脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

自己肯定感

2011-08-19 | Weblog
フランスの作家ロシュフコーの言葉でこういう言葉がある。
「過ちをおかさないよりも、過ちを白状するほうが立派な場合が多い」
今真面目に生きている人間がそんをする時代であると思っているが、まさにこの言葉はそのことについてある種の風刺的な言葉として私たちに語りかける。
よく元ヤンキーや不良が立ち直って絶賛されていると言うことは格闘技の世界ではありがちである。
しかし私にはよくわからない、今まで散々悪いことをやってきた人間が、少し当たり前に生きたぐらいで素晴らしいと言われるのはちゃんちゃらおかしいし、ボクシングや格闘技と言うフィルターを通して、そういうことが人生のサクセスストーリーとして語られたりすることはかなりバランスが偏っているように思えるのだが、真面目に一生懸命がんばって生きて来た人間のほうが尊いと私は考える。
カイジという有名な漫画がある。
だいぶ前アニメで見たのだが、私はあまり好きではないが、その漫画にはよく胡散臭い奴がでてくる。
そのキャラクターは特定の人間だけではなく、その他一同の脇役も社会不適合型の雰囲気をただよわせているところが何とも言えないのだが、そういうアウトローたちの姿を描いた漫画のようだ。
ここにはアウトロー的な人間はいない、むしろここの会員は、社会的にもしっかりしていると言えるのが自慢である。
社会的にしっかりしていると言うのは、上下関係をよくわきまえていて、でかいこえであいさつするというような程度のことではなく、教養のレヴェルもあって、社会人として自分の仕事に誇りをもっているということである。
そういう社会的にも自分の仕事にほこりをもっている人と言うのは、バランス感覚がいいので、余計なルールや決まり事など必要としないのだが、金銭的なことにたいしてもきちんとしたバランス感覚をもっていて、しょうもないことでせこいことはまず言わない。
また人の役に立とうと言う気持ちも強くもっているので、親切に人にふるまえるし、公平な感覚を持っているので、非常に気持ちよく接することができるので、入会した人から、バランスがいい、できた人が多いと言う意見をよく聞くが、だいぶ前は面接の担当をしていた人が、自分が人を人選していると思っていろいろと聞いてきたぐらいであるが、そのことに関しては、私は誇りをもっている。

しかし以前ここで教える立場にもかかわらず。だめだと見限った奴が何人かいる。
正直話したら恥ずかしくなるぐらい人間としての行動ができていないのだが、しかし自分たちはわかっていない。ある程度きちんとした人間なら理解できるのだが、そういう人間を観察して分かるが、まずこういう人間はなぐられたり、どなられたりしないと物事を理解しようとはしないということである。
うわべではあいさつができてハイハイと礼儀正しく振舞えるが、しかし根本的にきちんと物事を考える訓練ができていないので、かなり物事を恣意的にうけとり、怒鳴らない人間や、暴力を振るわない人間にはなめてかかるのが、こういう輩の特徴である。
むかし経験者で会費を計画的に踏み倒した奴がいた。
入ってくる時は礼儀正しく「こんにちは」帰る時はきちんとむかって「ありがとうございました」大きい声で、いかにもボクサーとして礼儀正しい人間のようにふるまっていたが、しかし金銭的なことになると全くその逆、催促しても給料日がころころかわるし、最終的にはその給料日にはぜったい持って来いと言うと、その前日まできてその次の日からドロン、まさに犯罪そのものであるが、こういう奴は我々のように言葉で解決しようとするとなめられる、暴力や恫喝をもっておさえつけなくてはだめなのだろう、まさにアウトローであるが、最近モンスターペアレンツに見られるようにこういう輩が増えて来ているのではないか。

正直こうい奴を見ていたら、本当に教育って大事だと思う。
物事の基本的なことが分からない人間は、情でつながり、何が正しいかということをきちんと公平には見れないので、まともな判断ができないのだろうし、聞いても理解できるキャパがないと思っているが、だいたいこういう奴の意見と言うのは、自分はこうだからこうだというような木を見て森を見ずの恣意的な意見で、しかしこういう奴に限ってよその土地に行ったことがない、本を読まない、語学もまったくだめであるが、冷静にに考えてこういう人間が、客観的に物事を考えることはできるはずはないのだが、おそらくこういう人間に何が公共的で正しいことかということを教えるのは、サルに芸を教えることよりも困難であると思っているが、往々にしてこういうたちのわるい輩には同じような仲間がいるから厄介である。

ここには県外から出張の時に教えに来てくれる人たちがいる。
その人たちは非常にバランスがよく、いろいろな人に話しかけて指導してくれるのだが、彼らは社会人としても自分の仕事にほこりを持っている。
しかしこれに対してキャパのない人間はバランスがわるく偏りがある。
自分の通用する相手や女性にならば、積極的にべらべらと自分の価値観や生き方について語るが、しかし自分よりも高い教育をうけた人間に対してはコンプレックスがあるので、どうしても距離を置いてしまう、その態度は見ていたら明らかにわかるが、そういう人間が自分にとってやりやすい人間、都合のいい人間を集めて師弟関係を結んだり、仲良くなったりするのがいわゆる仲間である。
しかしそういう特定の価値観で集まった人間と言うのはどこか影があり、さっきあげたカイジのその他一同のグループのように見えてしまうのであるが、こういう輩は往々にしてこの集団では仲がよく、明るく、協力し合うが、しかしひとりびとりは社会不適合型が多く、さっきも言ったように何となく影があるので、こういう輩が同じような仲間で固まると言うことは、非常に物事の味方のバランスをうしなう傾向があると言うのは周知のことである。

最近ではボクシングも一般の人間も競技する時代になってきて、少しわけありの人間が、人生を大逆転させるために競技するものではなくなってきていると思う。こういう時代にやたらアウトロー的な雰囲気をただよわせて、意地や根性を強調するのはナンセンスだし、もしそういうことを強調するならば、かなりバランスは悪くなる。
たぶん今の子供に意地とか根性と言ってもわからないであろう。
ここには運動神経はいいが、ことマスボクシングになるとしり込みする子供も結構もいるが、しかし昔のように根性でやってみろとか、意地を見せろと言うようなことは言えない、なんせ時代が違うのだから、無理にやらせばかえってトラウマになる。
しかしそういうことを言うと、今の時代はそういうしんどいことを乗り越えていく力が必要だと言うのもいるが、しかし殴り合いは別、だいたい常識で考えて自己肯定感と言うものがあるならば、殴り合うと言うことはいくらルールがあっても、自分や人を傷つけるのだから、はばかるのは当たり前、それを自分たちの世界の発想でひくなにげるなと意地をぶつけさせることは、かなり問題があり、そういう自分たちの世界や価値観を強調して集まると、さっき言った独特の雰囲気を持つ集団になってしまうのではないだろうか?

もうボクシングもおちこぼれや不良のやるスポーツではないだろう。
やれとかがんばれ根性を出せと言ってもかっこつきの人間しか集まらないだろう。
自己肯定感の低い人間なら、多少自分を傷つけてもいいと意地になれるが、しかし普通に教育をうけて、普通に生きていたら、多少のコンプレックスはあってもそれを完全否定するような気持ちなどなれない。
ましてや自己肯定感があるこどもはそうであるが、たたいたりたたかれたりするということは特別なことで、そういう特別なことを、むかっていけとかにげるなというような単なる意地に置き換えることは愚かなことで、ボクシングは殺しあいだのつぶしあいだのいう奴がいるが、こういう言葉はまさに自分を否定的にとらえているから言えるのであって、自己肯定ができる人間はこういうことは言わないだろうと思っているが、やはりこういう厳しいスポーツを競技させるに当たっては、それなりに思慮分別のある言葉を選ぶことが必要であると思っている。













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