脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

競技を英語ではCompetitionと言う

2018-05-19 | Weblog

この前のブログでうちのクラブは有機的組織であると言うことを行ったと思う。有機的組織と言うのは組織の雰囲気が緩やかであり、しがらみも少なく自由な雰囲気の組織をさす。また明文化された規則は少なく、あっても拘束力は弱い。そのため構成員は自らが何をするべきか考えなければならない。組織内の階層は不明確であり、権限も分権化されている。不安定であったり変化の激しい環境に置かれている場合には、構成員が柔軟な発想で臨機応変に問題対処する事に有利である」と記述されているが、縦ではなく横のつながりを重視するのも組織であることの特徴である。と言うことを説明したと思うのだが、これとは反対に機械的組織と言うのがある。機械的組織と言うのは文字通り上からのルールが自分の行動を決めるのであって、そこには厳格なルールや決まりごとがあるのが特徴である。スポーツでいえばロシアとか中国のような社会主義国はまさに機械的組織なので、上から言われたことをただがむしゃらにやっていたらそれでいい。時には人権なども顧みられることもなく、ただそれだけをすることを求められるのだが、私は日本もどちらかと言うとスポーツはこの社会主義的なにおいがすると思っている。

私は実際にアメリカでスポーツを競技して感じたことは、アメリカは競争社会であると言うことだ。ハワイのような小さな州でもトーナメントごとに新しい強豪がふって出てくる。ゴールデングラブで優勝した奴が次からみんな俺の首を狙ってくると言っていたが、まさにアメリカは競争社会で、そういう国で競技できたことは非常に楽しかったし面白かったと思う。日本はどちらかというと競技者を成長させることに重きをおくが、アメリカは競争させて勝ち残っていったものだけが選ばれるというシステムだ。日本でよくあるのが生活の管理をするためか半ば強制的に競技者に寄宿生活をさせてその競技に没頭させると言うやり方、本人たちは人を育てているつもりだろうが、私はこういうやり方に人権無視だと問題を感じる。日本はスポーツにおいては機械的組織であると言わざるを得ないのだが、日本はアメリカのように競争させない、こういう組織が存在するから監督が半ば暴力や人権を無視したやり方でないと競技者は育たない。監督やコーチの人権無視はまさにこの社会主義的なようなシステムが人権無視を生み出すのもので、こういう状況で監督のパワハラだけをを問題にしてもシステムをしっかりさせないと、逆にその競技自体が弱体化するおそれがあると思っている。

日本は今スポーツの過渡期である。組織自体は今までの縦社会である機械的組織から個人の自由度の高い有機的組織へと移行しつつある中、競争の原理へとシステムをかえていかなくては弱体化していく。今優秀だと言われているスポーツ指導者がパワハラなどでつるしあげられているのは、まさにそういう指導者でないと競技者を育てることはできない現実を物語っている。スポーツ指導者のメンタルとシステムに問題があるのだ。

セルジオ越後と言う日系ブラジル人が書いた本で「補欠廃止論」と言うのがある。大まかにいえば個人が所属できるチームの数を増やして、競技者がレベルに応じて競技できる機会をつくれと言うのがこの本の趣旨であるが、まさにこれは競争の原理である。日本人は人を育てると言うが、しかしスポーツでいうところの育てると言う意味は教育とは大きくかけ離れている。企業でもそうだが、今世の中が組織に有機的であることを強く求めている時代に今までの日本のようなやり方では通用しない。これからはアメリカやスポーツ先進国に見習って競争させるシステムをつくる。そのためには指導者の古い考え方を頭から一掃して、再構築する必要があるだろう。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« もうひとつのボクシング | トップ | ニーチェはあわない »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事