そろそろ4年くらい経とうとしていますが、以前オーストリアを旅行した際、ザルツブルクの街のあちこちにスワロフスキ・クリスタルのお店が点在していました。
吸い寄せられるようにほとんど全てのお店を見て回ったのを思い出します。懐かしいなあ。楽しかったなあ。
写真のペンダントとイヤリングはその時に購入したもの。どちらも甲斐性なしの私には分相応のきわめて安価なものですが、精巧にカットされた面が放つ独特のきらめきにはうっとりさせられます。落ち込んだときは、普段は箱に入れてしまってあるのを取り出してじっとみつめて過ごします。不思議なことに、それで元気が出るんですねー。なんでですかね。チカチカと光が反射されるのを見ていると、気が休まるんですよね。ガラスでさえこの威力ですから、これがダイヤモンドとかエメラルドとかいう宝石になったら凄いんだろうなあ、といつも想像しています。
それで、眺めて元気が出たら、また仕舞います。イヤリングは2、3度、ペンダントの方はまだ1度も身に付けたことがありません。せっかくのアクセサリーとしての機能をまったく果たせていないとは、なにかがおかしい気もしますが、私はいつもあまりにも薄汚れた格好をしているので、つける余地がないんですよね。キラキラしすぎなんですよ、これらは。それなりの身なりを要するというか(普段着にさり気なく、という高等テクニックが私などにあるはずもなく)、何と言うか高い壁を感じるんですよね、いやはや。お嬢様に恋い焦がれる庭師みたいな? 当然それは片思い、所詮は高嶺の花よ、遠い星よという感じです。いかに奇麗とはいえガラスでこれですから、私の感受性も相当なものです。王女様クラスの宝石となったら、私の魂はきっとショックに耐えられず破滅へまっしぐらでしょう。おそろしや。買う金がなくて、ほんとうに良かった……!
ごくまれに凄く頑張ってイヤリングをつけたことがありますが、その時にはなにか哀愁のようなものが漂いました。「あっしなんかと一緒に歩いたんじゃ、街の者に誤解されますぜ…」というような、なんで私が奇麗な色付きのガラスのことでここまで卑屈になるのか分かりませんが、そういう生活の哀しさが滲み出てしまっていけません。やはりこういうキラキラした美しいものは、それに見合う堂々たる美しい人に相応しい。私はそういうのを物陰からこっそり見つめたいものですね。
というわけで、私としてはただ持って眺めてあれこれ妄想するだけで満足なのですが(←どうやら「妄想」ということが私を元気づけるようですね)、ペンダントとイヤリングの方ではすぐにでも主人を替えたいと思っていることでしょう。……不憫な!
追記:書いた後で気が付きましたが、この心理こそがこないだのチェーホフの短篇集の「農奴あがり」じゃないでしょうか。憧れと、ちょっぴりの哀しさと。そうかも、そんな気がする。
やはりこういうキラキラした美しいものは、それに見合う
堂々たる美しい人に相応しい。私はそういうのを物陰からこ
っそり見つめたいものですね。
これだ、これ。だからおじさんは、黙って彼女を見送って、目には涙を輝かせながら、そのあとひっそりと笑ったんだな。なるほど、やっと分かった。やっぱ凄いな、チェーホフは。
私も笑えてきた。なんかすっきりした。奇麗なものは、大丈夫なんだ。良かった。奇麗だから、いつかちゃんと自分で自分の役目を果たすことができるんだ。そうか、そうか、ワハハ!
十代のころはキラキラした宝石の良さは皆目分からなかったのですが、やっぱり光るものを観ていると、それだけでウキウキと心が躍りますね。
このイヤリング、拝見したことがあるような…昨年末に着けていらっしゃった?
ntmymちゃんはとてもお洒落さんですし、似合いますよー!
しかし、やはりキラキラしてるものっていいですよね♪