脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Stop your cheap imitation

2014-03-06 | Weblog
近くのスターバックスでよく仕事をする。
この前DQN高校生らしき奴らが近くの席に座った、一応校則を守っているのかいないのかは微妙な服装と髪型であったが、しかしバカそうな雰囲気をかもし出していたので、うるさい奴らが来たなあと思っていたら案の定うるさい奴らであった。
なぜこういう奴らはアホみたいな目立ちかたをしようとするのかわからない、わざとでかい声でさわいだり、手をたたいて喜んだりして、まるでサルのようである。
もしマグナムを持っていたら近くをかすめてやるのだが、少ない語彙できゃっきゃきゃとサルのような奴らが騒ぐのはアホ丸出しで非常に不快である。
髪をど派手に染めるのも勝手であるが、しかし髪をど派手に染めるのは個性がないから目だとうとしているだけだ、むしろナチュラルな髪の色を否定しているのだから、髪をど派手に染めることは個性ではない。
せめて学校に行っているのなら、それらしい振る舞いをすればいいが、しかし個性個性と言っているわりには、自分たちの将来を傍観していて、将来にたいして半ばあきらめの境地もある。こいつらが多少おとなしくなるのは就職が決まるある一定の期間だけ、あとは楽しく騒いで過ごすというのがDQNの生き方だが、こういう奴らにとって勉強の優劣よりも目立つか目立たないかが問題で、ボクシングや格闘技というのは、こういう人間の受け皿になることもしばしばある。
勉強ができない、個性がないような人間が、ただ目立ちたいからと言って、こういう特別なスポーツをする、しかしこういう人間に格闘技をさせるのは勘違いの元、時にはそれが刃物を与えるような結果となることもある、大事なのはその群れの中でしか通用しないルールを教えるのではなく、教養を身につけてコモンセンスを理解することである。

話はボクシングの話になるが、日本人はよく防衛何回とかと言うことを問題にしているが、V何とかってそんなに重要なのかと思ってしまう。
アメリカではヘビー級のチャンピオンが一番有名なのは一番大きいからだ、パッキャオがあれだけアメリカで有名になれたのは、彼が階級をどんどんあげて行って大きい相手をことごとく倒して行ったからで、欧米諸国では大きいものに向かっていくことが、人々から賞賛されるのだ。
聖書の中にダビデの話がある、ダビデというのはイスラエルが一番繁栄した時代の王様であるが、彼がまだ少年だった時に敵国の有名な大男を石投げの道具をつかって倒したという記述がある。この記述はボクシングの試合でも時々引用されるのだが、この物語の重要なポイントは大きいものに向かって行ってそれを倒すということである。
たぶん欧米人は子供の頃からこういう話を聞いているので、強いものを倒すとか大きいものに向かっていくということが強さの象徴としてDNAの中にあるのだと思う。
だから減量をして小さくしていって、自分の階級を守るなんていうことは、たいして偉大なことではない。私がよくわからないのが減量の過酷さを、それがかっこいいかのごとく自慢げに語る奴だ、おそらく減量の苦しさとか過酷さをあれだけ強調するのは日本ぐらいで、そういうことを自慢げに言うとバカだと思われてしまう、しんどかったらやらなければいいのだ、第一そこまで過酷な減量にどれだけのアドヴァンテージがあるのかわからないが、そんなことは科学的に説明できない、その説明できないことを必死でやるのは得策とは思えない。
ボクシングというのはかなり古い歴史があるらしい、テレビではローマ時代からあるなんて言っているが(私は実際はアメリカ建国時代ぐらいからだと思っているが)、しかし歴史はあっても科学的な要素は少ないと思っているが、日本人の減量のとらえかたが、まさにそうではないだろうか?
それでも日本はほかのスポーツの影響からか、なるべく学問的な要素を取り入れて、論理的に物事を考えようと試みているが、しかし致命的なのは語学力がひくいということ、語学力がひくいとこの時代はダメだ、理解がとぼしくなる。特にオリジナリティなんて持つことはできない、だからほとんどサルまねで終わってしまうのだ。
最初の話に戻るが、かっこいいからとか目立つからやるというのはサルまね。
あまりかしこくない、個性がないからこういう単純なことで目だとうとするが、しかしそれは本当にみじめで恥ずかしいことだ。












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