ここ何年か前から小学校に英語教育が取り入れられているらしい。
うちの子供も、そういうことを意識してか「これ英語で何ていうか」ということを聞いてくる。
よく小さいころから英語を覚えさせて、バイリンガルにしたいという親の話をよく聞く。
理由はグローバル化が進んでいく中で、共通語を覚えさせることがアドヴァンテージであるということから、小さい頃から英語を教育するが、しかし自分は、小さい頃から日本語をきちんと学ぶせず英語を覚えさせることに関して、いささか懸念がある。
よく日本人は自分の意見をはっきり言わないということから、欧米社会に見習って英語を覚えさせることが、欧米社会とつながりを持ち、その中で自分の意見をはっきり言えるようになるからだと言うが、しかしはたしてそうであろうか?
自分の言いたいことを言うのと、自分の意見を言うことは違う。
時々、English is toolと言う言葉を聞くが、英語と言うのは国際語ではあるが、そのコミュニケーションの単なる道具にすぎない。
もちろんそれが母国語である人たちにとっては、それはそれなりに深い意味があるのだと思うが、しかしわれわれには「English is tool, thats it」である。
以前日本に来て日本語を覚えた外国人が、自分の言いたいことを恥じも外聞もなく述べる討論番組があった。
それはあるテーマにそって自分意見を述べるのであるが、あれは意見と言うよりも自分の言いたいことをただ行っているだけである。ひどいのになると、人を押しのけてまでも自分の言いたいことを行っていたが、ここまでくれば日本語に対する冒瀆である。
日本語と言うのは、奥の深い言葉である。
たとえば有名な正岡子規の「柿食えば、鐘がなるなり法隆寺」という俳句がある。
これは正岡子規が、奈良の茶屋に立ち寄った時に、時を知らせる鐘の音を聞いて、一句うかんだところを俳句にしたのであるが、柿と言う言葉からも、季節感がつたわる風流な一句である。
おそらくこれを英語に訳し伝えたところで、相手にしてみれば「エッどうしてそうなるんだ」という疑問の答えしかかえってこないと思うが、これは自分たちが日本の中で育ち、季節と言うものを肌で感じているからこそ、このように単純とも思える句が心に染み入るのであって、言葉というものは、そういう自分たちの生きている季節感や、生活感、あるいは心の状態というものを表しているのである。
言葉と言うのは単なる道具ではない、自分たちのアイデンティティに深くかかわるものであって、この言葉に深くかかわるからこそ、本当の意味でのアイデンティティが備わってくるのではないかと思っている。
自分の意見をはっきり言うということは、まず自分が何者かということをはっきりさせなくてはならない。
自分がいったい何なのかという、アイデンティティがあるからこそ、自分の立場がしっかりしてくるんであって、その自分が何者かと言うことは自分が生まれた国、そしてそこで語られる言葉と深くかかわってくるのではないだろうか。
余談ではあるが、英語教育を専攻している人がラテン語を勉強するが、たぶんそれは簡素化された英語の意味を言葉のルーツによって深めるためである。
うちの子供も、そういうことを意識してか「これ英語で何ていうか」ということを聞いてくる。
よく小さいころから英語を覚えさせて、バイリンガルにしたいという親の話をよく聞く。
理由はグローバル化が進んでいく中で、共通語を覚えさせることがアドヴァンテージであるということから、小さい頃から英語を教育するが、しかし自分は、小さい頃から日本語をきちんと学ぶせず英語を覚えさせることに関して、いささか懸念がある。
よく日本人は自分の意見をはっきり言わないということから、欧米社会に見習って英語を覚えさせることが、欧米社会とつながりを持ち、その中で自分の意見をはっきり言えるようになるからだと言うが、しかしはたしてそうであろうか?
自分の言いたいことを言うのと、自分の意見を言うことは違う。
時々、English is toolと言う言葉を聞くが、英語と言うのは国際語ではあるが、そのコミュニケーションの単なる道具にすぎない。
もちろんそれが母国語である人たちにとっては、それはそれなりに深い意味があるのだと思うが、しかしわれわれには「English is tool, thats it」である。
以前日本に来て日本語を覚えた外国人が、自分の言いたいことを恥じも外聞もなく述べる討論番組があった。
それはあるテーマにそって自分意見を述べるのであるが、あれは意見と言うよりも自分の言いたいことをただ行っているだけである。ひどいのになると、人を押しのけてまでも自分の言いたいことを行っていたが、ここまでくれば日本語に対する冒瀆である。
日本語と言うのは、奥の深い言葉である。
たとえば有名な正岡子規の「柿食えば、鐘がなるなり法隆寺」という俳句がある。
これは正岡子規が、奈良の茶屋に立ち寄った時に、時を知らせる鐘の音を聞いて、一句うかんだところを俳句にしたのであるが、柿と言う言葉からも、季節感がつたわる風流な一句である。
おそらくこれを英語に訳し伝えたところで、相手にしてみれば「エッどうしてそうなるんだ」という疑問の答えしかかえってこないと思うが、これは自分たちが日本の中で育ち、季節と言うものを肌で感じているからこそ、このように単純とも思える句が心に染み入るのであって、言葉というものは、そういう自分たちの生きている季節感や、生活感、あるいは心の状態というものを表しているのである。
言葉と言うのは単なる道具ではない、自分たちのアイデンティティに深くかかわるものであって、この言葉に深くかかわるからこそ、本当の意味でのアイデンティティが備わってくるのではないかと思っている。
自分の意見をはっきり言うということは、まず自分が何者かということをはっきりさせなくてはならない。
自分がいったい何なのかという、アイデンティティがあるからこそ、自分の立場がしっかりしてくるんであって、その自分が何者かと言うことは自分が生まれた国、そしてそこで語られる言葉と深くかかわってくるのではないだろうか。
余談ではあるが、英語教育を専攻している人がラテン語を勉強するが、たぶんそれは簡素化された英語の意味を言葉のルーツによって深めるためである。