扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

徳川の実家にて -岡崎城1-

2010年04月21日 | 来た道

まるで初夏のような陽気になり、ふと思い立って岡崎城を訪れた。

私は豊田市に生まれ、三河と尾張を隔てる境川のわずか東、桶狭間からもそう遠くない地で育った。
高校受験の際、野球部の仲間や多くの同級生が豊田市に新設される高校に半ば強制的に行く中、へそ曲がりなことに岡崎高校を受験し運良く合格した。
仲間を裏切ったせいで多少は恨まれ、今の交友関係にも影響しているはずであるがともかく3年間、名鉄電車に乗って岡崎まで通った。

東岡崎駅に着く直前、進行方向左側をみると岡崎城の天守が見える。
日本人は近世の城が好きでかつて天守を頂く城があった場合、例外なくといっていいほど再建運動が起き、再び天守が上がる。
岡崎城もそのようにして鉄筋コンクリートで再建された。

中学生の頃、「人生の中で最も」といいほどに歴史を愛した自分ではあったが岡崎城という最も愛着を持っていいはずのこの城に今思えばおかしいほど冷淡であった。

それはよくあるように「コンクリートではね」というのもあったし、平城であるが故に「見上げる」どころか車窓から見ると本丸など「見下げる」形になっていたことも関係しているはずだが、最も心にあったのは岡崎城がどうにも城の主人の姿がオーバーラップしないことであったように思う。
そのことが灯台下暗しを増幅し岡崎城の本丸、天守に行ったことは数回であるはずであり、しかもその折の感情も情報も残っていない。

高校を卒業してしまうとめっきり岡崎に行くことも少なくなり、社会人になり名古屋で勤め人となった年、1987年に岡崎城を中心に開催された「葵博」にも行くことなく終わった。

岡崎城は国道1号線が二の丸をかすめていく。
国道1号とは東海道である。
岡崎城は今、岡崎公園の一部になっており二の丸御殿跡には「三河武士のやかた家康館」が葵博を機にできた。

閑散としている駐車場に車を停める。
大手門が再建されておりここを入った辺りが二の丸であるはずである。
家康館に入ってみる。

岡崎城は家康が生まれた城であり、徳川家とは縁が深いわけだが史料という点ではなかなか難しい。

徳川家の発祥は関東から流れてきた親氏が松平郷に土着し子孫が家運を開いていく。
山を降り、平地に進出した松平氏は西三河を平定し一時興隆を迎えるのだが尾張の織田、遠江の今川の間にあって苦しんだ。

桶狭間まで徳川家の当主家康は自分の城でありながら常に監視役が岡崎に目を光らせ気が休まることがなかった。
今川義元が信長に首印をあげられ、遠江に撤収してしまったことでようやく捨て城を拾うように岡崎城に入城するのである。

ようやく実家に戻ってみても腰が落ち着くことはなく、家康は遠江に出稼ぎに行き、今川を追って浜松に本城を定める。
家康の天下取りの痕跡は野戦であり城ではない。
彼の武勇を高めることになったのは三方原であり長篠であり小牧長久手なのである。

そしてもうひとつ、家康にとって岡崎城は哀しみの城ともいえる。
家康は浜松に移ると最愛の嫡男、信康を岡崎に入れた。
家康の正室、築山殿は今川家臣の娘である。
人質時代の悪夢を思い起こさせる妻を家康は信康に付けた。
夫に遠ざけられた築山殿は武田家との内応を画策して発覚し、信長は家康の妻子を死罪にしてしまう。
家康はこの事件を表面上はなかったことのように忘れたように振る舞ったが老いて後も信康を思い出しては惜しんだらしい。
岡崎城は信康を思い出してしまう城ではなかったか。
ともあれ家康は岡崎城を戦略上も戦術上も重用視せず単なる宿か、倉庫のように使った。

この地元の郷土資料館が何をテーマにするか難しいのはそういう事情による。
そして「三河武士」をテーマに取った。

三河武士とはいうまでもなく家康の家臣団である。
彼等は松平家に臣従した時期により、「安祥譜代」「山中譜代」「岡崎譜代」などという。
要するに徳川家臣団は古いほどよい。
特に徳川になる以前、松平元康、その父の時期、最も松平宗家が苦しかった時期を支えた家臣の家系を家康は大事にした。
徳川四天王などと呼ばれた井伊直政などは古参の家臣からすれば洟垂れのようなものであろう。

家康館の展示も彼等家臣をクローズアップしている。
また、家康の創業期にあった一向一揆の紹介をしていることは好ましい。

永禄6年、信長と同盟した直後の家康は一向宗の扇動により動揺した家臣が離反し重大な危機に陥る。
後に家康・秀忠の謀臣となる本多正信など一向宗に転んだ。
あまり紹介されることのないこの事件ではあるがこの宗教戦争を共に乗り切ったことで家康家臣団は強い絆で結ばれるのである。
また、一向宗に寝返った後、戻ってきた本多正信なども赦し、差別することがなかった。

展示のクライマックスは関ヶ原に設定され、ジオラマ化されている。
三河武士は関ヶ原の後、中央政権の官僚として大いに出世し、譜代大名となっていくから現場の部隊は関ヶ原が最後になる。
とはいえ、関ヶ原では井伊直政こそ先陣を福島正則から奪ったものの、島津義弘の撤退戦を追撃した際に撃たれこの傷が元で死んでしまうし榊原康政は上田の真田にひっかかって遅参、酒井忠次はすでに世にない。
ただし、本多忠勝はいつものように勇猛であった。

徳川家臣で最も人気があるのは本多平八郎忠勝であろう。
公園内に銅像があり、館内に鹿角脇立兜に大数珠を巻いた黒糸威の具足レプリカがある。
また、蜻蛉切のレプリカもある。

三河武士というのは主君には忠であるが、そのあまり他家のものなどに対して猜疑心深く心底が知れないと陰口をたたかれた。
また、家康自身がそうであるように質素で華美を嫌った。
一般に三河武士の評判はよくないのであるが家康家臣には確かに出奔した石川数正、信康自刃につながる軽口をした酒井忠次、権謀術数が過ぎた本多親子などどこかに傷があるのである。

本多忠勝は生涯ひとつの傷も負わなかったとされるが、思想上、あるいは行動上の傷もまたみあたらない。
三河者の気質については私自身三河者であるのでよくも悪くもいちいち思い当たらないでもない。
だからこそ曇りのない忠勝にはまるで体育会の主将のような憧れがある。

忠勝は最後の大仕事として娘を嫁にやった真田信之を擁護し真田家断絶を回避した。
彼なくして、徳川の仇敵真田の嫡流が残ることはなかったであろう。
世から合戦が絶えると猛将は消えていく。
本多家は幕閣に登場することもなく細々と維新を迎えるのである。

Photo
復元された岡崎城大手門


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本多忠勝像


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