扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

先代萩と伊達騒動 -歌舞伎座さよなら公演-

2010年04月11日 | アート・文化

歌舞伎座が建替工事のためしばらく休館になる。

歌舞伎座はさよなら公演をやっており、家人がチケットを入手してきたので着物で出かけた。
観たのは「御名残四月大歌舞伎、第三部」、演目は「実録先代萩」「助六由縁江戸桜」の二本である。

少し前に東銀座に着き、近くの「矢場とん」にて味噌カツを食べた。
「矢場とん」という店は八丁味噌の本場、愛知県人には賛否両論であって好きな人には愛されているが私の回りに限っていえば評判は芳しくない。
我々三河人は日常的に味噌カツを喰っているのでいろいろうるさいのである。
クーポンで1品追加することができたのでどて煮の小鉢を取る。
これはうまい。

三河(名古屋もいれてやるか)の郷土食で東京でも喰えるものはあるにはあるが、水が変わり客の好みも変わるとなると地元で同じものとはいかない。
うなぎも味噌煮込みもやはり地元で喰った方がウマイのだがどて煮という大衆食はなかなか出す店はない。
私はこれが大好物で地元の居酒屋に行ったときには必ず喰う。
同行者にも好評であった。

さて、歌舞伎の方であるが私はこの芸能の良さがいまひとつぴんと来ないのである。
元々、スポーツとかドキュメンタリーといったノンフィクションものへの興味関心が高いのでなかなか伝統芸能の方に時間が回らない。

歌舞伎、能狂言もそうだが日本の伝統芸能とは様式美である。
つまり約束事がわからないとその真髄はわからない。

ということで本日も鑑賞というよりは勉強。

演目のひとつ、「実録先代萩」というのは仙台伊達家の御家騒動がモチーフである。
政宗を私は第一等に好きなのであるがそのことはいつか東北を訪れた折にまとめたいと思っている。

子のことをちょっと考えたい。
伊達政宗という戦国最後の英雄は幾度も危機を乗り越えた。
秀吉と生死を賭けて対峙し家康・秀忠とも渡り合り何とか仙台62万石を守りきった。
政宗には10人を超える子があり父のように波乱の生涯を送ったものがいる。

長男は秀宗という。
有力戦国大名、その子に「秀」がつく者は大抵太閤秀吉の紐付である。
養子、猶子あるいは名付親といった形で秀吉の意向が入っている。
豊臣に忠誠を誓わせるためあるいは人質としたのである。
羽柴秀次、小早川秀秋、宇喜多秀家、毛利にも秀がうようよいる。
徳川家ですら結城秀康、秀忠といった政略の影がある。
そのほとんどがろくな死に方をしない。
伊達秀宗は幼少期に秀吉にもらわれ大坂で育った。
長じ、秀吉が死ぬと父に従って大坂の陣にも出陣し宇和島に本家とは別に伊達藩を立ててもらった。
本人がどれだけ本家の家督に執着していたかは計りかねるが宇和島で御家騒動を起こしている。
宇和島伊達藩に幕末の賢候、伊達宗城が出る(ただし養子で血縁はない)。
幸せな人生であったろうか。

正室の長子を忠宗という。
本藩はこの忠宗が継いだ。
彼は家康の養女を正室に迎え、何かと幕閣ににらまれがちな伊達本家をよく守り仙台藩の基礎を造った。

歌舞伎狂言の題材となるのは忠宗の子、つまり政宗の孫、綱宗に発端がある。
綱宗は酒食に溺れ藩政が混乱したため押し込め隠居になり、後をわずか2才の綱村が継いだ。
幼君を擁した仙台藩の内輪もめが伊達騒動と呼ばれる事件である。

私としてはそれくらいの知識しかなく子役の縁起の見事さなど感心してみていたのだが、内心「伊達」の名のことを考えていたような気がする。
チケットはなかなか取れないのに実にもったいない。

歌舞伎座が復活するのは2013年の春。
それまでには歌舞伎の様式美など勉強したいと少しだけ思っている。



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