脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

チョウムロ アルゲドゥン サラン

2016-01-02 | Weblog

韓国の番組でフィマン(希望)TVと言う番組がある。これは俳優や女優が10日間ぐらい発展途上国に行ってそこでボランティア活動をする番組である。送った動画をコピーして見てみたらわかるが、https://www.youtube.com/watch?v=j9JStRwMGYs俳優や女優のボランティアとは言っても実際に目を覆いたなるところまでTVは入って行く。たぶん日本だったらあそこまでえげつない現実をテレビを通して伝えることはないだろう。栄養失調の子供のぼろぼろになった手を泣きながらさする女性、あまりにひどい現実を目の当たりにしてどうしていいのかわからずにショックで泣き出してしまう男性、そういう現実を俳優や女優を通して伝える映像は非常にインパクトがある。私は韓国人は差別主義者と思っていたし、今でもこういう番組があるからと言ってすべてがそうだとは思わない。しかし少なくとも彼ら彼女らが現実を目の当たりにし、子供の手を泣きながらさすったり、強く抱き合うシーンを見たら韓国人も変わった、地球規模で人を思いやる心は日本人よりも高いとさえ思わされてしまう。

聖書の話にgood samarianと言う有名な物語がある。これは旅の途中で強盗に会い半殺しにあって道端に倒れているユダヤ人を誰が解放し助けたかと言う話だ。最初に通りかかった宗教家と教師はこの男を見て面倒だから通り過ぎていったが、しかし後に来た混血児のサマリア人で当時差別されていた人間がこの男を救ったと言う話である。私はこの物語を読んで最初不思議に思った。おそらくこのサマリア人は日ごろユダヤ人に差別を受けていたのでユダヤ人のことをよくは思わなかったであろう。にもかかわらず男はユダヤ人を助けたのであるが、なぜ助けたのであろうか?しかし原書でそれを見ていくとその男の助けた理由と言うかなぜ助けたのかと言うことを理解することができた。英語ではその理由を同情したから助けたと言う風に書いてあった。しかしこの同情すると言うのは原書ではスプランクニゾマイと言う言葉でこの言葉はスプランクナ(内臓)が語源である。日本語でも断腸の思いと言うような言葉があるが、この言葉が意味するのはいいとか悪いとか関係なく、ただ倒れている人間を見て感情がゆれうごいてそうさせたと言うことである。少し乱暴な言い方であるが人を助ける時にそれがいいとかわるいとか、そういう高度なことを考えて行う正義はえせくさい。大事なことは感じることだ、かわいそうだ哀れだと思うからこそ人間の心が動かされ人を助けようとするのではないか。人を助けることは理屈ではない、近くに行ってかわいそうだ哀れだと感じることが大事なことだ。韓国人のアドバンテージはここ最近世界各国に出ていっていることで、おそらくそういう経験が世界で起こっているいろいろな問題を感じ、彼ら彼女らの心のキャパを広げたのだと理解している。私は日本人は素晴らしい民族だと信じて疑わないが、しかしやっかいなのは一つの言語しか話せない。宗教的センスがない。単一民族でその世界しか知らないと言うところでいわゆるセンサーが鈍感すぎるところである。世界ではいろいろなことが起こっている。英語を話すこと、宗教的なセンスを持つことそして他民族のことを理解することはある意味そういうところのセンサーとなる。もちろんかわいそうだと思うことはそういうことができることとは無関係であるが、しかし東京オリンピックも開催されるのだから道徳ではなくコモンセンスを理解するためにそういうセンサーをみがくことは必要なことである。日本に来た外国人は日本人は親切だと感動する。でもしかしセンサーが疎く心が鎖国状態なのでこの思いやりが世界に発信できないでいる。

テーマ曲はDavichiのTo Engelと言う曲であるが、この詩がなかなかいい。

  

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