扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

坂東三十三観音遍路 1日目 -相模、四番海光山 長谷寺-

2015年02月27日 | 御遍路・札所

四番長谷寺へとぼとぼと歩く。

時刻は15:00になろうとしている。

下馬の交差点で海の方に向かい、一之鳥居をくぐって海の方に出る。

国道134号線を西へ行き、江ノ電長谷駅の方へ北上し参道に出た。

そろそろ腹の空く頃で、途中昼飯でも食うかと思っていたが何とはなしに着いてしまった。

 

長谷寺は坂東遍路の中でも屈指の大寺である。

不覚にもこれまで参詣したことがなかったが、宝物館などなかなかの規模と内容である。

大和の長谷寺もそうだが、長谷寺といえば巨大観音ということになろう。

ここの十一面観音は高さ9mといい日本最大らしい。

観音堂は一段高いところにあり、相模湾を一望した。

 

今日は一番から四番までで終了。

 

御詠歌 「長谷寺へ まいりて沖を ながむれば 由比のみぎはに 立つは白波」



坂東三十三観音遍路 1日目 -相模、三番祇園山 安養院 田代寺-

2015年02月27日 | 御遍路・札所

岩殿寺から三番田代寺に向かう。

八幡宮の方にもどっていく形となり名越の切り通しを抜ける。

道路は人車共に行くトンネルとなり、鬱蒼とした雰囲気である。

 

鎌倉七口のひとつ名越から歩いて行けるほどの距離であるから武家の首都たる鎌倉は広さからいえば実に狭い。

切り通しを開く前は鎌倉に入るのに山を踏み分けて行くか、稲村ヶ崎から海岸をゆくしかない。

「鎌倉は自然の要害」とは確かにそうであるものの泰平の世となれば使いにくい街である。

要害という割に鎌倉はよく落ちた。

 

さて、約3km歩いて安養院に納経。

安養院とは北条政子の法名である。

政子が頼朝の菩提を弔うために建立した寺が移転してきたのが当寺となる。

境内はこぢんまりとしている。

納経所の庫裏で若いお坊さんに四番の道を聞いたら、

「電車でもいいけど、天気も良いので歩いて行ったら」とのことで、歩いて行くことにした。

 

御詠歌 「枯樹にも 花咲く誓ひ 田代寺 世を信綱の 跡ぞ久しき」

 
   

 


坂東三十三観音遍路 1日目 -相模、二番海雲山 岩殿寺-

2015年02月27日 | 御遍路・札所

杉本寺から二番岩殿寺(がんでんじ)まで歩く。

約3kmほどの距離、住宅街を抜けて1時間足らずで到着。

住所は逗子市になる。

 

岩殿寺の縁起によれば、当寺は大和長谷寺開山の徳道上人が下向し、大岩に十一面観音を感得したという。

その後、行基が同じく岩に感じるところがあり十一面観音の石像を刻んだ。

源頼朝の参詣と保護があったといい、西国三十三遍路を定めたという花山法皇や後白河法皇の参詣があったともいうが頼朝はともかく、他二名のことはにわかに信じ難い。

おそらく権威づけの一環であったように思われる。

 

石碑がまず目に入り、そこで参道が目に入る。

杉本寺同様に石段を登ってゆき本堂に到る。

本堂は小ぎれいな納経所となっているが、観音堂はもっと上、階段をふうふう登った所にある。

途中、東屋があり振り返ると相模湾が三浦半島を借景に輝いている。

「岩殿観音」のいわれとなった観音堂はまさしく岩の中であった。

 

御詠歌 「たちよりて 天の岩戸を おし開き 仏をたのむ 身こそたのしき」

 

   


坂東三十三観音遍路 1日目 -相模、一番杉本寺-

2015年02月27日 | 御遍路・札所

親父殿の供養、義母の供養の一環として遍路をやることにした。

二義的には関東の歴史をもうちょっと深掘りしたいということもある。

 

いわゆる「日本百観音霊場」とは、

四国三十三観音、坂東三十三観音、秩父三十三観音をいう。

坂東の場合、鎌倉時代に様式が定まったようだ。

鎌倉の杉本寺を一番とし、西廻りに関東平野の主に山裾を回って行き、安房の那古寺で打納めとなる。

 

いつかは百箇所全てを回ってみたいものだがまずは本日を発願として坂東三十三観音を一番から行く。

城巡りもそうだが、できればクルマで昔の街道をたどっていきたいのであるが、今日は電車で行く。

 

まずは鎌倉の鶴岡八幡宮に参詣。

数年ぶりとなろうが前回と異なるのは大銀杏が無いこと。

2010年3月10日、暴風により根元から倒れてしまった。

 

八幡宮で御朱印をもらい、快晴の空の下、歩いて大蔵山杉本寺に行く。

1kmほどの行程である。

山門から石段を上っていくとこぢんまりとした御堂がある。

受付でまずは専用の納経帳を求め、遍路がスタートした。

四国遍路は常に大盛況であるが、こちらの方は閑かな佇まいで遍路装束の人もいない。

 

寺歴によれば、鎌倉最古の寺といい、開山は天平6年(734)、光明皇后の発願、藤原房前、行基によって建立という。

本尊は秘仏十一面観音で慈覚大師円仁、恵心僧都源信、行基のそれぞれ作という三体で構成されている。

仏教のスター達である。

杉本寺というのは、1189年、御堂を焼失させた火事が起こった際に三観音が自ら歩いて杉の木の下に避難したからという。
また、一帯は杉本城という中世の城郭で三浦一族の持ち物だったといい、南北朝の時代、北畠顕家が足利義詮を追って攻め落とした。
 
 

逸話として、杉本寺の門前を馬上行く者は必ず落馬していたが、蘭渓道隆()が行基作の十一面観音のお顔を袈裟で覆い隠したところ、落馬は収まったという。

ために行基作の観音像は「覆面観音」というらしい。

 

御詠歌

「頼みある しるべなりけり 杉本の 誓ひは末の 世にもかはらじ」

    

    


沼田の子守

2015年02月22日 | 取材・旅行記

義理の弟のところの娘っ子二人と我々夫婦でバス旅行に出かけた。

新宿駅に集合、バスで関越道に入り沼田に行く。

釣り堀でイワナを釣ってその場で焼いてもらい食す。

その後、うどん打ちの体験、昼飯。

 

この辺りはまだ雪が残っている。

沼田といえば北条と真田の間で城取を盛大にやったことが思い出される。

イチゴ狩りをやり最後は日帰り温泉で終了。

 

それにしても子供の世話というのはなかなか大変。

子育て世帯の苦労の一端を知る思いであった。

 

  


「偉人に学ぶ地方再生 Vol.1 山田方谷」配本開始

2015年02月20日 | 文筆業として

単著11作目、今回から「偉人に学ぶシリーズ」を立上げることになった。

編集会議で提案された山田方谷、農民の出から備中松山藩の家老、幕府老中板倉勝静のブレーンを務めた。

よく調べてみるとその藩政改革の内容と何より指導力がもの凄い。

今日最も必要とされる人材の見本。

備中松山城下を再訪したのも記憶に残るいい旅だった。


八王子墓参り

2015年02月04日 | 来た道

義母の命日で東京霊園に墓参り。

今日で亡くなってから丸三年。

日々、いろいろあったことをしばし思い出していた。

クルマで1時間の距離というのは行きやすくもありかといって日常でもないといういい間隔である。

 

先日降った雪がまだ残っている。