5月から本格的に英会話クラスが始まる。
そのレッスンを4月に受け付けているのだが、みなさん関心度が高く、実験的に4月からはじめている人もいる。
この英会話教室は、外国人英会話スタッフと私の友人に頼んでSkypeを通して30分の英会話のレッスンを受けてもらうのであるが、方法はレヴェルに応じてテキストをつかったり、フリーカンヴァセーションを持ってもらうのだが、これがさらに好評であれば、英会話講師をひとりこちらに呼んで、一日1、2時間ジムに常駐してもらい、その時はいつでも話せるようにしてもらうつもりである。
この英会話クラスを提供したのは目的がある。
それは将来英語を話し、英語で情報を収集し、英語で意見をはっきり言えるボクシング競技者を育成することであるが、オリーヴには結構小学生から大学生がいるのだが、彼ら彼女らをターゲットにしたいと思っている。
話は変わるが、最近子供や若い人が、自信をつけたいからという理由でボクシングをはじめるのだが、しかしはたしてボクシングを競技しただけで自身がつくのだろうか?
畑山と言う元ボクシングの世界チャンピオンがいる。
私は彼のことを現地点では非常に評価しているのであるが、彼こそ不良と言われる人のローモデルにふさわしい人間だと思っている。
話を聞けば彼はかなりの不良で高校を退学になったそうであるが、チャンピオンになってから大検かなにかで、高校卒業の資格をとって大学に行ったそうである。
私は彼が偉いなと思ったのは、チャンピオンになったにもかかわらず、あえてこういう自分に足りないものを補おうとした点である。
そこがチャンピオンと言う権威に、しがみついて生きている人間との違いである。
2、3年前だろうか、なんというボクサーかは忘れたが、そのボクサーの引退式に畑山が出席して祝辞を述べていた。
季節は真夏でかなり暑く、そこには何人かのボクサーが来ていたのだが、私はこの彼の祝辞を述べる姿を見て、彼は本当に洗練されているなあと感じたのだ。
この引退式にはよくわからないが、その世界では有名らしきボクサーが来ていたのだが、畑山以外のボクサーの態度と言うか、式に臨む態度が悪い、見ていたらまるでサルである。
暑いのはわかるのだが、人の式辞を聞いている時でも、だらだらと落ち着きがなく、服装も私服で、その式できちんと正装をして、胸のボタンをしめて式辞を述べる畑山とは対照的であった。
たとえ不良がボクシングをやっても、不良がボクサーになるだけで、畑山のように自分の足りなさを受け入れなくては意味がない。
人間は自分の足りなさに気づき、それを受け入れて精進するから、生まれ変わることができ、洗練される。
こういう式典で、がさがさとその場に不釣り合いな格好をしてあらわれた輩の姿をみれば、彼らの中学や高校時代がどういうものであったかということがわかるのだが、好きなことなら誰でもできる。
スポーツだけを強調すると、こういうメンタリティが擁護されて本当の自分の足りなさが自覚できないのだ。
しかしひとつのことを、本当に一生懸命やれば自分の足りなさが見えてくる。
そしてその足りなさが見えた時に、人間はどういう行動をとるかというのが問題であって、彼はその足りなさを克服するために、大検をとって大学に進学したのではないだろうか。
しかしたとえチャンピオンであっても、その足りなさを自覚せず、権威と威嚇だけで生きると思わぬ落とし穴がある。犯罪をおかすようなボクサーは、まさに権威に固執し、その自分の足りなさを自覚し、克服しなかったからである。
本当に自信のある人間は、そういういやで苦手なことだからこそ、乗り越えて克服しようと努力する。いやなこととは自分の足りなさで、その足りなさを受け入れ、乗り越えようとした時に人間に本当の自信が与えられるのではないだろうか。
ちなみにここの基本的指導方針は、無理をせず、本当の自分を受け入れるということである。ととえへたれであっても根性がなかっても、まずそれを自分の個性として受け入れることから始め、われわれもそれを彼彼女の個性として受け止めるのがここのやり方である。
そのレッスンを4月に受け付けているのだが、みなさん関心度が高く、実験的に4月からはじめている人もいる。
この英会話教室は、外国人英会話スタッフと私の友人に頼んでSkypeを通して30分の英会話のレッスンを受けてもらうのであるが、方法はレヴェルに応じてテキストをつかったり、フリーカンヴァセーションを持ってもらうのだが、これがさらに好評であれば、英会話講師をひとりこちらに呼んで、一日1、2時間ジムに常駐してもらい、その時はいつでも話せるようにしてもらうつもりである。
この英会話クラスを提供したのは目的がある。
それは将来英語を話し、英語で情報を収集し、英語で意見をはっきり言えるボクシング競技者を育成することであるが、オリーヴには結構小学生から大学生がいるのだが、彼ら彼女らをターゲットにしたいと思っている。
話は変わるが、最近子供や若い人が、自信をつけたいからという理由でボクシングをはじめるのだが、しかしはたしてボクシングを競技しただけで自身がつくのだろうか?
畑山と言う元ボクシングの世界チャンピオンがいる。
私は彼のことを現地点では非常に評価しているのであるが、彼こそ不良と言われる人のローモデルにふさわしい人間だと思っている。
話を聞けば彼はかなりの不良で高校を退学になったそうであるが、チャンピオンになってから大検かなにかで、高校卒業の資格をとって大学に行ったそうである。
私は彼が偉いなと思ったのは、チャンピオンになったにもかかわらず、あえてこういう自分に足りないものを補おうとした点である。
そこがチャンピオンと言う権威に、しがみついて生きている人間との違いである。
2、3年前だろうか、なんというボクサーかは忘れたが、そのボクサーの引退式に畑山が出席して祝辞を述べていた。
季節は真夏でかなり暑く、そこには何人かのボクサーが来ていたのだが、私はこの彼の祝辞を述べる姿を見て、彼は本当に洗練されているなあと感じたのだ。
この引退式にはよくわからないが、その世界では有名らしきボクサーが来ていたのだが、畑山以外のボクサーの態度と言うか、式に臨む態度が悪い、見ていたらまるでサルである。
暑いのはわかるのだが、人の式辞を聞いている時でも、だらだらと落ち着きがなく、服装も私服で、その式できちんと正装をして、胸のボタンをしめて式辞を述べる畑山とは対照的であった。
たとえ不良がボクシングをやっても、不良がボクサーになるだけで、畑山のように自分の足りなさを受け入れなくては意味がない。
人間は自分の足りなさに気づき、それを受け入れて精進するから、生まれ変わることができ、洗練される。
こういう式典で、がさがさとその場に不釣り合いな格好をしてあらわれた輩の姿をみれば、彼らの中学や高校時代がどういうものであったかということがわかるのだが、好きなことなら誰でもできる。
スポーツだけを強調すると、こういうメンタリティが擁護されて本当の自分の足りなさが自覚できないのだ。
しかしひとつのことを、本当に一生懸命やれば自分の足りなさが見えてくる。
そしてその足りなさが見えた時に、人間はどういう行動をとるかというのが問題であって、彼はその足りなさを克服するために、大検をとって大学に進学したのではないだろうか。
しかしたとえチャンピオンであっても、その足りなさを自覚せず、権威と威嚇だけで生きると思わぬ落とし穴がある。犯罪をおかすようなボクサーは、まさに権威に固執し、その自分の足りなさを自覚し、克服しなかったからである。
本当に自信のある人間は、そういういやで苦手なことだからこそ、乗り越えて克服しようと努力する。いやなこととは自分の足りなさで、その足りなさを受け入れ、乗り越えようとした時に人間に本当の自信が与えられるのではないだろうか。
ちなみにここの基本的指導方針は、無理をせず、本当の自分を受け入れるということである。ととえへたれであっても根性がなかっても、まずそれを自分の個性として受け入れることから始め、われわれもそれを彼彼女の個性として受け止めるのがここのやり方である。