脱あしたのジョー

MTオリーブフィットネスボクシングクラブのブログ

指導者の質は読書の量できまる

2020-03-04 | Weblog
若い人には難しい本を読めと言っている。特に先人が書いた難解な哲学書や思想などの本を読めと言っているが、難しい本と言うのはまず読んで何を書いているのかわからない少々時間をかけて読まなくてはいけない書物だ。私も実際最初読んだ時はちんぷんかんぷんだった。当時安直なんて今ほど出ていなかった時代であったので、本当にそれを読むのには苦労したと思う。私の本は時々角がへっこんでいたり、多少まがっているのがあるが、それらは難しすぎて理解できないのでおこってたたきつけたあと、哲学書なんかはすごく難しくて、最初俺の頭では無理と思ったものだ。しかし読んでいくうちにその著者に同調したり反発したりしていくうちにいつの間にか客観的な自分と言うものが出てくる、その時ようやくこの本は何を書いているのかということが多少なりとも理解できるのである。難解な本は先人が悩み悩んで書き綴った本である、こういう本に真剣に取り組み格闘することによって本当の考える力が養われるのだと思う。
世の中を生きていくと自分ではどうすることもできない、試練や理不尽なことがたくさんある。人間はそういう経験を重ねることで成長するのだが、その試練に乗り越えていく時に力になるのが、本を読んで身につく考える力である。そしてその力は社会で困難にあった時にそれを乗り越えて行く力となるのだが、こういう力を若いうちに養っておくことは非常に大事なことだ。

私自身もバイレイシャルということで悩んだ時期がある。今では何か国語かしゃべるのでかっこいい、二つの文化を持っているので国際的だいうことを言われているが、しかし当時は差別や偏見と言うものがあって、今のようにかっこいいとかアドヴァンテージと言うようなうけとられかたをすることがなく(その言葉にはうんざりしているが)偏見と言うものがあって、実際に私は両方から差別をうけたことがある。今ではバイレイシャルはテレビでももてはやされて活躍する時代になっているが、しかし少し前はバイレイシャルは差別の対象、確かにくやしさをばねにしてスポーツをがんばるとかいうのもあるが、しかしそういうルサンチマン的な発想は人間の心を豊かにはできない、よってそれは本当の解決とは導かないだろう。人間は考える葦だ、よって自分のことは自分で悩み解決していくことに意味があり、それが人間、私に与えられた課題だと思っている。

私が救われたのは弁証法的な思考。弁証法と言うのはテーゼとアンチテーゼを同時に考えて真実を導き出すと言う考え方だが、この考え方が今の自分を救ってくれたと信じている。簡単に言うと大雨が降ったらその大雨は時には災害になるが、しかしその災害が去った後にはその大雨が川をうるおし、大地に恵みを与えると言ったような一見自分たちには不利益に見えても、実はそうではない。それと同じようもし自分がすごくいやなことや悲しいことがあって、その時なぜ自分にだけそんなことがおこるんだ、あるいは自分はなぜこんな運命のもとに置かれているんだと悩むかもしれない。でもしかしそれらのことは自分を成長に導くためで、その試練が過ぎ去った時、本当に自分は大きく成長するんだ。だから今のこの試練は自分のためのもので、それを乗り越えるためにここ存在しているんだと思うことで、自分の生き方の見方がかわり、前向きに人生を考え、受け入れることができた、そうして今まさに誰よりも私は自分の生き方を肯定して生きている。人間は生きていく上で必ず試練と言うものにぶちあたる。そしてその試練にぶち当たった時に考える力が必要で、哲学的思考を持つということは非常に大事なことであり、そういう思考を持つためには若いうちから頭を耕さなくてはならない。

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