半透明記録

もやもや日記

それはあるいは真理である

2007年09月20日 | 読書ー雑記
私はときどき人から「どうやってそんな(見たことも聞いたこともない)本を読もうと思うのか?」というようなことを聞かれることがあります。

そういった質問に対して私は「読んでみたくなるから」という実に簡単明瞭な回答をいたすのですが、あまり納得してもらえないこともあります。たしかにこれでは納得できないかもしれません。

もっと詳しく言うと、図書館や本屋の棚の前をうろうろしていると、ひとりでにある書物が私の前に現れて「読め」と言ってくるのです。精神の世界なのです。そういう本は、読んで間違いはありません。それはもう絶対です。しかし、同じ本でも「読め」と言ってこないときもあります(そういうときのほうが多い)。不思議なんですけど。

上のような説明ではまだ納得できないでしょうか。もうちょっと言います。
あるいは私もごく普通に、いろいろな方がなさっている本の紹介を読んだりするので、「なるほどー」とか「面白そうー」とか思ったりするわけですが、そのなかでも特に「これは!!」というものが、そういう瞬間があるのです。そういう本も、読んで間違いはありません。それはほとんど絶対です。

そういうわけですから、私が読む本には面白くないものはないのです。いえ、面白いから読むのです。
では、読んでみて面白くなかったことはないのかと言われれば、実はあります。しかし、そういう本というのは、私が「それほど読みたくないけど、教養のために」とかなんとか消極的な気分で読んでしまっている場合に限ります。これはほんとうにそうです。
つまり、「読みたい」という気にさせる本というのは、もうすでにその時点で面白いので、読んでみてつまらなかったというようなことにはなりません。そして、多くの場合は、私の「面白そうだから読んでみたい」という期待以上に面白かったりします。そのあたりは、私はたいへんに幸運だと思います。

読書を好む多くの方からは賛同を得られるのではないかと思うのですが、そうでない方もこの説明で納得いただけたでしょうか。どうでしょうか。



ところで、こうやって読書をしてゆくと、ある決まった道筋ができてくるようなのです。

私はときどき下に挙げたような暇つぶしとしか言い様のないことを考えたりするのですが、

それはたしかに美しい』(2006年4月の記事)
美しさについてまだまだ考える』(上の翌日の記事)

こういうことを考えるから、そういう本を読むのか、それとも、そういう本を読むから、こういうことを考えるのかは分かりません。ですが、これらはたしかにひとつの繋がりを持っているのです。


先日もまたある物語と出会いました。
武者小路実篤の『真理先生』という小説です。ちなみに最近売れている漫画の『絶望先生』というのをこのあいだ読みました。それが面白かったからこちらを読んでみたくなったわけではないのですが。どこかでこの作品を紹介している文章を読んで、タイトルからして興味を惹かれたのです。

そして読んでみて私は、どうやらあるひとつの道の上を歩いている、あるいはその道から近いらしい脇道を歩いている自分を発見するのでした。私には、これ以上にすがすがしいことはないです。
物語の感想についてはまた後日。


結局のところ、私は怠け者なのでたいして調べもしなければ、探しもせずにぼんやりとうろつきまわり、しかし「何かいいものはないだろうか」と熱望しているところへ、物語は向こうから「お前、私を読みなさい」とやってくるのです。それがたまたま今ではあまり名の知られていない物語であったりすることが多いというだけのことです。そして、向こうからやってくるくらいですから、その物語には何か誇りとか自尊心とか溢れる自信のようなものがあるらしく、実際その通りに立派だったりするので「ほんとうだなー」とか「すごいなー」と言うだけなのですが、成長したがっている私は、私を成長させたがっている物語によって、ちゃんと成長しているのでした。そしてもっとその道へ近付いていく。


分かるような分からないようなことを言っていますが、しかし何かを愛好するというのは読書に限らずいずれもこういう感じになるのではないでしょうか。
楽しくてやっているうちに、なんかこういう風になってた。というような。当人以外にはそれがよく分からないんだけれど、というような。


というわけで、私は必ずしも無名の本をわざわざ選んでいるのではないということでした。むしろ選んでもらっているのは、決定的に無名である私のほうなのだということなのでした。
お分かり頂けたかしら……。

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