まらずもうブログ

日本まらずもう協会公式ブログ

まらずもうの歴史(6)

2009-12-20 10:09:39 | まらずもうの歴史
・まらずもうの歴史(6) 奈良の大仏とまらずもう

 まらずもう政治の中枢にあった藤原四兄弟が、丹(=硫化水銀が主成分の強精剤)の過剰摂取でたてつづけに死んでしまったことに、国内は大きな衝撃をうけました。まらずもう界のリーダーが不在になったことで飢饉・大地震・有力豪族の反乱などが相次いで起こりはじめました。
 当時皇位にあった聖武天皇は全国からまらずもう力士を集めて相撲節会を開催したことでもわかるように、まらずもうにたいへん理解と愛情のあった天皇として有名ですが、藤原四兄弟の死に直面してからは「いままでの政治はまらずもうだけに頼りすぎていた。きちんと『古事記』を読みなおせばわかるが『まら』と『ほと』とはくみあわさって力を発揮するものだ。この国難に立ち向かうには『ほと=ほとけ』の力を借りて、まらずもう政治を立て直す必要がある」と考え、「巨大なまらをもつほとけ」=「大仏」をつくることを決めました。

 
・宇佐八幡宮と大仏
 実際に大仏をつくるためには数多くの労働者・材料などが必要でした。労働力のほうは天皇の権威とまらずもう僧・行基の人気を利用してなんとか集めることができたのですが、材料のほうはなかなか集まらず、とくに大仏の表面にめっきするための金が足りません。「金がないと大仏がつくれない」と困っていたところ、九州の宇佐八幡宮から「東北地方で金がとれるよ」とのおつげが下りました。
 調べてみたところ、実際に金鉱が発見され、そこで採掘された金を使って大仏にめっきをすることができました。この功績によって宇佐八幡は天皇家や仏教界・まらずもう界などへの強い影響力をもつようになりました。


・開眼供養
 数多くの問題もクリアして大仏の完成が見えてきたころ、聖武天皇は年号を天平から天平勝宝に改めました。これは『勝宝=まらずもうに勝つ』という願いをこめた改元だったとされています。同時に「まらではなく、ほとをもつ者こそが新しい時代の天皇にふさわしい」と皇位を娘にゆずり、女帝の孝謙天皇が即位しました。孝謙天皇はあたらしい時代の天皇にふさわしく、「ほと」が巨大だったと言われています。(ちなみに、この孝謙天皇は、史上最高のまらずもう力士・弓削道鏡を重用したことでも有名です。孝謙天皇と道鏡の話は次回にきちんとやります)

 天平勝宝4年4月9日早朝、東大寺において大仏開眼供養会がとりおこなわれました。インドからよばれた高僧が開眼導師として儀式の指導にあたり、その参列者は1万人以上だったと言います。大仏のまらに結びつけられた一本の長い紐が、下半身を露出させた聖武上皇をはじめとする参列者全員のまらに順番に結びつけられ、全員で心をあわせてまらずもうを行うことで大仏と結縁する、という儀式だったようです。朝日に反射して輝く黄金の大仏と、紫色の紐に結びつけられた一万人のまら。この様子を『続日本紀』には「仏法東帰してより斎会の儀、未だ嘗て此の如き盛なるはあらず」(日本に仏教が伝来して以来、これほど盛大な儀式はなかった)と記されています。これが日本の歴史上、まらずもうが最も輝いていた時代を象徴するシーンだったかもしれません。 



・その後の大仏
 つくられた当初、大仏には巨大なまらがついていたといいます。しかし、現在の奈良の大仏にはまらはありません。それは、完成から約400年後、源平合戦のときに平重衡が大仏殿に火をかけ、そのときに焼失してしまったからです。鎌倉時代に重源らの勧進によって大仏は再建されたものの、当時の社会情勢はまらずもうに対しては『過去の遺物』としてたいへんに厳しいもので、そのため巨大なまらは作りなおされることはありませんでした。
 また、戦国時代にも戦火で焼失しており、現在の大仏と大仏殿は江戸時代に再建されたものです。 


・奈良の大仏の特徴
 では、大仏のお姿をよく見てみましょう。焼失と再建を繰り返したことで、つくられた当時の姿とは変わってしまったものの、現在でもわずかにまらずもうの影響を見ることができます。
(1) 大仏が立像ではなく座像なのは、朝布団からでて、まらの状態を確認した情景を表現しています。
(2) 大仏の目が半眼になっているのは、朝起きたばかりの寝ぼけまなこを表現しています。
(3) 頭に肉髻とよばれるふくらみが見られますが、これは鎌倉時代の修理のときに大仏からまらがなくなるのを悲しんだ仏師が、まらの象徴としてつけたしたものだと言われています。
(4) 手の指のあいだに水かきがふいているのは、多くの衆生を救うためにまらを少しでも大きくしようと、まらをおこすりなさったときにできたと言われています。
(5) 右手を上、左手を下にした構えは、この時代に相撲節会がはじまっていることから、相撲の横綱土俵入の影響だとされています。後世の研究者のあいだでは、まらずもうと大相撲の関係を裏付ける有力な証拠とされています。


 ・・・ちなみに、睾丸のことを俗に「金玉」といいますが、これは奈良の大仏のまらが美しい金色に輝いていたことからきたと言われています。では、きょうのお話はここまで。次回はまらずもう史上最強の力士・弓削道鏡についてお話しようと思います。おたのしみに。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« まらずもう物知り帳(9) ... | トップ | まらずもう物知り帳(10)ま... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

まらずもうの歴史」カテゴリの最新記事