辺野古から勝連城まで50km。
勝連城は太平洋に突き出た勝連半島の付け根にあり、首里城まで30km、その中間地点に中城がある。
うるま市に入り県道16号線を行くと正面の丘の上に立派な石垣がみえてきた。
駐車場併設の案内所で模型をみて予備知識をつけてからグスクに進んだ。
このグスクは下から見上げた姿が大変美しい。
整備工事が進む原っぱを進んでいくと運転中の車からみえた石垣が主郭の裏側の高石垣だったことがわかる。
大手道といったらいいだろうか、主郭に向かっていく丘からみるといくつもの郭の石垣が重なり合って重層的な石の壁となっている。
雰囲気としては讃岐の丸亀城のようだ。
城に入るためにはまず湿地帯を進む。
今は水が抜かれて整地されているが、「防御田地」というようだが、かつては底なし沼のようなずぶずぶの湿地で平時は農地、戦時は侵入者を阻む目的があった。
忍城のような雰囲気であっただろうか。
川が少ない沖縄で勝連城は水が豊富だったようであちこちに「カー(泉)」がある。
すでに石垣の内側に入っているが一の郭という主郭に登って行く道は右回りに旋回していて登るものは左側を城内にさらすことになる。
そうなると弓矢や鉄砲を撃つのにかなり体を捻らねばならず、撃ちにくい。
郭は四の郭から一の郭まで4つあり、雛壇のように重なっている。
それぞれ城門があり、石垣の上に櫓が乗る形式だったと想定されている。
各曲輪や石段には傾斜がついていてそれぞれ平らではない。
グスクの公式開設では攻城者が登りにくく体力を消耗する仕掛けなのだという。
二の郭は瓦葺屋根の建物があったといい、礎石が置いてある。
瓦葺の屋根は勝連城の他には首里城、浦添城にしか見られず、勝連の経済力を示すという。
また、三の郭の間の石垣はめずらしく一直線、一の郭との間には樹木が旺盛で御嶽があり、火之神などが祀られている。
一の郭は最も高い位置にあり、霊石を護る宝物殿があったようだ。
今日は発掘、復元のために出入り可能な場所が制限されていて切石が整然と並んでいる。
一の郭の奥は断崖であるからその方面からの攻撃はまずなかろう。
大変、防御力に優れたいい縄張といえる。
城好きには堪えられないグスクでもあるが、魅力は眺めである。
文字通り、360度の眺望で東は勝連半島の先、南は久高島から首里の丘までが一望で織田信長の岐阜城天守のように「天下を獲れる気にさせる」眺めである。
勝連城の主で有名な人物に阿麻和利がいる。
この人は地元でも有名な「戦国大名」だった。
沖縄の戦国は有力な史料が残っておらず、中国や朝鮮側の史料、おもろという古謡と尚氏王朝の正史に頼っているのが現状、阿麻和利のことは「逆臣」扱いである。
勝連城の按司10代目という阿麻和利は海外貿易で富を蓄え勝連城を堅城に育てた。
首里の尚泰久王は阿麻和利の権勢をみて娘を嫁がせ、外戚となった。
そして護佐丸を座喜味城から中城に移して阿麻和利への押さえとさせた。
阿麻和利の野望はやまず、護佐丸に謀反の意ありと注進して除き、その後首里の王府軍に攻められて滅んだ。
というのは首里の見方、整理の仕方であって事実であると信じ込むのは難しい。
明智光秀の評価のようなものであろう。
勝連城を見終えて、世界遺産に指定されたグスクは全て訪れたことになる。
グスクには沖縄の神様の息吹を感じるというのはどのグスクにもいえ、願わしくは早朝や夕暮れ他に人のいない空間でぼんやりしているのがいい。
もうひとつ印象的なのは、どのグスクからも海がみえ、海上を往来する船がみえる。
ニラカナイとは沖縄の海の向こうの神の国のことで、福は海からやってくるという神話になる。
その通り、グスクの主や民は日々海を眺めて祈ったのだろう。
だからグスクには海と聖地もワンセットなのである。
100名城巡りでは1週間くらいかけてその地方の城を回ってきた。
同じ事を沖縄でできたことは人生の折り返しを過ぎた私にとって望んだ以上の幸福だった。
どの旅がよかったと順位づけをすることは意味もないが、第一級のいい旅だったとあえて振り返っている。
そんなことを考えながらぼんやりしていると爆音轟き、頭上をオスプレイがパスしていった。
「これもみて帰れよ」と神様がよこした気がした。
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