脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

モ・クシュラ

2021-05-12 | Weblog
コロナウイルスが拡散していますが、はっきりいって安全な場所などありません、どこで何をするにも注意が必要です。ジムでは必ずマスク着用、道具を使用した後はアルコールで消毒してください、ジムではなるべく大声での会話はさけてください。感染しないとと言う視点だけではなく、感染させないと言う視点を持って、注意して行動してくださるようお願いします。

ALS嘱託殺人ALS嘱託殺人事件と言う事件があった。これは未だ余罪などもあって、ニュースにもなっているが、発端は2019年ALSにかかった患者が生きることに絶望し、SNSを通じて医師に安楽死を依頼した、そして依頼されて薬物を投与し殺害したことによる。このことは後に安楽死について考えるひとつの問題的にもなったようだが、しかしそのいきさつはいささか短絡的であったように思える。
記事を読んでいて時々引っかかる言葉がある、それは主治医ではなかったと記載されていることである。おそらく殺人幇助ではなく、殺人となっているのはそういう観点からであると思われるが、主治医ではないことで何が問題なのかと言うと、今回の医師がとった行為は致死薬を点滴に注入して患者を死に至らせたわけだが、今の日本の法律では、医師が致死薬を患者に注射して死なせる「積極的安楽死」や、医師が致死薬を処方し、患者がそれを飲んで自殺をする「医師ほう助自殺」は認められていないそうだ。しかし司法判断では、ある一定の要件を満たせば、医師が致死薬を患者に注射しても違法にならない場合があるらしく、例えば「その人の苦痛から解放するために他の手段がない」いわゆる緩和ケアでなされているような苦痛を取るための医療処置、そういうことを全てやった上で、それでも苦痛が取り除けないということが条件にそういうトリートメントが主治医の元、あくまで患者との関係性があれば認められるケースもあるようだが、主治医ではないということはそういう判断がゆだねられることはない、それが殺人行為にもあたると言う判断であろう。

だから患者の治療はもちろん、病状の診断すらしていない人を死なせるための知識や技術を持っている医師がSNSで知り合った人間に依頼されて薬物投与をして死に至らしめるのは安楽死以前の問題であると言う意見もある。
確かに法律的に基づいたらそういう考え方もあるだろうし、司法の判断では殺人となるであろう。しかしその考え方は医療や司法を中心とした見方で、個人の立場から人間の尊厳については語られることはない。いきさつは短絡的ではあったが、しかしそこはもっとその人が現実的に戦ってきて安楽死を望んだいきさつや意見がある。そこには本人の闘病生活、そして生きる目的や価値って一体何なんだろうと悩み葛藤し、望んで選んだ決断であるのに、司法で殺人として裁かれたならばそれこそその人はうかばれない、そこに尊厳はあるのだろうか。確かに死ぬ権利なんて言うことを議論することはバカらしいことかもしれない、しかし人間が人間らしく尊厳を持って死を選ぶことも場合によっては尊重されなくてはいけないことも、今われわれをどうとでも生かせる医療が進んだ時代だからこそ見えてくる課題ではないかと思う。

しかし勘違いしないでほしいのは五体不満足ではダメだ、絶望的だと言うことでは決してない、実際にそういう状態であっても星野さんと言う絵描きの人は口で絵をかくことで、人を励まし、生きる証をきざんでいるし、そのことはその人にしかできない貴重なことである。私が言いたいのは人間が尊厳を持って生きるとはどういうことかということで、究極的に言うならば、その命は最終的には私なのか、そして医師などの医療機関で働く人たちにゆだねられるということかと言うことであり、これらはかなりデリケートでコントロバーシャルな問題と思う。

最後に、昔見た映画でヒラリースワンク主演のミリオンダラー・ベイビーと言う映画がある。これはアカデミー賞受賞した映画であるが、物語は一人の女性ボクサーと年老いたトレーナーの物語、トレーラーハウスに住む貧しく、誰からも相手にされない女性が、そのトレーナーと出会いボクシングをはじめる、そしてそこで才能が開花されて、勝ち続けていくのだが、しかし世界戦でラウンド終了後に相手選手が放った反則パンチからコーナーにあった椅子に首を打ちつけ骨折し、全身不随となる。そしてボクシングができなくなり、完治の見込みがないマギーは家族に見放された事から人生に絶望しトレーナーに自殺幇助を懇願するが断られる。私はえげつないと思ったのはそれができないと自分で舌を噛み切り自殺を図ろうとしたことで、ボクシングができない目的をうしなった死のうとする彼女に、その時人間が尊厳を持って生きるとはどういうことかと思わされたことは確かである。
結局フランキーは苦しみ続ける実娘のようなマギーへの同情と、宗教的なタブーとのはざまで苦悩したものの、最後はガウンに綴られたモ.クシュラ(My darling, my blood )に込めた気持ちを伝え、人工呼吸器を止めマギーにアドレナリンを過剰投与し姿を消すのだが、正直私はこの映画を見て人間はただ生きているだけではないのだと言うことを実感させられたことは確かである。

安楽死は英語ではEuthanasia、ドイツ語ではeuをオイと発音するのでそのまま読むとオイタナジイヤである。

Reference
Million Dollar Baby



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