扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

歴史コラム #3 海賊の栄枯盛衰

2012年09月30日 | エッセイ:海の想い出

コラム3回目は海賊の話。

 

西洋の海賊のイメージはやはりカリブの海賊。

大航海時代を迎えた船乗りは国家公認の海運業者となった。

新大陸の積荷を運んでいるとライバル国の商船がそばを通る。

「沈めてもよい、むしろ沈めて欲しい」と雇い主に頼まれて海賊化する。

それに比べれば日本の海賊はおとなしい。

最強の海賊が村上水軍など瀬戸内の人々、彼等の仕事は関料の徴収、つまり通行料の集金である。

法も監視者もいないので本来、強奪だけでいいはずだが関料の対価として通行の安全を保障した。

潮目に詳しい彼等は水先案内人として御客様の船に乗り込んで舵の指導をサービスの一環で行った。

その代わりゼニを払わぬ客は執拗に追いかけて拿捕、搾り取った。

日欧のこの差はおもしろい。

 

20世紀、宇宙に乗り出した人類は使うハコを「宇宙船(Space Ship」と呼んだ。

「宇宙の海は俺の海」とは松本零士のキャプテンハーロック。

どの海も海賊がいる。

 

 


東北名城遍路 #8 家路につく

2012年09月15日 | 取材・旅行記

冷麺を食いつつこの後を思案。

盛岡で1泊するもよし、一関あたりを明日観光するもよし。

とは思ったがもうこのまま帰宅することにした。

といっても調布を離れること500km。

高速道路で6時間といったところか。

旧奥州街道国道4号線を南下し始める。

思えば昨年は福島二本松でこのE39にトラブル発生、冷や汗もので家まで4号線で帰った。

この旅でE39は絶好調、特に長時間連続走行しても体は疲れ知らずであった。

帰ったらクルマを引き渡す約束になっているので、またつまらぬトラブルが起きても困るのでおとなしく高速に乗ることにした。

一関ICから東北自動車道に乗る。

さすがに眠くなってきたので国見SAで仮眠。

起きたら空が白々していた。

そのまま安全走行に徹して自宅に着いた。

 

九州一周、四国一周とやってきて北海道も一周。

勤め人をやっていたらこんな道楽はできまい。

何とも幸せな物書き人生である。


東北名城遍路 #6 100名城No.6 盛岡城

2012年09月14日 | 日本100名城・続100名城

東北の100名城、残るは盛岡城。

時間は15:00を過ぎているが城内は常時立ち入り化、スタンプ設置場所も20:00までやっているようなので取りあえず行ってみることにする。

盛岡は秋田市の真東にあたる。

距離は100kmくらい。奥羽山脈を越えていく。

ずんずん走って行くと田沢湖、雫石を超えると盛岡の平野、着いたら18:00頃だった。

「ぷらざおでって 観光情報プラザ」にて100名城スタンプをもらって任務終了。

その足で盛岡城址に行った。

しかしすでに陽が落ちて城内は真っ暗。

「石垣が立派だなあ」くらいしかわからない。

また来てしかと拝見したい。

これにて本日の名城探訪終了。

 


東北名城遍路 #7 100名城No.9 久保田城

2012年09月14日 | 日本100名城・続100名城

気を取り直して久保田城へ。

秋田城から少し陸寄りの場所にある。

城跡には佐竹史料館があったので先にそちらを見に行く。

佐竹氏は新羅三郎義光(義家の弟)を祖とする源氏の名門。

義満の孫にあたる昌義が常陸国佐竹郷に土着して佐竹氏を名乗った。

常陸国の奥七郡は関東平野の隅っこにあり、挟撃されにくい地形から地力を長く保ち、関東に異変があれば外から援軍にかけつける役割を負った。

源頼朝の挙兵の際には平家について一時没落したが奥州合戦に参加して再興した。

その際、「白旗に五本骨扇に月丸」の家紋を頼朝から拝領したという。

佐竹氏が中央政局を左右したのは関ケ原の時、石田三成と親しく家康を背後から牽制しうる佐竹氏の存在は三成の大局観と戦略に大きく影響した。

しかし何もせぬまま関ケ原の合戦が起こり家康は無抵抗の佐竹家を秋田へ追った。

この時の当主が義宣(右京大夫)、伊達政宗のライバルでもあった。

 

史料館はコンパクトではあるが見たかったものがちゃんとあった。

それは「毛虫の前立の具足」と「扇に月丸の軍旗」。

城の方は本丸表門が復元され、御隅櫓の位置に形が違う櫓が天守のように立てられ資料館となっている。

 


東北名城遍路 #6 続100名城No.107 秋田城

2012年09月14日 | 日本100名城・続100名城

弘前から南下し男鹿半島の少し南、日本海に出るあたりが秋田市。

秋田には来たことがあるようなないような。

ともあれ自分のクルマ、E39で沖縄をのぞく全都道府県に足を踏み入れたことになると思う。

さて秋田に来たのは100名城、久保田城に行くため。

ところが間抜けなことに久保田城=秋田城と思っていた。

昨日の八甲田越えといい凡ミスが続く。

秋田城あたりに来て様子が変、と思いつつ秋田城歴史資料館を訪ねた。

受付で聞いてみると「それは久保田城」と笑われた。

話ついでにいろいろ学芸員の方に教えていただいた。

「秋田の英雄というと誰ですかねえ」と尋ねたら「アテルイかなあ」と答えられた。

佐竹は地元にとって外から来た人である。

城跡の方は整備されつつあるようで城門に続く版築の城壁などが再現されていた。

おもしろいのは古代トイレ、水洗だったらしい。

 

秋田城はヤマト政権が築いた最北の城、城というより柵といった方がいい。

私がつい勘違いしたのは「出羽柵」と覚えていたからであるが、実は天平年間に「秋田城」に呼称が変わったらしい。

越後国から出羽国を独立させたのは日本海を越えた渤海との交流が始まりその外交使節を饗応する必要があったという。

秋田城に国府の機能があったかどうかは諸説あるようだ。

城内を散策してみると平地に整然と官舎が並ぶ他の国衙の政庁跡とは違って起伏が大きいのが印象的。

 

思わぬ勘違いで勉強になった。

 


東北名城遍路 #5 100名城No.4 弘前城

2012年09月14日 | 日本100名城・続100名城

本日は快晴。

8時前にホテルを出て弘前城へ。

弘前城はよくある話で明治維新後、陸軍の施設となり公園となった。

空襲がなかったことで天守など遺構がよく残っている。

東北地方で唯一の現存天守である。

まだ天守閣が開いていないので公園を一周してみる。

弘前城は門が有名で五つの門が国の重文。

 

津軽氏の本城であるが、10万石の家格としては不相応、ここまで敵が攻めてくるわけでもないから西国風の城郭をフルセットで作る意味がない。

津軽氏は南部家家臣から別れた大名で為信の時、秀吉にいち早く取り入った。

南部氏諸流のまた庶流であるが、甲斐源氏の血脈を捨てて藤原北家近衛家に接近して藤原氏の仲間にしてもらった。

当然、南部家と仲が悪く、それを引き摺って未だに青森県を東西に割って住民同士牽制しているという。

津軽の衆にとって東北随一の名城を持っていることが南部の衆に対するプライドとなっているだろうことは想像できる。

 

津軽藩はいっぱしの大名の目安石高10万石となることが悲願で蝦夷地警固などに精を出して、ようやく文化年間に達成しこれも悲願の五層の天守を高々と上げた。

その代償は当然民に向けられる。司馬遼太郎が東北で米偏重政策の愚かさを言うとき、引き合いに出される。

それでも桜の名所として全国に名を成していることを思えば弘前城を無理して作ったことは津軽家の後への遺産として評価してもいい。

天守は小さい割に武張ろうとしておりどことなくひょうきんな印象である。

また有名な赤い橋越しにみると石垣の高さも加わって立派にみえるが反対側、本丸の中からみるとちんまりとみえる。

腰の軽く見栄っ張りの津軽家の顔としてみるととてもふさわしいデザインである。

 


東北名城遍路 #4 弘前へ

2012年09月13日 | 取材・旅行記

根城を辞して今日の宿、弘前へ向かう。

距離としては120kmほどで北海道の感覚では2時間半。

ところがこの移動が人生希にみる難行苦行となった。

土地勘がないとつい国道なら大丈夫と思ってしまうのが間違い。

青森県の中央には大奥州山脈が走っていて八甲田山がそびえている。

真一文字に行けばそのふもとを越えて行くことになる。

途中、酸ヶ湯温泉という名湯があり、行った事があったことも油断の元。

国道102号に入ると状況が一変、すでにとっぷりと陽が暮れ、街路灯も皆無。

御伽話に出てくるような深い森を懐中電灯で進むような状況となった。

行けども行けどもグリム童話の世界。

時速30kmくらいでそろそろ行くしかない。

道路の舗装がいいのがせめてもの慰めである。

酸ヶ湯温泉を通過してもそんな状況がしばらく続き、すれ違うクルマも希。

黒石市に入って道が下るようになり津軽平野に入るとようやく生きた心地がした。

ホテルは弘前城の前である。


東北名城遍路 #3 100名城No.5 根城

2012年09月13日 | 日本100名城・続100名城

根城は馬淵川のほとりの丘の上に築かれた中世城郭。

今は八戸博物館が設置されている。

南部師行公の銅像に迎えられ博物館で名城スタンプをもらう。

博物館の開館時間が終わりそうなので中をみることはできず、城跡を見て回る。

 

根城の始まりは建武の新政の幕開けと共にあった。

後醍醐天皇によって奥州に派遣された義良親王(後村上天皇)を奉じた北畠顕家に従った南部師行が土着。

根城を根拠地として北条支配地の平定にあたった。

南部氏は甲斐源氏の流れ、山梨県の南部(身延あたり)が本貫の鎌倉御家人である。

師行は南北朝騒乱が始まると顕家に従って上洛戦に参加。顕家と共に和泉国石津で戦死した。

根城は弟政長が引き継いで顕家の弟顕信と共に南朝方として活躍した。

陸奧国には一戸から九戸まであるようだが南部氏の本支流も含めて複雑である。

そのうち整理したい。

 

城跡の方は典型的な中世武家屋敷といえそうで上級武家の屋敷にふさわしい風格がある。

丘の上に築かれていて下ると馬淵川の水運を利用した城下町があったようだ。

空堀の深さなどみれば戦国の城の様相もある。

ともあれここが室町体制から戦国の時期に奥州の最北拠点のひとつであったことを思えば感慨深い。

 


東北名城遍路 #2 八戸へ

2012年09月13日 | 取材・旅行記

大間から根城をめざす。

下北半島の先端から半島を縦断、八戸まで100kmあまり。

国道279号は片道1車線であるが信号がないので快調に進む。

津軽海峡にシリを向けて山越えに入り、太平洋に出ると東通村、原発辺りの道路は一変し、これが原発マネーかと思わされる。

南下すると六ヶ所村。

ここは日本原燃の核燃料再処理工場がある。

三沢基地を通り過ぎると間もなく八戸市。

一気に走りきったが、東日本大震災の後、原発の将来が混沌とする今、何とも悩ましいドライブとなった。

このルートを再び通ることがあれば恐山参詣だろうか。

 


蝦夷紀行 10日目 #1 大間へ渡る

2012年09月13日 | 取材・旅行記

朝一のフェリーで函館を発って大間に渡る。

帰りの便を決めていなかったところ、途中で苫小牧-大洗便を取ろうと思ったら満杯。

そこで予定を変更して青森に渡り東北の100名城を回ってから帰ろうと思い立つ。

おかげで日程が延びることにはなるがそこは自由業の気楽さ。

ゆるゆる帰ればよい。

それではと青森便を探していたら大間便の方が所要時間が短い。

それで9:30発のフェリーを予約した次第。

函館港のターミナルに付いたら乗船予定の「びなす(VENUS)」が待っていた。

行きの「さんふらわあ」よりも小さな船で平積みで助かった。

今日の津軽海峡は波が穏やかで気持ちがいい。

ここを行き交った江戸の千石船や軍艦たちの乗組員の気になってうろうろしていたら大間港がみえてきた。

所用2時間弱の船旅はいいものだった。

 

楽しかった蝦夷地の旅にアディオス。

生涯忘れえぬ素晴らしい体験だった。

追記 「蝦夷」という呼び方は中央史観の何ものでもなく先住民の棲む地への蔑称であるが、歴史を生業とする身として過去の歴史に敬意を払いつつあえて使った。


蝦夷紀行 9日目 #5 函館山の夜景

2012年09月12日 | 取材・旅行記

ホテルを出たらまだ16:30、陽は高い。

近所でラーメン・チャーハン定食で腹ごしらえ。

ぶらぶら歩いていたら本願寺函館別院、巨大な伽藍はここでも。

その隣が元町教会、向かいが聖ハリストス教会。

宗教密接地帯である。

坂を登って行くにつれて港の風景も少しづつ変わっていくのが楽しい。

陽が落ちる少し前にロープウェイに乗った。

夕陽に照らされて建物の西側が赤映えている。

展望台に来るのは2度目、前回は冬だったので冷え冷えしていた。

ここからの眺めはとてもいい。

神様が横に座っているような気がする。

段々と暗くなるにつれビルに照明がひとつひとつ灯っていく。

真っ暗になるまで待って山を下りた。

 

 

 


蝦夷紀行 9日目 #4 函館へ

2012年09月12日 | 取材・旅行記

松前城を見物して北海道の100名城3つを制覇。

気が楽になった。

近くの道の駅北前船松前で昼食。

ここも本土風な造りで北前船の模型など展示している。

 

来た道をとって返す。

右手に箱館山がどんどん迫ってくる。西から来た船はこういう光景を目にしていたのかと実感。

箱館山はまさに目印として絶好。

また津軽海峡防衛にこの山が重要だったこともわかる。

市内にすんなり到着してチェックイン。

天気がいいので夜景見物に出発。

 

津軽海峡