山重忠は源頼朝時代の人である。
頼朝が旗挙げした際には敵対したが安房から再起を遂げた頼朝に従い功あって重きを成した。
元々は秩父平氏であるが同じ坂東平氏の北条と折悪く排斥されて死んだ。
鎌倉幕府第一等の功臣の家名が絶えるのを惜しんだ周囲は足利義兼に畠山を継がせた。
義兼の父は足利氏の家祖義康である。
本来平氏の畠山氏は源氏に代わった訳だ。
畠山氏は室町幕府成立期には中興し奥州管領となる。
畠山氏に代わって奥州探題の地位を得たのが大崎氏、地位を失った畠山氏が二本松に拠ったため二本松氏と称することになる。
すでに一地方豪族の地位に落ちぶれたとはいえ、「伊達など出来星ではないか」と見下していたかも知れない。
奥州街道を睥睨できるこの山城に立ったとき、小山の大将の気分がした。
二の丸まで戻って柏屋の薄皮饅頭を買った。
さて、この後は小峰城まで行く。
時計は13:30、16:00までに着けばいいのでゆるりと4号線を行くことにした。
気がかりはクルマの不調である。
冷却水位が十分なのを確認し、急場のしのぎとして割れたファンの羽根を取っておいた。
二本松城箕輪門
本丸の石垣
蒲生時代の石垣
奥州取材の最終日は白石城から始める。
国道457号線を降りていくと白石市である。
福島県と宮城県の県境にあたり向こうは伊達市になる。
律令制下では刈田郡というこのあたりは何とも微妙な位置にあった。
奥州戦国時代は秀吉の奥州仕置で終わるわけだが、それ以前福島県東部を相馬氏、会津を蘆名氏が支配し中部に割拠する勢力は周囲の大名の強さにより揺れた。
ここに米沢を本拠とする伊達政宗、蘆名を支援する常陸の佐竹が介入する。
刈田郡白石城は元々刈田氏というのが城主であるが早々に伊達に帰属した。
南の伊達郡はもちろん伊達氏の本貫の地、政宗の根拠地である。
南へ行けば隣が二本松、政宗はここで父を失った。
人取橋の合戦で窮地に陥るなど政宗にとって奥州街道の福島県側が最も思い出に残るであろう戦場なのである。
ところが政宗は秀吉によりまず会津を失い、鶺鴒の花押事件で名高い葛西大崎一揆の扇動容疑で仙道と呼ばれた現在の中通りの所領全てを失った。
先祖の墳墓の地も白石も同じである。
それらは丸ごと蒲生氏郷が預り築城の名手氏郷は会津若松城の大改修を始め北への押さえとして要衝に城を築き重臣を配していった。
白石城が近世城郭となるのはこの時であって石垣造り、三層天守を持つ形になった。
これは明快に伊達への備えである。
政宗が南下を志すとき真っ先に攻めてくるであろう出丸である。
これはすぐに現実になった。
関ヶ原の戦いが起こる前段階、家康が上杉征伐として東へ下った時、政宗と最上義光は一にも二にも家康支援に回り上杉景勝を北から牽制し封じ込める役割を負った。
上杉は別に領土的野心があった訳ではない。
西で家康が滅べばそれでよい。
ただし政宗はここで千載一遇の機会到来と考えた。
家康と交渉し「切り取った上杉領は伊達のもの」といういわゆる百万石のお墨付きを得た。
家康にしてみれば伊達も最上もおとなしく国境を固めていればそれでよい。
政宗は家康が小山から引き返していくと早速、白石城に攻めかかった。
小山の軍議が7月25日、まさにその日には白石城を得ていた。
政宗はまだまだ切り取るつもりであったろうが白石城から深入りすることはなかった。
庄内に飛び地があった上杉は米沢から最上領を挟撃せんとし山形城をめざした。
政宗は九州の黒田如水と同様、戦乱が長引くことを臨んだであろうし家康が討ち死にでもすればそれこそ天下人を現実の目標として考え得ただろう。
ところが関ヶ原の戦いが数時間で決し徳川の世が一気に来た。
ここに政宗の野望はついえるのである。
政宗は戦後の論功行賞にて百万石どころか白石城ひとつもらっただけであった。
白石城には片倉小十郎景綱を入れる。
一国一城令が敷かれた後も白石城は例外的に破却を免れた。
江戸期を通じて伊達領への玄関口として城下町が形成される。
奥羽越列藩同盟を決した評定はここで開かれている。
以上のようなことを念頭に白石城に来た。
政宗残念の城にみえてくる。
天守が復興されきれいに整備された城にしては駐車場というものがなく、ヨークベニマルの駐車場を拝借して登城口を行った。
天守脇の事務所で天守が開くのを待つ。
ボランティアのガイドの方と少し話したのだが3月11日の地震では天守の壁が損傷したものの被害は軽微であったという。
ハザマ組が天守復元を担当したといい石垣の石組には伝統工法を念頭に行ったとのことで「小峰城はいいかげんにやったものだからあんなことになった」と誇らしげだったのがおもしろい。
小峰城の石垣の惨状については今日の終わりに見ることになろう。
天守に一番乗りすると一階には片倉小十郎の復元具足と並んで真田信繁(幸村)の赤具足が置いてある。
幸村の次男と娘は大坂の陣の際、真田と干戈を交えた伊達の重臣片倉景綱の子、鬼の小十郎重長のに託された。
後に男子は仙台藩士となり娘は重長の継室になっている縁からであろう。
片倉家の家紋入りの陣笠や半月の前立ての兜もあり戯れにかぶってみた。
木造にて復元された天守は木肌も真新しく晴天の今日はぴかぴかと輝いている。
最上階からは四方が見渡せる。
蒲生氏郷の城はどれも石垣が美しい。
松坂城や鶴ヶ城ほどの規模はないが二の丸から本丸への虎口の守りは厳重である。
天守最上は火頭窓が平側にふたつ、妻側にひとつついており柔らかな印象を与えている。
全体の見た目としては上方風であり政宗の仙台城が天守を持たない山城であることもあり、上方と奥州の境にあって「ここから先は別の奥州」と言っているような気がした。
天守を降りて付属の資料館をのぞいてみた。
白石城の城下も含めたディオラマが置いてある。
他に片倉小十郎の肖像画などもあった。
白石は地元の人々からみれば明らかに小十郎の町である。
本来ならこの稿も小十郎の話を書いた方がいいのだろうが伊達政宗と地勢ということに気が取られてしまった。
帰りに駐車場代のつもりで土産を買い込んだ。
温麺というのはうどんとラーメンの合作のようであるが片倉小十郎の考案という。
白石城本丸の虎口
天守二様、火頭窓の数で表情が変わる
天守からの眺望
資料館にあった本丸の模型