脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

The Critique of Pure Reason(純粋理性批判)を考える

2022-09-27 | Weblog
カントという哲学者は有名である。そして彼の書いた”The Critique of Pure Reason”(純粋理性批判)は有名であるが、カントは人間の正しい行い、道徳についてこう述べている。まず人間の行為を導く主観的な法則を格律と言っているが、これは自分の生き方のポリシーであり、自己の幸せを目標にした自己のルールである。しかし私がこうしたいからこうすると言うルールは道徳としての客観的法則を満たすことがない。そこでカントは要求や条件があって何々するのではなく、普遍的に考えても絶対正しく、無条件にできる行為を道徳と呼び、そこに導く絶対的に正しい命題を”categorical imperative”(定言命法)といったが、おそらくそれは聖書の十戒のおきてのようなものであるのだろうと思う。
うちのクラブは乱暴な人間の入会はお断りしている。いわゆる世間でいうところのDQNや見るからに半グレ臭がただよってくるような輩であるが、そういう人間は縄張り意識が強く、目立ちたがり屋で自分たちだけが目立とうとするので、ジムに来たらジムの雰囲気が悪くなり一般の会員の人たちがトレーニングしにくくなるからだ。私はクラブの秩序を考えるとき最も重要視してるのはその人の持っている感覚である。元気にあいさつができるとか間違った敬語でも目上の者に服従を示すような態度が示せても、もともともっている道徳センスがすれているような人間は何か問題を起こしたり、害になったり、不審がられたりするものだ。これはある従業員たちの話であるが、私はその従業員たちに問題を感じているところがあるのだが、昼休み一斉にアイドリング、くわえたばこで歩いてくる。その他詳しいことは書けないが、かなり我々と道徳的な感覚がずれていて不快感を持っている。道徳的な感覚が違うと同じテリトリーで共存するのは難しい。例えばルームシェアをしたときに一方がルールというか当たり前のコモンセンスを守っているのに、一方はゴミをちらかし、夜中に音楽をかけて騒ぐ、友達を連れてくるというような行為をするともう一方は非常にストレスを感じるだろう。後者の人間はそれが当たり前のことでちょっとぐらいいいじゃないか、同じルームメイトだろぐらいに思っているのだろうが、しかしまじめな人間にはストレスとなる。障害のある人たちがとめる専用スペースに堂々と駐車する。とめるなというと他に空いていないとか、すぐ帰るとか言い訳をする、くわえたばこももし子供が歩いていてあたったらとかそういうことが考えられないのだろうか。想像力がなく、言い訳ばかりの世界で生きている。そういう感覚を持った人間をDQNと呼んでいるが、そういうコモンセンスのかけた輩とは共存できないし、ジムに来ると害になると思っている。
最初に提言命法について説明したが、正直宗教的な感覚なくしてはその定言命法とやらを実現するのはむずかしいと思っているが、しかし何が正しいか悪いのか、そしてこういうことしてはいけないというのは格律において定義されるような恣意的な考え方から生まれてくるものではなく、その人が持って培われてきたセンスや経験からくるものだと思っているが、私はそのことは家庭でもそうであるが、学校生活をまじめにやってきたかどうかということとは無関係ではないと思っている。うちの会員の人たちは学校生活をまじめに送ってきた人が大多数である。何をやっていいか、わるいかの基準をしっかりもっていて、世界観も仲間程度ではなく、しっかりと一般のコモンセンスを考えて行動できる人たちだ。そういう人たちが集まるとそのコミュニティは管理しやすく、自発的に譲り合いや協力が出てくることを実感している。ホームページで私がひたすら文章をつかってジムの考え方やジムの様子などを表現しているのは、そういうまじめな人たちがジムに来てほしいからだ。

参考文献「カント入門」石川文康  ちくま新書 1995

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