扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

初見江戸城 100名城No.21、江戸城

2009年09月22日 | 日本100名城・続100名城

O君が当家に泊まり翌日は江戸城へ。

同じく同級生のM君も合流、恥ずかしながら江戸城の中に入るのは初めてである。

 

大手町の方から行くと水堀に土橋がかかっており大手門の桝形に入る。

一般人が入れるのは本丸と二の丸まで。

それにしても広い城である。

そして将軍の居城だけあって最新技術、最大の建造物にこだわっているのがわかる。

石垣の切込接なども諸大名の居城よりも大きな石を寸分狂いなく積んでいる。

天守台のある本丸には表から中奥、大奥とびっちりと建物が建ち並んでいたはずだが今は芝生の広場になっていて天守台のみがぽつんとしている。

二重橋も初めて見た。

 

東京に住んで10年を越えて来た。

江戸城は皇居としてとらえてきたが、これからは江戸城として眺めてみようと思った。


名城周遊 #8 100名城No.28、小諸城

2009年09月21日 | 日本100名城・続100名城

上田城から小諸城に。

小諸城は信濃を獲った武田信玄が築かせた城、一説に山本勘助の縄張という。

この城のおもしろいところは「穴城」であるところ、つまり主郭よりも大手門、大手門より城下町の方が標高が高いところにある。

攻め手は勾配を下って攻撃することになり通常は守り手の方が不利になる。

そのハンディをあえておかした理由は主郭が断崖絶壁にあることかもしれない。

小諸城は戦闘用の城というよりも立地的に大軍の行軍に際して補給地休憩地として機能した。

碓氷峠を越えて上州から来れば佐久平に入って上田平に向かう手前、関ケ原に向かう徳川別動隊は小諸城に前線基地を置いて上田城を攻撃した。

現在の小諸城は仙石秀久が拡張整備したもの、仙石は九州征伐の前哨戦で大失態、改易されてしばし浪人、復帰したのが小諸城主としてであった。

また秀久の古、忠政が大坂の陣の功で上田城に栄転。両城とも仙石ゆかりの城といえる。

 

さて城跡は戦国たけなわの頃の面影は石垣や大手門に残すのみで「懐古園」という名の公園になっている。

公園の設計は神宮の森や日比谷公園を設計した本多静六による。

回りを公園を散策するように歩く観光客の方々に混じっているとどうも気分が盛り上がらない。

穴城の縄張がよくわかるのは最も奥にある「水の手門」から眺める千曲川、まさに断崖絶壁である。

そしてこの門から千曲川に逃げることができたという。

 

昼飯にまた信州そばを喰らって名城周遊終了、少し早いが渋滞を避けるため東京に向かって出発。

しかし見事にはまって難儀した。

 


名城周遊 #7 100名城No.27、上田城

2009年09月21日 | 日本100名城・続100名城

朝、ホテルを出て上田城へ。

今日は真田鉄砲研究会の皆様が演武を行うとのことで大勢の人出、始まるのを待つ間に城内を見物。

上田城は徳川家との籠城戦を見事に戦い抜いたことで有名になった。

城跡は真田氏の後に入った仙石氏が上田城を整備、上田藩は仙石氏の後、藤井松平家が幕末まで上田城を政庁として使用したが、徳川に抵抗した城ということでほとんど手を入れられず今日の姿となっている。

真田家は昨日行った松代城に移って幕末まで存続、こちらの歴史もまたおもしろい。

 

鉄砲隊の演武は当然幸村指揮の赤備え、司会を何でも鑑定団でおなじみの澤田平氏が務めていた。

一斉発射、三段撃ち、大筒となかなか楽しめた。

 

 


名城周遊 #3 100名城No.38、岩村城

2009年09月20日 | 日本100名城・続100名城

岡高の同級生、O君を連れて東京へ帰ることにした。

O君も歴史好き、中央道を行って100名城巡りに付き合ってもらい岩村城、上田城など回ってみることにした。

岡崎でO君を拾って山中に分け入る。

 

岩村城は三大山城のひとつといい、他は高取城、備中松山城。

場所としては恵那市ではあるが中山道沿いではなくもうひとつ東の谷にある。

信濃との国境ではあるが恵那山が間にあるため信濃から侵攻するときは中津川から入ってくることになろうか。

山深いところであるから政争とは無縁で鎌倉初期から遠村氏が土着、国衆となった。

岩村城はその遠山氏の居館が前身、戦国時代に防衛上の必要から詰めの城を築いていった。

城に来てみれば噂通りに「女城主の里」とPRされている。

女城主とは遠山景任の妻、おつやの方のことである。

美濃・信濃の間にあって遠山氏は難しい政局に巻き込まれた。

斎藤家が勃興すれれば斎藤へ、武田が攻めてくれば武田に降り、織田が美濃を取れば織田にと時々の勢いで主を変えた。

遠山景任は信長と信玄が表面上いい関係にあるときに信長の父の妹を娶った。

おつやの方は景任死後に信長の五男を養子として迎えて遠山氏を継がせて自らが後見した。

女城主の誕生がこの時。

美濃の国境が織田方に転じたのをみた武田は秋山虎繁らを送って岩村城を開城させ虎繁がおつやの方を娶って遠山氏に変わって武田方の前線基地の意義を明快にした。

折しも信玄が西上途上で死去、後継の勝頼に仕えて美濃に孤立した。

長篠の合戦で武田が敗れて織田領国侵攻をあきらめると孤立無援の中、織田信忠に包囲されて虎繁は降伏。

虎繁は殺され、織田による武田重臣虐殺の最初となった。

信長は叔母にあたるおつやの方も磔にした。

よって女城主というのは悲劇をもって語られることになる。

 

さて、麓の資料館で勉強した跡に城へ登っていく。

岩を名に持つ城だけあって石垣が素晴らしい。

桝形は石垣で固められ扇の勾配の角度は逆反りになっている。

何故山城にここまでの石垣が必要なのかがよくわからない。

武田の城は石垣を使わない。

遠山景任の後に岩村城は河尻秀隆、ついで森長可、忠政と城主が変わる中で織豊系城郭としての整備がなされた。

彼等は織田家の若手エース格でプライドと美意識が高く要は見栄で石垣を高々と積んだのではなかろうか。

忠政は後に津山城というこれも石垣で有名になる城を設計する。

江戸時代には一門譜代の城となって明治維新、構造物が撤去されて草むす石垣のみの城跡となった。

 

 

 

 

 


名城周遊 #2 100名城No.42、掛川城

2009年09月16日 | 日本100名城・続100名城

東海道を西へ行き、大井川を越えると掛川。

掛川城は初めて登るが木造で復元されていて外から見ても内部を見てもとてもいい城になった。

そして御殿が残っているのは全国に四つしかないらしい。

掛川城・川越城・二条城・高知城がそう。

御殿からは天守が高々とみえており、この景観は掛川城のみである。

 

掛川城は遠州の東の要、西の要が浜松城。

駿府を武田に奪われた今川家は掛川城を最後の砦にする。

今川滅亡後は徳川の持城となって武田と対抗、徳川が関東に去ると山内一豊が入城、近世城郭に改変した。

一豊は長浜城から移って自分が手塩に掛けた掛川時代が懐かしかったらしく、土佐高知城を築いた際、掛川デザインの天守を作った。

訪ねてみれば新築間もない天守は木の香りがする。

御殿とセットでコンパクトに作られた本丸は箱庭のように美しい。

土産のあんこモチがおいしかった。

 


名城周遊 #1 100名城No.41 駿府城

2009年09月16日 | 日本100名城・続100名城

名古屋出張のついでに東海道の日本100名城を攻略。

一つ目は駿府城。

駿府とは駿河の国府のことで古代から駿河国の中心部ではあった。

とはいえ、駿府が広域行政の中心となるのは今川氏の領国となってからのこと。

戦国時代には全国に先がけて先進的な分国法を制定、義元が海道一の弓取りと称された。

駿府は家康が幼少期を過ごした後、甲斐武田の支配時期があり関ケ原後は家康が隠居城にした。

明治維新の後は最後の将軍慶喜がこれまた隠居してやってきた。

という時代の節目に登場する駿府城ではあるが今はビルに埋もれて面影が薄い。

近年ようやく復元工事が進みつつあり近世城郭の様相になってきた。

復元された御門や櫓の内部は資料展示が豊富にあって勉強になる。

 

 


100名城No.44 名古屋城の想い出

2009年09月02日 | 日本100名城・続100名城

名古屋城に行った。

この観光名所としては地味な城は、私に取って何とも感慨深い城である。
また、眺めた時間としては他に比例なく長い。
すなわち職場から見えた城であった。

1987年、昭和62年に大学を卒業し、社会に出た私は名古屋のNTTに配属された。
さして野望もないままに会社という組織の一員となった私は名古屋城の天守が何もさえぎるものなく見渡せるデスクで2年ほどを過ごす。

1985年に電電公社から民営化されて間もないNTTという会社は実にとんでもないところであった。
課長3人、係長1人、担当1人(これが私)といういびつなグループに放り込まれた。
社会を知らない新人ならではの悩みを共有できる仲間が身近にいない環境で相当につらかった。
上司や先輩はこの上なくいい人たちであったのは救いではあったが、この異空間に棲んだ2年間は私の勤め人としての生き方に決定的に作用したことと思う。

名古屋城とはそうした想い出の城である。酸味の効いた感情なしに見ることができない。

私が勤めたビルはまだ、NTTが入っていて事務処理部門がいる。OBとはいえよそ者がおいそれといける場所ではなくなっていた。
実は先輩が転勤でこのビルに入ることになったので20年前の光景をみられることになったのだ。

このビルの10Fには喫茶店が入っており、上司によく連れていかれ、さぼりにつきあった。

今、ふたたびここから名古屋城の天守をみる。

城の天守はふつうは見上げるものであって見下ろすことはそうない。
ここからはまさに見下ろすように見る。

名古屋城は復元天守である。しかも鉄筋コンクリートで土台をつくり、表皮だけを資料にもとづき再現したいわば「模型の天守」である。
この「オリジナルでもなく、外見だけをつくろった」ということだけに拘泥し私は長らく名古屋城を城として見ず、評価もしなかった。
むしろ、派手好きで見栄を張る一方、仲間意識に敏感でよそ者には門戸を閉ざす尾張衆の象徴とみえて仕方がなかった。

むろん、幼少時より何回か登城したこともあったが、エレベーターまで完備した天守の内部にはろくに見もせず、最上階からの眺望のみを期待した。

今、ここから見下ろしても名古屋城が完璧な平城であることがわかる。
周りに要害となるべき山も河もない。
まさに濃尾平野の尾張の部分、その真中に無造作に置いたようにみえる。

この城は、家康が老いてからもうけたかわいい息子のために縄張りし、家として建ててやった。
ここに籠もって決戦するつもりなどなく、おそらく西方でしか起こらないはずの反乱の際、兵力を集中させるための前線・兵站基地としてその役割を考えたろう。

この城は結局、軍事用としては何も機能せず、美術品として再評価された後、B29に焼かれた。

私は朝、出社し、天守を眺めながら上司の机を拭き、デスクワークに疲れるとまた天守を眺め、伊吹山系や美濃方面の山を見、夜には残業しながらライトアップされた天守を眺め、その灯も消え終電が無くなった頃タクシーで帰ったりもした。

名古屋城も日本の歴史との関係でいえば極めて希薄であり、私の人生にとってもこの時代の経験からくる成果は希薄である。
ただし、職場も会社も何度も変えた私にとってこの時代の人々との付き合いがいまだに最も多いことに改めて気づいた。

あれほど嫌いだった名古屋城を最近、愛おしく思うようになってきた。