扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

人が死ぬということ

2012年02月04日 | 来た道
深夜に義母が逝った。

後日のために事実を書いておくことにしたい。
年明、杏林病院から青梅の慶友会病院に転院してもらい周辺環境がよくスタッフもケアという点では大学病院よりも厚くなったため容態がよくなることを期待していたのだがひと月で儚くなった。
昨年秋、緊急入院して以来「もう長くはない」とどの医師も言うし、顔に書いてあるから心の準備はできていた。
「どう送るか」ということを家内で考え青梅に移したのである。
青梅街道は「介護街道」になるはずだった。

2/3の金曜日、夜の8時に電話がかかってきた。
悪い知らせというのは電話でも「いやな鳴り方」をする。
物理的にはありえないが、現実にこれはある。
「危険な状態だからすぐ来い」という。
この言葉はこの数年、何度聞き何度走ったことか。

淡々と記したい。
家人と病院に着くと「月曜日まではもたない」と告げられた。
栄養供給ルートが機能せず空気から酸素をより分ける力が弱い。
もはや我々と交信することはかなわない。
見守ることしかできぬ状態になり私はひとりで帰った。
翌土曜日、昼頃病院で泊まった家人から状況連絡があった。
もう見送る気で病院に行った。
「もう楽にしてあげましょう」と医師に言われた。
最期の日、義母ははじめて目を空け親族をじっと見た。
それはお別れであったのであろう。

私はそのまま心臓が止まるまで傍にいることもできたがそうしなかった。
怖かったではない。
薄情と言われてもいいが「最期は子供がみよ」と思ったのである。

今年は冷え込みがことのほかきつく青梅市内でも陽が落ちれば常に氷点下になる。
時刻は深夜11時、調布駅で義母の兄夫妻を降ろし家に着いてクルマを停めると携帯電話に留守電があった。
あまりに予想通りの事務的伝言を聞きながら見上げると丸い月が冴え冴えと中天にかかっていた。

「これをみてくれ」と逝った人が図ったようであった。




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