扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

京都遍路 #9 今熊野あたり

2016年03月23日 | 来た道

泉涌寺、今熊野の辺りは私がかつて住んでいた地域であり、懐かしい。

 

大学に入学した最初は、京大の近く、医学部の西の裏あたりに下宿した。

そこからひとつ引っ越してさらに引っ越したのが今熊野日吉町だった。

昔の住所を引っ張り出してこないとどこに住んでいたかはわからないが、細い筋を通って入っていった鉄筋のアパートの1階だった。

何故、そんな大学に通いにくい下宿に行ったかというと、入学したハナから学校には全く行かなくなってしまったことと、実家に帰るのに京都駅まで歩いて行けるため便利だったこと、城陽市で家庭教師を初めて南方面に行くのに便利だったことなど考えたのだと思うが、すぐまた上賀茂に引っ越してしまうのだから対した了見でもなかったのだろう。

その頃、将軍塚あたりで単車で事故をし、左足がギプス固定となった状態で退院した私はその足で近所のバイク屋に原チャリを買いに行き、即納してもらったラッタッタに松葉杖をくくりつけて三十三間堂の隣の病院まで通った。

ふたつ隣には京大のアイスホッケー部の某君がおり、二階に原田さんという陽気な京大生がいた。だから学校の近くに住む人ばかりでもなかったといえる。

原田さんの部屋にはたまに遊びに行ったように思うが、ビートルズのことをいろいろ教えてもらった記憶がある。

京都というのは随分蒸し暑いところで、夏はべったりと風が吹かず空気が動かないので心神が溶ける。

そんな環境で扇風機ひとつで過ごしたのだから、人間便利でなければ何とかなるものともいえる。

 

この下宿で思い出すのは、大家の奥さんのことである。

毎月、決まった日に現金で下宿代(1万円〜2万円くらいか)を隣の大家さんに持っていく。

大家さんは品のいい女性で権高く、事務的なこと以外はしゃべらず世間話もしなかった。

この家には妙齢の娘がふたりいたのだが、たまに出くわすと奥さんが「悪い虫がつく」とばかりに隠そうとするのがおもしろかった。

私が京都人にあまりいい印象がないこと、お金が有り余っても京都の洛内に住もうなどとは決して考えないだろうことはこの奥さんのイメージや、何軒か行った家庭教師先の奥さんのイメージが裏にある。

 

当時は風呂などついていないから銭湯に行く。

歩いて行ったのだろうが、どこに通ったのか全く思い出せない。

飯はJRの線路沿いに定食屋があって、そこに通ったことは覚えている。

かすかな記憶を頼りにのぞいてみたが何もなかった。

まあ、30年も前のことなので店主も現役ではいられないのかもしれない。

 

京都は奥さんがいけずだったこととは別の面があり、我々の頃は少なくとも「学生さんの町」として貧乏学生にはやさしい町だったように思う。

今どうなっているのかわからないが、どんどん洗練されて表面上はきれいになり、便利になっていく京都を歩くと「こういう町ではなかったのになあ」と思うことしきりである。

自分がいけずなのかもしれないが、「京都ブランド」なるものがまがいものでいかに住みにくいかは2時間くらいの講演ができる。

だから京都に憧れるお嬢さん奥さんが「どこどこに行ってきた」などとおはしゃぎになるとつい、チャチャを入れてしまうため、この頃は京都話には口を挟まず、じっとしていることにしている。

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿