国場川を渡ってしばらく行くと豊見城(とみぐすく)市に入る。
恥ずかしながらこの地名は「とみしろ」だと思っていたがそれは高校野球の影響である。
豊見城高校が何度か甲子園に出たことがあったからだが、学校の読みは「とみしろ」、行政区他の呼称は「とみぐすく」ということらしい。
城をグスクと読むのは好ましい。
さて、海軍司令部跡のことである。
前回、摩文仁の平和記念公園やひめゆりの塔に行ったがここは未見。
文字通り、帝国海軍の沖縄方面司令部があった。
海軍部隊が6000人いたというが全て実戦部隊ではない。
4月初旬に中部西海岸に上陸した米軍は5月下旬にようやく首里の丘まで到達。
帝国陸軍32軍の司令部は首里を放棄して南部へと撤退し沖縄戦の最終段階へと移行した。
首里を落とせば戦闘が終わるものではなく、本島を北から南へ残酷な掃除をするような作戦になった。
戦況の悪化につれ、海軍は小高い丘の横腹をくり抜き、地下へ向かって穴を掘り、司令室他作戦遂行の空間を造営していった。
海軍司令部壕は民間人を使用せず、軍人のみでしかも重機を使わぬ手堀り作業で造られた。
北側から進んできた米軍と別に西側の小禄飛行場方面から上陸した米軍によって包囲された海軍司令部は包囲され、撤退が困難になって玉砕に到る。
その間、10日間。
ここはビジターセンターが開設され沖縄戦の経過や司令部内などの遺物が展示されている。
何といっても衝撃なのは総延長450m(非公開部分を含む)に及ぶ壕の内部である。
入口から徐々に降りて行く縦穴に併設するように部屋が掘ってある。
4000人が入ったというから人口密度はすさまじい。
戦闘が始まれば外に出て用を足すこともできず、トイレや水道設備はない。
負傷者や戦死者も続出でそれとも同居となる。
戦争肯定者はこういった負の遺産を五感のライブで体験してみるべきだろう。
公園の中の展望台からは全周みわたせる。
かつての小禄飛行場は那覇の飛行場となって離発着する機影がみえるし、西の海もみえる。
あたりの丘ひとつひとつに規模は小さいがここにあるような壕が掘られ、鉄と火でつぶされていった。
沖縄を旅していて終始苦しい気分がどこかにある。
それは戦争の記憶がどの場所にもあって、私にも中途半端な知識によって生半可に再現される。
この気持ちは何度来ようが晴れることはないだろう。
沖縄は広島や長崎同様、決して「観光」「レジャー」になり得ない場所である。
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