扶桑往来記

神社仏閣、城跡などの訪問記

岡高のころ

2012年06月17日 | 来た道

私の母校岡崎高校は毎年特定の年次の卒業生を集め、盛大に同窓会をやるらしく今年が当たり年であった。

同級生にほぼ四半世紀ぶりに会うというのは不思議なもので当時の風貌を背負ったものもいれば、幾星霜に名札をみなければ誰か思い出せないものもいる。
逆に体重が30kg増しになっている私など「奴は何者か」であったろう。

愛知県人というのは古代から関の外の豊かな国であったためなのかもしれないが国境を越えて出る必要が少なかったように思える。
ところが国政をみることになった武人というのは皆愛知県にゆかりがある。
源頼朝は熱田大宮司の娘を母とし、足利尊氏は三河の一族の力を借りて緒戦を戦った。
織田信長と豊臣秀吉は西へ出て天下人となり、徳川家康は東へ行き少し遠回りをした上で幕府を開き、実質的な首都を築いて三河者を連れて行き、諸国に譜代大名としてばらまいた。
別にお国自慢をするのではないが濃尾平野の人々は運がいい。

三河人というのは三河弁のひびきがそうであるように人柄が濃く湿度が高い。
よって私のように高校卒業と同時に故郷を出て、異国人に揉まれて過ごしたものからすると三河の朋輩の中にいると懐かしく、いいようのない居心地の良さがある。
この感覚は同窓会に関東から駆けつけた人々にはきっとあると思う。
もっともそれは三河人に限らず「故郷はいい」という一般論なのかもしれないが、徳川家康が何故あれほどに三河武士を奮い立たせ、不慣れな行政を押しつけたかということのひとつの答えになるのではないか。
三河者以外にむずむずとした違和感があったのだろう。
信長や秀吉はそうではない。
適材とみれば誰でも使い、尾張という故郷を軽々と捨てた。

国を出た同級生は皆居心地の良さに背を向けた分の成功を手に入れているように思われる。
顰蹙覚悟でいえば裕福な庄屋さんと小身ながら一城の主になった三河武士の違いがあると思いたい。

私は人生の岐路の選択肢において常に冒険することがなかった。
ならば三河の庄屋さんをめざせばよかったのであろうが三河人が最も苦手とする思想やら哲学やらをこねることしか能がなくしかも学校が嫌いであったため今日かような目にあっている。

以下少々いやらしい言い方になる。
岡崎高校に通っていた頃の私は今思えば信じがたいくらいに「飲み込み」がよかった。
中学生の頃から歴史好きであったことに加え純文学好きが加わり、部活を辞めた後はあほのように本を読んでいた。
日本史と世界史は受験勉強をしたという気持ちがなかったし、国語の試験に出るような文章はすでに読了済みであった。
受験というものは「誰かに勝つ」という競争意識も悲愴感もなく、おもしろかったから学んでいるうちに高校を卒業した。
人生の運に総量が決まっているのならここで使い果たしたのであろう。

話を同窓会に戻すと教師というのは偉大な人々であると思わざるを得ない。
前記のような生徒は教師にとって最も扱いにくいものである。
誰よりも遅く登校し、誰よりも早く下校し、授業をまじめにきかず、堂々と別の本を読み、堂々と眠った。
思えば岡崎高校という学校は我々受験生を追い立て、受験指導をしなかった点で珍奇だった。
3年生の担任の先生にも今日お会いしたが学校の方針としてそうだったらしい。
もしも他の高校でしかもM先生にあたっていなければもう少し頑張って東の法学部に行けと尻を叩かれてもしかたなかったのであろうが「西の文学部に行きたいのならそれでよい」と言われた日のことを今でも覚えている。
2年生の担任の先生も私のことを覚えていて、今日の私につながる性癖を当時からいかんなく発揮していたことを即座に指摘された。
毎年40人の生徒を30余年覚えているというのは教師という専門職の記憶力はすさまじい。

私が夜郎自大であったことに気づくのは卒業後、だいぶん後のことになる。
同級生と会うと自分のスケールの大小深浅を図れてしまう。
何のことはない、過去の自分を知るものの証言と顔色で歴史を掘るということである。

ということもあってか、4次会を欠席し六所神社にお参りに行った。
この神社は岡崎高校への通学路の脇に参道がある。
おそらく何百回となく、国の重文である六所神社の前を素通りした。
京都や奈良の神社には嬉々として出かけているのにである。

卒業後、30年目にして初めて参道を行くとすでに暗く、しかも神社にしては珍しく受付が終わっていた。
ために家康が松平郷から引越をし、家光が堂宇を寄進した社殿は石段越しに楼門をみるだけであった。

六所神社とは六つの神様を併せて祀ったことをいう。
他にも六所神社は各地にあり祭神は一定していない。

岡崎の六所神社は塩土老翁命・猿田彦命・衝立船戸命・太田命・興玉命・事勝国勝長狭命である。
いずれも神の行く道を案内する神様である。

暗がりにも赤々とした楼門越しに神様が「このたわけが、それみたことか」と笑っていた。
三河の庄屋さんにもなれず、一国一城の主にもなれずにいるのはこの神々の悪戯かと妙に気が晴れた。
いまだ拝んでもいない日光東照宮の権現様にお参りに行かねばなるまい。


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