脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

スポーツにおける脱魔術化

2023-11-10 | Weblog
私はアニメコナンが好きである。何年か前までは新作が上映されれば見に行っていた。コナンは教育上いいアニメだと思っている、それは彼がどんな時もいかなる状況でも考えることをことをあきらめない、その知恵や勇気をふりしぼった時には必ず解決策は見えてくるということを教えているからである。よく人はあきらめるなと言うが私に言わせてみればあきらめるなと言うことは考えることをやめるなと言うことである。しかし考えろと言っても考えるための材料がなければ考えることなんかできない。コナンは少年であるが英語を話し、学術的なこともたくさん知っている。そういう素地があるから考え続けることができるのだが、運動に例えると体力がない人間にひたすら走れと言っても走り続けることができないように、考えろと言っても考える素地がなければ同じことで、いろいろなことを学んで知識を蓄えなければ正しい答えを導き出すような思考なんてとうてい無理な話だ。私はスポーツしかできない人間を評価できない。スポーツを否定する気はさらさらないが、しかしそれしかできない人間は話していてもおもしろくない、価値観が狭く自分にしか興味がなく、最終的には自分の自慢話しかできない、そういう人間が多いからだ。こういう人間が組織を動かしたり、指導と言う立場に立つと一面的な考え方しかできないので問題がおこってくる。これからのスポーツは多面的に物事を考え理解するために、学習面を重要視すべきであると思っている。
マックス・ウェーバーは、近代とは社会の合理化過程のことであるとした。近代とは教会や聖礼典による救済あるいは迷信や神霊としての呪術からの解放であった。彼のいう合理化とは、気まぐれ、恣意性、情緒、呪術、 神霊、伝統、特殊な人間関係などによる判断と これにもとづく仕組みを排して、正確で抽象的な概念によって現実を理論的に捉え、ものごとを一般化し体系化することを意味する。」すなわち近代化や合理化は過去の宗教的な迷信や儀式に頼らない、脱魔術化をはかることだということだろう。スポーツの世界においても古い考え方しかできない人間は伝統とかしきたり、そして形式的な礼儀にこだわりそれが正しいことだと信じて疑わない。そのスポーツに没頭しろぐらいの勢いでしょうむない感動話をふきこんだり、何とか道的な陳腐な哲学まがいのことを語るのも当時の祈祷師や魔術師と同じ、こういう人間たちが子飼いをつくって独自のシステムをつくり、そこだけしか通用しない世界をつくることはスポーツ全体にとって害だと思う。最近レスリングで幼児に暴力をふるったという普通では考えられない事件があったが、まさにこういう事例はそういう世界だからおこったことで、おそらくこういうことはまだまだおこりうるだろう。話は少し複雑になるがこういう関係がみとめられ、一方的な話が堂々と語られる家父長制と言うシステムからも脱却することも必要なことで、そのためには英語を理解し、哲学や、心理学社会学などの学問的考察をもってスポーツそのものを理解することも大事なことだと思う。

参考文献
「コミュニティを問い直す 、 個人化のもとで 共同体はいかにして可能か」学術の動向 (ジャーナル)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする