脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

個をみがけ

2017-06-10 | Weblog

宗教学の授業でSchleiermacherと言うドイツの哲学者が宗教は絶対依存の絶対感情だと言っていたことを習った。でもしかしそんなことを言ったら犬が一番信仰心が強い動物になってしまう。はっきり言って彼の宗教の定義は支持されるものではないが、しかし日本の監督中心のスポーツのヒエラルキーと言うものはそれに近いのではないかと思っている。私から見たらスポーツのヒエラルキーに順応すると言うことは監督やその他の先輩などの輩の子分になること、監督と言うお父さんを尊敬あるいは尊敬の意を表すことが求められる上部依存型のヒエラルキーシステム的にはやくざのヒエラルキーと何らかわらないと思っている。はっきりいってそんな親玉の監視下にあるような軍団に入っていたら自由に自分を表現できない。こういう輩はトレーニング中にほえたり、勢いあることは言えるが、しかしそれは血気盛んで勢いはあって、ただ暑苦しくてうるさいだけだ、持論であるが本当にやってやろうと言う気持ちはそういう奴らのパフォーマンスのようなものではなくて、離れたところで自分を磨き個を確立させることで出てくるものだ。

私が競技者の時こいつはすごいと思った男がいる。彼はのちに世界ランカーまで行ったが、そのボクシングにかける情熱がすごかった。ある試合で彼は勝ったにもかかわらず思い切り悔しそうにしていた。たぶん自分の試合に満足がいかなかったのだろう、のちに世界をとろうとする男は我々と見ているものがちがって、これぐらいの内容じゃあ世界は通用しないと思って悔しがっていたのだと思うが、その時私はその彼の悔しがる様子を見て、こいつは俺たちとは違う絶対に強くなると思った。こう言うことを言うとフェミニズムにおこられるが、男が一度悔し涙や悔しいと言う思いをしたら、その時本気にならなければいけないと思う。我々のように趣味であれば別だが、しかし試合に出て上を目指しているというのなら、何度も何度も次は勝ちますとか同じパフォーマンスを繰り返さない。一度やられて悔しい思いをするというのは競技者にとってそれは成長させるための糧である。本当に悔しい思いをしてそこから本当に強くなっていく、そしてそういう体験が競技者を成長させるのだと思う。才能がなかった私自身もその悔しさをバネにしたと思っている。はじめてのスパーで相手にならなかった時も悔しくて悔しくてずっとリングを見ていたのだが、その時悔しくて涙がでそうだったけど泣いてたまるかとこらえたのだが、本気で強くなったやろうと思ったからこそ、その気持ちをたやすことなく一生懸命トレーニングし続けることができた。たぶんそういう気持ちがあったからたいしたことがないBサイドレベルの人間がある程度活躍できたのだと思う。一度こてんぱんにやられることは競技者として成長するためには必要なことかもしれない。しかしその経験を生かせばもっとさらに強くなれるだろう、でもしかし悔しがるにしても涙を流すにしてもそれは本気でなければ意味がない。

 


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Dear George

2017-06-07 | Weblog

外国でのデビュー戦、自分ひとりで相手は外国人そしてセコンドも外国人、はい誰を信用しますか?答えは自分自身を信じると答える人間はブーッ、答えはセコンド、セコンドを信用しなければ勝てることはない。セコンドを信じてコミュニケーションをとることができなければ外国のリングで有利に試合を運ぶことができないし、有意義なボクシングはできないと思う。私のボクシング人生はすごく楽しかったがそれはコーチや監督のおかげだと思っている。ケグジェンイで個性が強い私をうまく引っ張って行ってくれて、たいした偉業ではないが、しかし私のポテンシャルでここまでにしてくれたのは間違いなく彼らがボクシングを有意義に競技させてくれたからだ。

私のコーチであるジョージの出会いはカラカウアジムと言う大きなジムで私がヒスパニックのボクサーに全く相手にならずにたたきのめされて悔しくて悔しくてずっとそこに立ち尽していた時に声をかけてくれたことである。強くなりたかったら明日もう一度ここに来いみたいなことを言われて、その日から私はボクシングを教えてもらうようになった。そしてこのことはブログでも書いたが、彼は私がすごく速くパンチがうてるのを見抜いていて、その能力をうまくトレーニングで引き出してくれたがこのおかげで才能がなかった私が多少なりとも活躍できたと思っている。よくジョージはボクシングはお前のように悪坊主じゃないとだめだと言っていた。そしてその悪坊主とコンビを組んでカラカウアジムにいられなくなってカリヒというところに行くようになったが70パーセントはジョージのせいだ。ジョージとはよく口論になったが、でも試合が終わって勝ってリングをおりるとお前は天才だと言ってくれる。向こうではコーチが競技者をボーイと呼ぶがこれは尊敬と愛情を込めた呼び方でそれは本当の我が子のように接してくれ、リングで戦うのは私ひとりであったがジョージがセコンドにつくとまるで自分が対戦するかのように応援し見守ってくれ、まさに二人三脚のようにファイトしたと思う。パーティに彼が私をおくってくれた時に、韓国人の女の子があのおじいさん本当にあなたが大好きだねと言っていたが、本当に彼は私を家族のように扱ってくれその二人で歩んだボクシングの1パージ1ページは本当に楽しく貴重であったと思う。ボクシングは個人スポーツだ、でも自分を理解し支えてくれる人がいないと勝てないスポーツでもある。ボクシングの素晴らしさはこういう出会いがあることだ。私はこのボクシングを通して多くの人たちと出会って来た。そしてその中でも私とジョージは最高のコンビであったかも知れない。

 

 


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Rident stolidi verba latina

2017-06-03 | Weblog

も哲学の講義に「トロッコ問題」と言うのがある。これはフィリッパ フットと言うイギリスの哲学者が提示したことをNHKの白熱教室でサンデルが引用した有名な話である。制御不能になった猛スピードで走るトロッコの先には5人の作業員が、左の進路をかえれば一人の作業員がいる。あなたそのまま進むかあるいは左に進路を変えるかどちらを選ぶかと言う問いである。白熱教室ではこの問いに対して様々な意見が出ていた。しかしこの問いに対して正しい答えはなく、答えは我々が思考しながら導き出していくものである。日本人は比較的善悪の基準がはっきりしているし、世の中の価値基準が変わったとしても変わらない黄金律と言うものは存在すると思っている。しかし思考しつつ導き出していかなくてはならない正しさも然りで、まさにこの哲学の講義はそのことを物語っているのだが、特に我々のようないろいろな人たちが集まるクラブにおいてもそれは言えることで、思考することは重要である。思考しない集団はズレていく。ジェンダーの問題や倫理の問題など今やスポーツと言えど医学や科学そして哲学をものさしにして考えて行かなくてはいけないことがたくさんある。子供にボクシングさせることだってそうである。させる側の意見としては子供の時からやらせたらアドバンテージがとれるようだが、医学上は間違いなく問題がある。しかも成長期の子供、頭をたたくことである。私などはあんな小さい頭をたたくと言うことに関してはすごく抵抗があって、まだ十分に精神的にも未熟な子供にスパーリングさせたりリングにあげたりするのは倫理上問題がある。軽くあてているとか危なくなったらとめると言うが、こういう輩は医師に話を聞いたのだろうか。私の倫理的な見解ではこういう問題は医学上危険であると言ったら危険、いくら軽くあててるとか危なくなったらとめるとか、本人の希望とかアホなことを言っていないで疑わしいことはしないさせないというのが教育的であり一般的な常識だと思う。さらにリングサイドから大声でどなったり、監督などがやくざの親玉のような感じで君臨しているのなんて言うのも人権の問題だ。私は医学上のことはなるべく医師やその他の専門家のアドバイスを聞くことにしているし、これは教育上よくないと思うことは排除しているが、それは恣意的なものや感覚的なものではなく、日ごろから何が正しいかと言うことを思考したことを結果としてとらえている。今グローバルで複雑化された社会で何が正しいかと言うものさしを持ってその群れを導いていくためには思考すること、そしてその方法である哲学を学ぶと言うことは非常に大事なことだと思う。

よく俺には哲学があると言う人間がいるが、しかしこういうことを言う人間に限ってものさしが小さく基本的な事柄がわかっていない。実存主義、Occam's razor、アウフヘーベンなんて言う基本的な言葉を理解してもいないのに、何とか哲学なんてエラそうに言うのは非常にみっともないことだ。哲学は持つものではなくするもの、現在進行形である。俺には哲学があると言うことを言う人間は自分の考えに固執しているだけである。もうよく例に出しているのでそれ以上例に出す必要はないがそれしかやったことがない、それしかできない人間と言うのは俺とか俺たちと言う一人称でしゃべる、所謂物事を客観視できていないものさしが小さいのだ。哲学は誰にでもできるものだが同時にもっと深く考え、正しさを導き出すためには広い物差しが必要である。はっきり言ってスポーツのルールや集団ごときを経験したぐらいですべてをわかったような気になっている人間がいるが、こういう人間はまさに井の中の蛙、スポーツ指導者にこういうタイプは少なくはない。はっきり言って教師や教育機関に携わっているものはただそのスポーツの記録をのばせばいいとと言うことを考えるだけではだめだ、子供の心理や成長を考えて、心も体も成長するようなスポーツ指導を目指さなくては意味がない。それを成長期に無理な減量をさせたり、医学的なことを無視したスパーリングをさせたりするのは言語道断、私は医学的なことはあまりわからないので時々ドクターからアドバイスをうけるが、ドクターは非常に重要で一番アドバイスをうけなくてはいけない重要な存在だ。これは個人的な意見であるが群れの質を上げるためには専門家やインテリ層の意見を聞くことは大事なことだ。しかしそういう輩はコンプレックスかどうかわからないが、インテリ層である人間たちの話を聞こうとしない、遠ざけようとしているような気がしてならない。たぶんそれしかできないと言うのはしょうむないメンツにこだわるので、そこまでのレベルで話ができないのではないかと思っているが、はっきりいってそれは賢明ではないだろう。

余談かもしれないが本を選ぶのもある意味センスが問われる。成功哲学とかリーダーとしての条件とか格闘家とかボクサーの伝記、そういう単純でこうだからこうという出来上がったものを読んでわかったような気になるメンタリティが理解できない。本を読むと言うことは思考すると言うことである。思考しなくては世界が広がらない。確かにその手の本は多少なりとも思考はできるだろうが、しかし内容が単純すぎる。それはロールズの正義論やサンデルのこれから正義の話をしようの目次にも及ばない直線思考の人間には理解しやすい本だと思っている。

はっきり言うが私は哲学を持っているとは思ってはいない。なぜなら哲学は進行形で今現在していることである。現在進行形だからこそそれは進歩していくものである。自慢になるが私は英字新聞を読んでいるし、最近買った本はアドラー心理学の論文の英語版である。私はそのコミュニティの責任者は羅針盤のようなものであると思っているが、その混沌とした世界で何が正しいことかそして自分たちはどこに向かうべきなのかと言う方向を示す役割、それがそのコミュニティ群れの責任者の仕事であると理解しているが、そのためには自分の視野を広げひろいものさしを持つことが大事なことだ。


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