脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

Papio hamadraysなやつら

2021-02-15 | Weblog
ジムに入る前は体温をチェックします。37度以上はジムでトレーニングできません。入ったらアルコールで手と指先を消毒してください。アルコールは70%から75%のものを使用しています。 ジムではマスクを着用してトレーニングしてください。尚マスク着用に関してご事情のある方は遠慮なく申し出てください。

うちのクラブは平和である。平和と言うのは暴力的な要素がない、ヘタレやびびり、そして女性も安心してトレーニングできる環境だということだ。
そういう平和な環境でジムを運営していく上で招かれざる客がいる。もちろんDQNはそうだが、やっかいなのは目立とうとする元ボクサーとか格闘技経験者、そういう人間に限って1、2回勝ったぐらいの小さな実績を針小棒大に語って自慢する、特にうちのような未経験者が多いジムではそういう話しを刃物のようにちらつかせてアドバンテージをとろうとするのは近寄りがたいし、厄介である。
こういう類の人間は自分の存在感を認めさせる居場所を求めているから厄介だ、過去の吹けばとぶような小さな栄光、コンプレックス、ルサンチマン、はっきり言って管理者がアホで同じような性質だと、こういう厄介な輩を集めやすい。こういう類の人間は世の中ではたいしたことがない、認められないのがわかっている、わかっているけれども認めたくないから数で集まって常識や価値観をかえて自分たちの常識や世界観を通そうとしている、それゆえにこういう輩が集まると仲間意識が強くなり、結束がかたくなるのだと思っている。こういう人間がジムに集まって来て跋扈したらまわりに迷惑がかかる。はっきりいって自分の時間をつくってせっかくジムに来てトレーニングをしているのに、たかだかボクシングをやっていたというだけの人間に気をつかわなくてはならないのかわからない。健康維持やダイエットよりも競技者が上だとダイエットを軽く見ている人間がいるが、健康維持やダイエットの人も仕事のためそして自己管理のために一生懸命努力しているし、むしろ仕事のために自己管理できるのはプロフェッショナルとして尊敬されるべきことだ。ものさしが小さい自分が人よりも上になることだけしか考えていない、人を尊重できない人間ははっきり言って迷惑だ。

Papio hamadraysなやつらは、かりそめの強さを強調するが、しかしすべてのことは対極にある、弱さがわからん人間に強さなんてわかるはずがない、強くなりたい=暴力は害だ、本を読まない、勉強しないからそういう発想でしか物事を理解できないのだ。武勇伝を語ってアドバンテージをとろうとする人間は自分の存在を認めさせることしか考えていない、所謂相手を認める、譲るということができない未熟な人間である。そういう人間が何人か存在したら、ジムの雰囲気はわるくなる。私は人間が強くなるのは、弱い人間が集まることだと思っている。ひとりびとりは弱い存在であるが、弱いからこそその人の弱さがわかるのだ、その弱さを認めて互いを思いやり、助け合う気持ちを持って集まることは大きな力になると信じている。
ヘタレ大歓迎と言うのは弱いからその人の弱さや気持ちがわかり、そしてそういう安心できる場ではその人が持っているそのビビりやヘタレ度が思いやりや気づかいと言うアドバンテージにかえられるからだ。うちのジムが平和なのはヘタレやビビりが多くて、それを認めることができるからだ。


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今日読んだアーレントと10年後に読むアーレントは違う

2021-02-15 | Weblog
予備校の講師ではないのだが、中高生から英語の質問をされたり、受験の相談をうけることがある。だいぶ前に勉強がはかどらない、自分は理解力がとぼしいのではないかと悩んでいた子に相談された。おそらく彼女に関して言えばふたつのことが問題になっていた、ひとつは受験は今と言うスパンで理解を求められること、彼女は要領がいいとは言えないのでそれについていけていない、小説が好きだと言っていたので、機械的に覚える日本のそういうシステムにあわないのだろう、もう一つの要因はそういったことで余裕をなくしているのか、閉塞感が伝わってくる。おそらく今自分は勉強しなくてはいけないというようなそういう雰囲気であったと思う。その時私は彼女にもう少し余裕を持った方がいい、今はまだ追い込む時期ではないので、オフの日をきちんとつくって自分のやりたいことをやることも大事だと言うようなことをアドバイスしたと思う。

勉強しているすべてのことは日常と無関係ではない、英語や国語、そして歴史や化学すべてのことは我々の生活とかけはなれたものではなく、関係しているのだ。机にすわってそれを理解するだけでは限界がある、運動をしたり、いろいろな人と話して経験値をあげることは大事なことだ、家に引きこもって勉強してもそういう経験値がひくいと行き詰ってしまう、受験勉強だけではなくたまにはスポーツをしたり趣味に興じることは大事なことだ、日常の経験値をあげることで理解が深まることもたくさんある。学校でも帰宅部よりも運動をする人の方が勉強できると言う話はよく聞くが、やはりそれはただ机に座って勉強するよりもいろいろなことを経験したほうが理解が深まるということを示唆しているのだろうと思う。

前に大阪のおばさんは会話でいきなり「あのな買ってん(この前言ってた)、安かったわ、赤いから気にいってん」と意味不明なことを言ってくると言うことを言ったが、これも動詞をいきなり前にもってくるので一種の倒置であるが、大阪のおばさんは日常でよく普通に倒置を使っている。倒置と言うのを文法上で理解すると参考書で見る限りはすごくややこしいものだ、しかし日常では普通に使われているのであって何ら複雑なものではない、ただ言いたいことを言っている表現にすぎない。机にすわっているだけならば文法上の理解しかできないので行き詰まることもあるだろう、しかし少し発想をかえて倒置は文法じゃなくて会話、そうとらえるとまた違った理解の仕方ができると思っている。

学問すると言うことにおいて日常的な経験値を高めることは不可欠なことだ、これは私の経験でもあるが、今わからないと思っていたことも5年、そして10年に理解できるようになる、それは勉強とは別の経験値が理解の幅を深めて理解することに結び付いているからだ。さらに言うと今読んだ本を10年たって読み返したら内容が違う、読書も自己啓発とか前回言ったスポーツ選手の小学生レベルで読むものではなく、難解で10年後に読んだら内容がかわるそういう生きた言葉で書かれた本を選ぶことだ。

さらにスポーツしかできないと言うのは論外であるが、もし人間がパスカルの言う考える葦であるとしたならば、スポーツをしたり、趣味に興じたり、人と会話して楽しい時間を過ごすと言うことは、その人間の考え方や人間の幅を広げる上では非常に大事なことだろう。今わからないと言うのは理解力の問題ではなく、経験値の問題である。受験は今を問題にしているが学問は今ではなくこの先未来を問題にしている、だから受験で志望校に入れなくてもダメだと思わない、受験は今理解を求められているので個人差があるが、しかし長い目で見て、この先経験値を積んでもっとさらに自分が進歩していくことで同じ到達点にたつことができるのだと言うことを信じてほしい。うちのまわりには多くの受験生がいるが大学に入ると言うことは勉強しに行くのだから、今と言う受験のスパンで自分をはからず、個人差はあっても到達点は同じ、ダメな人間なんていない、それが遅いか早いの差、自分、いや自分の未来を信じて、自分を大事に学問を続けて、学生生活を精一杯エンジョイしてほしいと願っている。




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