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歴史考(その27)

2017-02-22 13:55:47 | 歴史

山笠の大元の・畑神社の由来を調べてみた。

この神社、建久年間(1190 - 1199年)、筑前の宇都宮氏(麻生氏)の祖である宇都宮重業が、出身地の宇都宮から氏神の八幡神を勧請し、

花尾城の鬼門にあたる・光村宮田山に祀ったのに始まる。

後に・畑村に遷され、・畑・中原両村の産土神とされた。そー、わが故郷の・光の宮田山がそのルーツになる様です。

この宮田山、この地では宮田町、宮田トンネル等、その名が冠されており、多分にこの周辺に神社が構築された様ですが、その痕迹は残念ながらありません。

この・光には神社が今でも1社あり、その名もずばり・光神社、そこの由来では、1194(建久5)年、下野国の麻生上野介重業(しげなり)が花尾城主になり、

領地の鬼門にあたる宮田山に、宇都宮八幡大神を勧請したのが・光八幡宮の由来とあり、・畑神社とほとんど重なります。

江戸時代の寛永年間(1624-44年)、現在の諏訪山に 移って社殿が築かれたとある。

その際、諏訪山にあった諏訪神と須賀神が共に祀られ、今の神社になっています。

 

これとは別に旧・幡市(現・九州市・幡東区)の名の由来となる大元の・山神社が花尾城の麓にあり、この神社が更なるルーツの神社の様です。

推古天皇の御代(飛鳥時代:600年前後)新羅国が任那に侵入した為、大和朝廷は神功皇后の故事に倣い洞の海より入港し軍団を整えていた。

その際、神託あり「我は、八幡大神なり。今、宇佐の宮より此の所に跡をたれんと思う。我を祭れば、新羅国は弓を袋に太刀は鞘にいれ朝廷にしたがうであろう。」

神告の御教により、帰朝後、八幡大神を前田村巽の森茎船(西本町)に鎮祭し、岡県主彦足を神主として奉仕させる。

ただ、宇佐八幡宮が京に上り、力をつけ始め八幡神として登場し出したのは750年以降であり、これらの年代にやや齟齬がある。

そのため、今一この八幡大神は眉唾ものである。

その後、光孝天皇の御代(平安時代(830~887年))大宮司岡県主年麻呂に御神託が有り、現在地に御神体を遷し大宰府官人奉行のもと荘厳なる神殿が建立された。

この神社、その後京都石清水八幡宮管轄の荘園となり、・倉六ケ村(尾倉、前田、大蔵、・光、・旗、中原)の総鎮守として隆盛を極めています。

文禄二年(1593年)・光村、慶安元年(1648年)前田村、寛文七年(1667年)大蔵村へ当社ご分霊を遷し、それぞれの氏神様となっています。

・山八幡神社に残る古文書「波多野家文書」によると、安土・桃山時代末、・山八幡神社が・光村に勧請され、

・光村、・畑村、中原村の氏神になり、その後、・畑村、中原村に分祀されています。

この流れを表示すると、宇都宮重業建立(1190~1199年)・光八幡宮→寛永年間(1624~1644年頃)・光神社(諏訪山への移設)

                                  →時期不明 ・畑神社(移設、分社、勧請?)

または

光孝天皇の御代 (800年代なかば)建立・山神社→ 安土・桃山時代の文禄二年(1593年)・光神社(分社、勧請?)→時期不明 ・畑神社(分社、勧請?)

とした神社の移設、勧請の流れがあり、・畑神社はこの地では、結構新しい神社となる様です。まー新しいといっても数百年前ですが・・・・。

確かにこれらの神社の祭神調べてみると、こんなものです。勧請なり、分社ありそうです。

・山八幡宮

【御祭神】

○帶仲津日子命 たらしなかつひこのみこと (仲哀天皇)

○譽田和気命 ほんだわけのみこと (応神天皇)

○息長帶比賣命 おきながたらしひめのみこと (神功皇后)

○宇遲和紀郎子命 うじわきいらつこのみこと

 

・光八幡宮

八幡神(神功皇后・応神天皇)・比売大神・須佐之男命・建御名方神

 ・畑八幡宮

八幡神(神功皇后・応神天皇)・比売大神・須佐之男命・道祖神

 

そーこの・畑神社の親か兄弟の神社が我が・光神社となり、山笠のルーツはわが・光なのか!!と云うのは言い過ぎ?

と思っていたら、そーでもない様です、それについてはまた今度!! 

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