2015年もそろそろ通常運転に入る時期ですね。我が軌道エレベーター派も新年気分を脱して更新をしていくにあたり、最近の軌道エレベーター業界?について思うところを、自戒も込めて一筆。
ここ数年で目立ってきたのが、軌道エレベーターの理論にしろ、ニュースにしろ、サブカルチャー作品にしろ、「その情報は既出では」「この点が念頭にないのか?」といったケースに出くわすことが増えてきたということです。
昨年、「新しい発想」として紹介された発表に、「それは最も古典的な方法論ではないのか」と大人げなく突っ込んだことがありました。また、数年前にある小説のチェックを頼まれたことがあって、著者は『軌道エレベーター』も『楽園の泉』にも目を通してない(もし読んだのだとしたら、何も理解できてない)のが丸わかりである上に、そもそも宇宙を舞台として描く上で、下調べが欠落していました。前者の発表の方は、私が言葉尻を捕まえただけで、その内容は高度で真摯なものであり、細かい計算や論証は私などが及はないレベルでしたが。
ともあれこうした傾向は、私たちが宇宙エレベーター協会をつくって活動を始めてから、話題として急激に勃興したせいもあるのでしょう。ネットでよく言われる言葉を借りれば「にわか」が増えたのかも知れません。また、一つの研究分野として、学問的な体系が確立していないせいもありますし、論文を書く時などは「新しいものから目を通す」というのが基本姿勢でもあります。ネットの普及によって、文献の調べ方そのものが変化したせいもありますし、1人の人間がフォローできる情報量などたかが知れてます。何事も「にわか」から始まるんですから、目が行き届かない部分が生じるのは仕方ありません。
しかし、軌道エレベーター派としてのひいき目では決してなく、ここには「軌道」と「宇宙」の時代的隔絶があるように感じます。「宇宙エレベーター世代」は、「軌道エレベーターの時代」に培われた基礎的な情報をカバーしていないケースが増えている気がするのです。はっきり言うと、1次資料に触れることをしなくなってきている。世代的な姿勢の違いなのでしょうか? でも、そういうのは発表や作品を見ると、わかる人にはわかってしまうものです。
この20~30年で情報化が急速に進み、あらゆる情報が自由に手に入って楽ができる時代が到来するかと思いきや、楽な領域も得た分、玉石混交の情報の洪水の中から、適切な情報を取捨選択することに膨大な時間を割かれるようになってしまいました。決してアナログ回帰を叫ぶつもりはありません。東西の壁を崩したのも、「外の世界ではもっといい暮らしをしている」という情報を得られるようになり、人々が権力者の嘘を暴けるようになったからです。弊害はあっても、昔よりは今の方が絶対ましです。
「知ること」は、生きるということの重要な本質の一つです。個人が享受・発信できる情報量が増大していくという方向性は、社会基盤が根本的崩壊でもしない限り、今後も変わらないでしょう。しかし、「調べてものを書く」という行為において、やっぱり1次時資料に触れるというのは不可欠です。私自身、こういうサイトをやっているのですから、気をつけなければいけない。というか、見落としがないか、置いてきぼりにならないか、といつも怖いです。
軌道エレベーター派は、この分野ではもうロートルでしょう。だからこそ温故知新というか、我々の世代をあっと言わせてくれるような、過去の業績をしっかり咀嚼して独自の発想を加えた、魅力的な新理論や作品の登場に期待したいものです。
ここ数年で目立ってきたのが、軌道エレベーターの理論にしろ、ニュースにしろ、サブカルチャー作品にしろ、「その情報は既出では」「この点が念頭にないのか?」といったケースに出くわすことが増えてきたということです。
昨年、「新しい発想」として紹介された発表に、「それは最も古典的な方法論ではないのか」と大人げなく突っ込んだことがありました。また、数年前にある小説のチェックを頼まれたことがあって、著者は『軌道エレベーター』も『楽園の泉』にも目を通してない(もし読んだのだとしたら、何も理解できてない)のが丸わかりである上に、そもそも宇宙を舞台として描く上で、下調べが欠落していました。前者の発表の方は、私が言葉尻を捕まえただけで、その内容は高度で真摯なものであり、細かい計算や論証は私などが及はないレベルでしたが。
ともあれこうした傾向は、私たちが宇宙エレベーター協会をつくって活動を始めてから、話題として急激に勃興したせいもあるのでしょう。ネットでよく言われる言葉を借りれば「にわか」が増えたのかも知れません。また、一つの研究分野として、学問的な体系が確立していないせいもありますし、論文を書く時などは「新しいものから目を通す」というのが基本姿勢でもあります。ネットの普及によって、文献の調べ方そのものが変化したせいもありますし、1人の人間がフォローできる情報量などたかが知れてます。何事も「にわか」から始まるんですから、目が行き届かない部分が生じるのは仕方ありません。
しかし、軌道エレベーター派としてのひいき目では決してなく、ここには「軌道」と「宇宙」の時代的隔絶があるように感じます。「宇宙エレベーター世代」は、「軌道エレベーターの時代」に培われた基礎的な情報をカバーしていないケースが増えている気がするのです。はっきり言うと、1次資料に触れることをしなくなってきている。世代的な姿勢の違いなのでしょうか? でも、そういうのは発表や作品を見ると、わかる人にはわかってしまうものです。
この20~30年で情報化が急速に進み、あらゆる情報が自由に手に入って楽ができる時代が到来するかと思いきや、楽な領域も得た分、玉石混交の情報の洪水の中から、適切な情報を取捨選択することに膨大な時間を割かれるようになってしまいました。決してアナログ回帰を叫ぶつもりはありません。東西の壁を崩したのも、「外の世界ではもっといい暮らしをしている」という情報を得られるようになり、人々が権力者の嘘を暴けるようになったからです。弊害はあっても、昔よりは今の方が絶対ましです。
「知ること」は、生きるということの重要な本質の一つです。個人が享受・発信できる情報量が増大していくという方向性は、社会基盤が根本的崩壊でもしない限り、今後も変わらないでしょう。しかし、「調べてものを書く」という行為において、やっぱり1次時資料に触れるというのは不可欠です。私自身、こういうサイトをやっているのですから、気をつけなければいけない。というか、見落としがないか、置いてきぼりにならないか、といつも怖いです。
軌道エレベーター派は、この分野ではもうロートルでしょう。だからこそ温故知新というか、我々の世代をあっと言わせてくれるような、過去の業績をしっかり咀嚼して独自の発想を加えた、魅力的な新理論や作品の登場に期待したいものです。