扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

戦国奥州の男たち 四日目#22 政宗と瑞巌寺

2011年10月27日 | 世界遺産・国宝・重文

塩竈神社から松島へ海岸沿いを行く。

瑞巌寺は震災の影響で本堂他が修復中である。
しかし、これほど海岸に近くさほど高台でもない境内にしては津波被害の影響を感じることはできない。
3月11日には参道まで津波が押し寄せたらしいがすべて掃除されている。
これは寺の人々、住民の方々の努力のたまものであろう。
もちろん、津波を受け止めてくれた松島そのもののおかげでもある。

桃山文化の至宝、本堂がみられないのは残念であるがまず目に留まる庫裏の大屋根はここが屈指の禅寺であることを物語っている。

元々は禅寺ではなかった。
瑞巌寺は山形の立石寺と同様、桓武帝の皇子である淳和天皇の勅願寺である。
詔勅を持って慈覚大師円仁がやってきて延福寺として開いた。
「延」は叡山延暦寺の意であることは両寺共に官衙の鬼門に位置して明快である。
円仁は他に毛越寺と中尊寺も開いている。
この円仁奥羽四寺の中で瑞巌寺のみが天台宗を離れた。
禅寺になるのである。
鎌倉幕府の執権、北条時頼が強引に改宗させた。
時宗の父である。改宗時になかなか生臭い話が伝わっているがこの時円福寺となった。
「延」を「円」に代えるあたり感情的である。
さてこの禅寺は戦国時代、国府多賀城、国分寺などと共々衰微した。
奥州の中心というものが体をなさなくなった象徴といえようか。
伊達政宗が秀吉に押されて(推されてか)仙台を開かねばどうなっていたかわかるまい。

奥州藤原氏の滅亡の後、早々に最上氏という保護者を得た立石寺と異なり、これは「政宗のせい」である。
政宗の師が虎哉宗乙であったことは円福寺にとって幸いであった。
頭の上がらぬ虎哉和尚の勧めで政宗は一大復興事業の一環として円福寺を中興し瑞巌寺とした。
政宗の方も本意であったろう。
何かとうるさい最上義光おじさんの立石寺に比肩する檀那寺を得たのである。

庫裏から堂内に入ると大書院に政宗の位牌が移され展示されている。
位牌といえば黒漆の質素なものであるが政宗のものはさすがにごてごてと装飾がついている。
皆と同じはいやだと思ったに相違なかろう。

瑞巌寺は江戸幕府に「あれは伊達の外城ではないか」と疑われたという。
庫裏の煙出しは望楼の役目を負ったというし境内を囲む塀は土塁のようにもみえる。
ただし政宗にそこまでの気持ちはなかったはずだ。
政宗は籠城したことがなく、仮に幕府と一戦ということになれば国境を閉ざして籠もるはずがない。

宝物館によってみた。
ここに政宗の甲冑倚像がある。
政宗の死後、正妻の愛姫が生き写しに造らせたという。
右目は左目よりわずかに小さいが見開かれている。
なかなかに姿がいい。
隣のケースに例の五枚胴の具足が置いてある。
瑞巌寺とは実に政宗の寺である。

本堂が拝観中止となっている代わりに愛姫の霊廟が公開されている。
化粧直しをした御霊屋は夫のものより幾分小さくまた装飾も控えめであるが黒漆のてらてらを今日もみることができてうれしい。
愛姫は田村城主の娘、伊達家に嫁いで米沢、会津と政宗に連れられ京の秀吉に人質に出された。
側室のネコ殿に男子を先にあげられた後も政宗の寵愛を失わなかった。
戦国の妻にしては出色の人であろう。

順序としては逆になろうが瑞巌寺の参道を山門の方、すなわち海の方へ行った。
杉木立の左手は岩をくりぬき、三十三観音が並んでいる。

ここへは本堂修復なった折、また来ることになろう。
宿題である。
 
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案内図、拝観料はSUICAで払った

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庫裏、京の五山にひけをとらない


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