扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

京都遍路 #6 本能寺のこと

2016年03月23日 | 来た道

次の札所、革堂に行く前に本能寺に参詣してみることにした。

今では本能寺は烏丸御池の交差点の西にあるが、信長が消えた時の本能寺は一筋南、烏丸通と堀川通の間にあった。

私は若い頃、妙にオリジナルにこだわる悪い癖があって、「本能寺は焼けて移転しているのだからあまり価値はない」などと思っていたのだと思う。繁華街にあって山門をくぐるまでのドラマがないことも興味薄の原因だったろう。

あれだけ河原町やら寺町やらを通っていたのに本能寺に参詣しようと思ったことが一度もなかった。

 

本能寺は法華宗の寺院で市中の一等地にあって相当大きな境内を持っている。

寺町通りに表門があり、まっすぐ東へ向かうと西向きに大きな本堂がある。

本堂脇に織田信長の墓があり拝殿がついている。

周知の通り、信長は骨一つ残さず消滅したため、遺骨は入っていない。

代わりに信長佩用の太刀が納められているらしい。

 

信長の発想は戦国人だった素性からすれば極めてユニークである。

以前、信長に関する本を執筆していて気づいたのだが信長には城に対する執着がない。

信長が清洲-小牧山-岐阜-安土と本城を移動させていったことはよく指摘されていることなのだが、信長にとって城は要塞でも居住空間でもなく、「オフィス」だったと考えたい。

つまり、経営規模が大きくなって商圏が広がれば本社を移転させるのであり、城がオフィスなだけに凝るポイントが違ってくる。

旧本社跡地は部下に任せ、自身は新たな事業領域を考えてプランを練り、進め、成功すれば本社を形にする。

 

京に城を築かなかったのは京にオフィスを構える必然性を感じなかったのであろう。

石山本願寺を強制移転させることに成功し、西国制覇がみえてきた時に次の本社候補地は大坂なのである。

京に投資するのはムダと考えた。

それでも京に滞在する機会はある。

信長は京滞在中の定宿を本能寺に指定した。

寺にしてはまあまあの要害だったのであろう。

とはいえ、明智の精鋭に攻められ、部下数十人では護れるものではない。

彼の感覚では無駄遣いにしかならないが、城など造っておいた方がよかったなあということになる。あるいは息子信忠と一緒にいれば・・・

 

ちょっと調べてみたら、本能寺と信長のゆかりは鉄砲だったなどという説がある。

権勢盛んな本能寺は遠く種子島や堺に信者がいて、鉄砲や弾薬の調達に有利な立場にあり、信長との友好関係に大いに寄与したらしい。

 

本能寺には個人的に「ゆかり」がある。

京都大学に合格し、晴れて京都暮らしを始めた私は入学早々、アルバイトでもやってみるかと発願し、斡旋所で職を探し、「本能寺会館」なる場所の求人を見つけた。

どんな仕事かも考えずに「本能寺」のブランドだけで嬉々として面接に行き、即座に仕事を始めた。

仕事というのは本能寺会館なる宿泊宴会施設から出る食器、皿洗いである。もちろん機械で洗うのだがすき焼き鍋などは手仕事である。

この職場のリーダーは京大生の前田さんという人で妙に陽気だった。

他に同志社の人、立命館の人もいたような気がする。

出勤は会館横の階段を下りて地下からだったから玄関から入ったことなどない。

このバイトは1年やらなかったと思う。

塾の講師や家庭教師といった割の良いアルバイトがみつかったからだが、御池通を単車で通る度に「みんな元気かなあ」と思っていた。

私のバイト先は構えなど当時のままである気がする。

社会経験のはじめが本能寺だったことを懐かしく思い出した。

 

信長公廟

 

かつての本能寺会館、今は「文化」がついた


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