半透明記録

もやもや日記

高き力

2007年02月03日 | もやもや日記
すっかり忘れてしまったと思っていても、無意識のうちに確かな繋がりを築かれているということもあるようです。


以下、私がすっかり忘れてしまったと思っていた、ある詩。


”あなたのなかで私は生きる、あなたが側にいなくとも。
 自分だけでは死んでいる、現にここに在りながら。
 どれほど遠く離れていようと、あなたはいつも側に在り、
 どれほどこの身が近かろうと、それだけでは私は不在。
  私が自分のなかよりもはるかにあなたのなかで生きるゆえ 
 自然が侮辱を受けたと感じるとしても、
 平然と働き、私のこの罰当たりの肉体に
 魂を注ぎ込んでくれる高き力が、
 自分だけでは本質を欠いたままである魂と見てとって、
 あなたのなかで拡充してくれる、これが最大限可能な大きさと。

   モーリス・セーヴ「デリー 144番」(『フランス名詩選』岩波文庫)より”


そうだった。
いや、そういう意味だったんだ。やっと分かった。
2年程前、これを読んで「いいなあ」と思ったことは、しかしすぐに忘れてしまったけれども、私は底のところではきっと忘れてはいなかったのだ。今日また偶然にこの一節と再会してみると、どうしてあの時の私がこれを気に入ったのかが、とても良く分かる。
あの頃の私は既に「私のこの罰当たりの肉体に 魂を注ぎ込んでくれる高き力」を意識しはじめていたに違いない。



こんな感じで、なんだか妙に感激しました。
私は実は運命とか巡り合わせとかいうものを切実に信じています。その時、それと出会うということは偶然ではありません。その時には何気なく通り過ぎたとしても、後になってみると必ず、出会わなければならなかった理由が、そうしなければならなかった理由が分かるのです。

私の行く道には、こういうスイッチが至る所に隠されているので、それを見つける楽しみが夢のように広がっています。

最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
再会 (M)
2007-02-04 01:02:06
よくわかります。どんな出会いも再会だ、みたいな言い方をぼくはします。
じつは、そのときは無数の出来事を経験しているのですが、その中で本当に選ばれるのはほんの一部で、しかも時間を隔てて、ということが多いのです。
それは偶然ではなく、必然だと思うのです。最初の、意識されなかった偶然の出会いを必然化する(運命に変える)再会があるのだと思います。

本当に出会うために何十年もかかるときもありますね。

ところで島尾敏雄の「死の棘」はどうでしょうか。
返信する
ですよね (ntmym)
2007-02-04 09:24:22
Mさん、こんにちは!

「あ、これは!」と気が付いた時には、とてもすがすがしいですよね。偶然が必然になる瞬間を意識しはじめると、生きてきたことにも、これから生きていくことにも、意味があるように思えてきます。
過ぎ去った時間が重なれば重なる程、あることが必然して現れてくる頻度が増すかもしれないと考えると、私はとにかく長くしぶとく生きていたいと思うようになりました。

ところで、島尾敏雄は今は「出孤島記」の最初のところを読んでいます。なんだかやたらとパワーを必要とするので、この人の作品はなかなか一度に幾つもは読めない感じです。
「死の棘」はまだ読んでいませんが、同じ本のもう少しあとのほうに収められています。最近まで島尾敏雄を知らなかった私も、そのタイトルだけは知っていたくらいですから、有名作ですよね。読むのが楽しみです!
返信する

コメントを投稿