半透明記録

もやもや日記

『心の平静について』

2007年11月09日 | 読書日記ー実用
前回『人生の短さについて』のつづき



《内容》
質素と倹約を最高に愛しながらも、同時に豪華な贅沢にも惹かれてしまうという自らの心の弱さを告白するセレヌス(セネカの友人。エピクロス主義者。63歳の時、毒きのこを食し死亡)に答えてセネカが語る。


《この一文》


“ルクレティウスが言うように、
   誰でも彼でもこんなふうに、いつも自分自身から逃げようとする
 のである。しかしながら、自分自身から逃げ出さないならば、何の益があろうか。
人は自分自身に付き従い、最も厄介な仲間のように自分自身の重荷となる。それゆえわれわれは知らねばならない―――われわれが苦しむのは環境が悪いのではなく、われわれ自身が悪いのである。 ”

“国民の務めを怠ったというのか。とすれば人間の務めを行うがよい。”

“或る薬は嘗めなくても触れなくても、ただ香りだけで効目があるが、徳もそれと同じように、遠くからでも隠れていても効果を発する。”

“特に避けねばならぬ者はいる。それは陰性で、何ごとにも嘆きを発する者たちであって、この者たちにかかっては、どんなことでも不平の種にならないものはない。たとえ誠実や好意は一貫していても心も安定せず、何ごとにも溜め息をつく仲間は心の平静にとっての敵である。”

“次に財産のことに移ろう。それは人間の苦難をもたらす最大の原因である。”

“財産を持たないほうが、失うよりもどれほど苦痛が軽いか。貧乏には失う原因が少ないだけ、それだけ苦悩も少ないことを知らねばならぬ。”

“率直さのゆえに軽蔑されても、そのほうが、絶えず虚勢を張って苦しむよりもましである。だがわれわれは物ごとに節度をもつべきである。率直に生活するか軽率に生活するかの差は大きい。”

“心には寛ぎが与えられねばならぬ。心は休養によって、前よりも一層よき鋭さを増すであろう。肥えた畑は酷使してはいけない。つまり、一度も休耕しないで収穫だけを上げるならば、畑はたちまち不毛の地に化するであろう。”


“何か崇高な、他をしのぐような言葉を発するには、心の感動がないかぎり不可能である。心が俗事や陳腐なことを軽蔑するとともに、聖なる霊感を受けていよいよ高く舞い上がれば、そのときこそ遂に、心は死すべき人間どもの口には崇高に過ぎる歌を吟ずるに至る。心が或る高く険しいところにあるものに達するには、正気であるかぎり不可能である。”





さあ、前回に引き続き、怒濤の大引用です。
おお、素晴らしい、ふるえるぞハート! 燃え尽きるほどヒート!
まったくもってセネカ先生のおっしゃることは、あまりの鋭さで私を貫きます。

貧乏がなんだ!(時間のバーゲンセール。フルタイムのパート労働者)
国に務めを果たせないからってなんだ!(私はただ税金を納めているだけである)
人類のための務めを果たせばいいじゃないか!(そうだ!)
うわーーん!!

と、もう明日にも職を辞して隠遁生活者・学究の徒と生まれ変わらんと、興奮する私でした。


だがしかし、ここでふと「そういえば、セネカ先生はどういう人だったのだろう?」と、気になる。
素性も分からぬ人の言葉にそこまで心酔するなよ、という意見もありましょうが、重要なのはその人の素性ではなく思想そのものなのですよ。

以下、あとがきによってまとめる【セネカ先生は こんな人】

*セネカ(ルキウス・アンナエウス、前5/4-後65年)。

*政治家。
  えっ!? 「国政よりも人類のために」って言って……あれ?

*30歳でローマの財務官の地位を得、色々とキャリアを積み、
 弁論によって名声を博す。

  まあ、この頃はまだ先生も若いから……。
  
*陰謀にはまって、流刑になったりする。
  ちょっと第一線から遠のいた。気の毒。

*クラウディウス帝死後の一連の勢力争いの結果、隠退。
 莫大な財産を皇帝に譲渡しようとするも拒否される。

  ……!! 莫大な財産……!?
  いや、それを「譲渡しようと」したんだよね、はあはあ…;

*ネロ暗殺に加担したとの嫌疑をかけられ、自殺を命じられる。
 死に際して、
 “一番近くにいた奴隷たちに湯を振りかけながら、
  「私はこの湯を解放者ユピテルの神に捧げる」と言った。”
 と伝えられる。

  ど、奴隷……? そうよね、ローマだもんね。
  奴隷だなんて、当たり前よね。……でも、でも……うぅ…
  最期まで財産家だった…先生!!


というわけで、セネカ先生は、そのお言葉は実にもっともなのですが、ご自身は社会的・経済的にみて、かなりの「選ばれし者」だったようです。

ぎゃふん。

「貧乏のほうが良い、って言ってたじゃん!!」という怒りの声は遠い過去にも挙がっていたようですが、セネカ先生としては


財産はないよりもあるにこしたことはない。
ただ、そのために自分を幸福とは信じない。
幸福は別のところにある。

だそうです…。ふっ。
いや、まあ分かるけど……。


こんな感じで、セネカ先生の人生を拝見すると、ちょっと意気消沈してしまいました。まあ、あるとも知れぬ能力を発揮しようと当てもない挑戦をするよりは、私は自分に出来ることからやるのが良いという結論ですね。やはり経済は必要である…。

しかし、さっきも書きましたが、セネカ先生の素性はどうあれ、その思想はたしかに、これからも私を励ましてくれるには違いありません。
そうだとも。


でも、もうひとつ収められている『幸福な人生について』は、また今度読むことにしよう…。いや、なんとなく…。
と、さっそく陰性な私であった。

 

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2 コメント

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Unknown (epi)
2007-11-11 16:04:17
こんにちは。
そうそうセネカってじつは大富豪だったんですよね。そんな人に倹約や禁欲のすばらしさを謳われても当事者の気持が理解できているのかと思ってしまいます…。でも金なんてつまらんものだ! というためには人は大金をもってみなければならないわけで、だからセネカの言うことはやはりまっとうなのかもしれません。

でも禁欲って難しい観念ですよね。「金なんてくだらない」といって金銭を稼ぐことに淡白になるより、金欲しさに一生懸命働いて、でも報われない(ワーキング・プアと呼ばれる人々)ことのほうが最初から見切ったり諦めたりしていないぶんある意味ずっと禁欲的な気がしますし。

山の頂上で孤独に瞑想に耽る人生より、世間の波にもまれる人生のほうが過酷だ、と思います。
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そうなんですよね~ (ntmym)
2007-11-12 15:56:31
epiさん、こんにちは!

金なんて…と言えるためには、まず生活の安定が必要で、その生活の安定のためにはやはりいくらかは金が必要なんですよね; 今のところ。
結局、金が今のように機能している限りは、人類はなかなかセネカの言うような境地には辿り着けないですね。悲しいなあ。

低所得者をどんどん増やすことで儲けている人間がいるとするならば、せめて、その人はそのゆとりを有効に活用して人類のために働いて欲しいものです。くだらないことに浪費するのではなく。
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