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まらずもうの歴史(13)

2019-03-25 12:00:00 | まらずもうの歴史

まらずもうの歴史(13) 元号とまらずもう

 

 いよいよ4月1日に新元号が発表され、5月からは新しい元号になるそうです。

 日本で初めて元号が使われたのが、645年の『大化』。この元号は「大化=大きく化けた」という文字を見ればわかるように、まらずもう占いによって名づけられており、これ以降、飛鳥・奈良時代の元号は、まらずもうにちなんだものが多く見られます。ということで、今回はこの時代の元号とまらずもうの関係について概観してみましょう。

 

・飛鳥時代の元号

 まずは飛鳥時代の元号について見てみましょう。飛鳥時代は天智系と天武系の血筋のあいだで皇位が行き来していた時代です。天武系の天皇が、まらずもうに理解と愛情を示していたのに対し、天智系の天皇はまらずもうに冷淡で元号制定にも消極的な傾向があります。

元号 天皇 父系 始期 いわれ
大化 孝徳天皇   645年 まらが大きくなった 
白雉 孝徳天皇   650年 精液が飛ぶのを白い雉に見立てた
元号なし 天智など 天智 654年  
朱鳥 天武天皇 天武 686年 雉は発情すると顔が赤くなる
元号なし 持統など 天智 686年  
大宝 文武天皇 天武 701年 大きなたま
慶雲 文武天皇 天武 704年 雲=朝まらがふくらむようす
和銅 元明天皇 天智 708年 不明


・大化

 日本史上初めての元号として名高い「大化」。中大兄皇子や中臣鎌足ら青年貴族たちが蘇我氏を倒すクーデターの密談をしていた際に、突然勃起したものがおり、それを吉兆としたことから名づけられました。ちなみに、見事な勃起で歴史に名を残した青年貴族は、高向玄理(たかむこのくろまろ)。玄理は勃起の角度にすぐれ、美しい黒まらの持ち主であったといわれています。

 

・白雉

 大化の改新のとき、中大兄皇子らに担ぎ上げられて皇位についた孝徳天皇ですが、天皇と中大兄の仲はだんだんと険悪になっていきます。お飾りとしてなんの実権も持たされず、不遇をかこつ孝徳天皇は白い精液を飛ばして憂さ晴らしをするくらいしかできませんでした。その様子を白い鳥に見立てて名づけられた元号が、白雉。孝徳天皇の不満を象徴するような元号です。

 

・元号なしの時代

 孝徳天皇の死後、中大兄皇子が母(斉明天皇)を天皇にたてて完全に政権を握ったあとは、元号をたてられることはありませんでした。斉明天皇の死後、中大兄皇子が天智天皇として即位すると、まらずもうへの締め付けを強め、まらずもうの影響のつよい飛鳥から、影響の薄い近江への遷都を敢行するなど、「そこまでやるか」というくらいまらずもうをパージする政策をとります。天智天皇も若いころは優秀なまらずもう力士としてまらずもうを活用していたのに、この急な政策転換は大きな謎です。まらずもうになんらかの危険性を感じたのかもしれません。

 天智天皇の死後、天智の子・大友皇子と、天智の弟・大海人皇子とのあいだで後継者争いの戦争が勃発しました。これが有名な壬申の乱。戦いはまらずもう占いを活用した大海人皇子方の大勝利に終わります。大友皇子はまらずもう嫌いの父・天智天皇の影響もあり、まらずもう占いを軽視していたことが敗因とされています。

 

 

・朱鳥

 壬申の乱に勝利した大海人皇子は、天武天皇として即位。都を近江から、まらずもうの本場・飛鳥に戻します。天武天皇は天智朝の時代にパージされていたまらずもうの復権をめざし、元号を復活させました。その元号が朱鳥。雉は発情すると顔が赤くなることから名づけられました。

 

・元号なしの時代

 天武天皇の死後に即位したのが、天武の妻であり、天智の娘でもある持統天皇。持統天皇は女性だったため、また天智の娘という血筋の影響もあったでしょう、まらずもうへの理解が薄く、元号を制定しませんでした。

 

・大宝

 持統朝の時代に廃止された元号を再度復活させたのは、天武天皇の孫である文武天皇です。「大宝律令」で有名なこの元号の由来は「巨大な睾丸」。文武天皇の巨大な睾丸から名づけられました。

 

・慶雲

 中国では古くから男女の情交を婉曲的に言い換えた表現として「雲雨」という言葉が使われてきました。「朝は雲となり夕には雨となる」という漢詩のフレーズがもとになっており、雲はまらが雲のようにむくむくとふくらむさま、雨は女性器がしとしと湿るようすを表していいます。慶雲は文字どおり「めでたい勃起」という意味になります。

 

・和銅

 文武天皇のつぎに即位した元明天皇も、持統天皇と同じように天智天皇の娘です。天智系の女帝であったため、まらずもうへの理解は薄く、まらずもうとはあまり関係のない元号をつけたようです。

 

 

・奈良時代の元号

 天武系の天皇が皇位をにぎりつづけた奈良時代。まらずもう史上最強力士・道鏡を輩出するなど、まらずもうの黄金時代といわれています。この時代の元号もまらずもう占いの影響を強く受けていますが、天武系の血筋が絶えるとまらずもうの影響がだんだん小さくなっていきます。

元号 天皇 父系 始期 いわれ
霊亀 元正天皇 天武 715年 神々しいまら
養老 元正天皇 天武 717年 老人が勃起した
神亀 聖武天皇 天武 724年 神聖なまら
天平 聖武天皇 天武 729年 天をしずめるほどの勃起
天平感宝 聖武天皇 天武 749年 感じやすいまら
天平勝宝 孝謙天皇 天武 749年 すぐれたまら
天平宝字 孝謙天皇 天武 757年 文字どおりまら
天平神護 称徳天皇 天武 765年 ちんこ→じんご
神護景雲 称徳天皇 天武 767年 ちんこがふくらむようす
宝亀 光仁天皇 天智 770年 宝物のようなまら
天応 光仁天皇 天智 781年 不明
延暦 桓武天皇 天智 782年 不明

 

・霊亀

 平城京への遷都がおわって5年後、さいしょの改元でついた名前は霊亀。文字通り、神々しいまら、の意味です。元正天皇は天武天皇の娘。女帝として生涯独身を通しながらも、まらずもうに対しては深い理解を示しました。

 

・養老

 養老の滝、の故事で有名な養老。美濃国のとある老人が突然勃起し、まらから精液が滝のように噴出したことにちなんで改元されました。元正天皇は老人のもとまで行幸し、まらを愛でながら「美泉なり。もって老を養うべし。蓋し水の精なればなり」と声をかけられたそうです。

 

・神亀

 意味はもちろん「神聖なまら」。 聖武天皇はまらずもうへの理解と造詣が深い天皇として有名であり、のちにまらの象徴として、東大寺の大仏をつくらせました。現在の大仏は江戸時代につくりなおされたもののため、まらは目立ちませんが、当時の大仏は金色に光るそれはみごとなまらだったそうです。

 

・天平

 奈良時代の最盛期を象徴するような元号として知られる「天平」。瑞亀(めでたいまら)の出現を機に「天をしずめるほどのまら」という意味で「天平」名づけられました。この時代は数年ごとに改元されることが多かったのですが、天平は21年という異例の長さになりました。

 

・天平感宝

 「まらも元号も長いほうがよい」というおつげのもとに元号の文字数が増えました。天平感宝の「感宝」は感じやすいまら。ここからしばらくは四字元号の時代がつづきます。

 

・天平勝宝

 聖武天皇が崩御して、あとをついだのが娘の孝謙天皇です。女帝ながらまらずもう好きな天皇として有名で、まらずもう占いの最盛期をつくった名君として知られています。「勝宝」の意味は「すぐれたまら」。この時代に奈良の大仏の改元供養が行われました。

 

・天平宝字

 「宝字=文字どおりまら」の意味です。この時期の歴史はちょっと複雑です。

 女帝の孝謙天皇はまらずもうの重要性をよく理解していました。まらずもうが好きなのに、自身ではまらずもうができない孝謙天皇は、稀代のまらずもう力士・道鏡を重用し、さまざまなまらずもう政策を採用していきます。

 そして、「やはり天皇本人にもまらがついているほうがよい」と考えていちど天皇の位を退位します。独身の孝謙天皇にはこどもがいなかったので、親戚の淳仁天皇にあとを継がせました。しかし、淳仁天皇はまらずもうに興味を示さず、元号も「天平宝字」のまま変更せず、まらずもうにちなんだ改元すらしようともしませんでした。それに怒った孝謙上皇は淳仁天皇やその側近の藤原仲麻呂を追放して、もういちど称徳天皇として天皇に即位しなおします。(つまり、孝謙天皇と称徳天皇は同一人物です)

 

・天平神護

 藤原仲麻呂や淳仁天皇らの反対派を倒し、まらずもうの危機を守った称徳天皇と道鏡。まらずもう占いを神の護りであると感謝の意をこめて「天平神護」と改元します。「神護」は「ちんこ」に音の響きが似ていることもあり、ある意味ダブルミーニングとなっています。

 

・神護景雲

 『景雲』は「雲のようにむくむくと大きくなる朝まらの景色」の意味です。

 「まらずもうができる天皇」という称徳天皇の悲願を達成するため、天皇は道鏡に皇位をゆずることを考えますが、これには反対意見が多く、和気清麻呂の暗躍もあり、この計画はつぶされてしまいました。(=宇佐八幡宮神託事件)  道鏡への譲位計画の失敗以降、称徳ー道鏡のまらずもう政権は徐々に力を失っていくことになります。

 

・宝亀

 称徳天皇の死後、彼女にこどもがいなかったため天武系の血筋が絶え、ひさびさに天智系の天皇として即位したのが光仁天皇。まず最初に行ったのが、道鏡の追放と、まらずもうの影響の強い四字元号を廃止することでした。ただ、完全にまらずもうの影響を脱することはできなかったらしく、折衷案としてついた元号は「宝亀」。宝物のようなまら、の意味です。

 

・天応

 光仁天皇時代のふたつめの元号。しいていえば「天の反応」という意味でしょうか。まらずもうの影響はだいぶ弱くなっており、朝廷のまらずもう離れが感じられます。

 

・延暦

 光仁天皇のあとをついだ桓武天皇はまらずもう離れを加速させます。延暦というまらずもうと関係のない元号をつけ、延暦3年には平城京から長岡京(京都府向日市~長岡京市あたり)への遷都、さらに延暦13年には平安京(京都市)への遷都と都を、まらずもうの中心地・奈良から遠ざけていき、まらずもう勢力の分断を狙いました。こうして、まらずもう政治は終焉を迎えました。(平安遷都後のまらずもうについては→まらずもうの歴史(9) を参照してください。

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